従来の教会が持たれがちだった「お堅い」イメージから一線を画し、時にふざけた、時にまじめなツイートで、クリスチャンに限らない人気を集めている上馬キリスト教会(東京都世田谷区)。今回はTwitterの「まじめ担当」で信徒の横坂剛比古(よこさか・たけひこ)さんに、キリスト教をはじめとした宗教と、現代の日本人が持つ宗教観についてお話を伺いました。

上馬キリスト教会Twitterの「中の人」が語る、日本人と宗教の関係とは

教会には誰が来てもいい。クリスチャンではなくても


――教会らしからぬ親しみやすいツイートが人気の上馬キリスト教会ですが、Twitterはどのような意図を持ってやっているのでしょうか?

横坂:意図としては敷居を下げることですね。現代の日本では宗教に対して「自分たちとは違う世界のもの。お酒も煙草もやらないような聖人君子のもの」というイメージを持たれている方が多いかと思います。ですが実際にはそんなことはなくて、クリスチャンであっても、みなさんと同じように遊ぶし、お酒も飲みますし、時には悪さもする、普通の人がやっているものです。もし興味があれば日曜日の礼拝にもいらしてください。


――クリスチャンではなくても行っていいのでしょうか?

横坂:もちろん。教会は誰が来てもいい場所です。クリスチャンじゃなければ来てはいけない場所ではありません。「仏教徒なんだけどいいですか?」と見学しに来る方もいます。クリスチャンじゃなければいけない教会はたぶん日本にはないと思います。あったとしたら、多分カルトか何かなので行かないほうが良いですね。


――「誰が来てもいい」というほどオープンな場所であるにもかかわらず、多くの日本人が教会に対して、敷居の高さを感じてしまうのはどうしてなのでしょうか?

横坂:ひとつは日本人の宗教観ですね。日本の文化に強い影響力を持っている神道では、八百万の神、たくさんの神様がいるという考え方をするので、キリスト教やイスラム教のように唯一の神を信じる考え方が馴染まない部分はあるのだと思います。

――多神教と一神教の違いですね。

横坂:もうひとつの理由としては、自分をどこかに所属させることをあまりしたがらない、日本人の性質があるのでしょう。例えば「どの政党を支持しますか」というアンケートをアメリカでとったら、「俺は共和党支持」「私は民主党支持」と明確な回答がほとんどなんですが、日本で同じアンケートを取ったら、「支持政党なし」「無党派層」という回答が多くなりますよね。それと同じように、日本人は宗教においても「自分はキリシタンだ、仏教徒だ、イスラム教徒だ」と明確にせず、中立でいたいと思う傾向があります。
ミッション系の学校に通い、聖書を読んだりお祈りしたりして、「神様っているのかな」とうっすら思っている人でも、クリスチャンとは名乗らないひとは多いですね。

――確かに。あまりはっきり主張しませんし、はっきり主張する人に対してはちょっと構えてしまいますね。

横坂:なので僕たちも、クリスチャンではない方に対して、「みなさんキリスト教を信じましょう」という踏み込んだ態度は取りません。その代わりに敷居は下げて、ドアには鍵を掛けず開けっ放しにしているので、気になった方は誰でも、いつでも来てくださいねというスタンスです。

上馬キリスト教会Twitterの「中の人」が語る、日本人と宗教の関係とは


宗教は倫理基盤としての役割も果たしてきた


――現在の日本では特定の宗教に対する信仰を持たない人が多くなりましたが、世界の歴史を紐解いてみると、これまでに発生したどの文明にも宗教や信仰があったとされています。人間社会の中で、宗教はどのような役割を果たしてきたのでしょうか?

横坂:キリスト教的な視点だと、もともと人間は神に造られたので、神を求めます。
神様と親しかったアダムとイブは、知恵の実を食べてしまったので楽園を追い出されましたが、その後のケアも神様にしてもらっていますし、神様に対する恐れが本能として組み込まれているんですね。

――「創世記」ですね。

横坂:キリスト教を一旦離れて、人類学的に「宗教とは何か?」という話をすると、ネアンデルタール人の時代まで遡ります。ネアンデルタール人の骨が発見された時、膝と肘の骨を折られ、丸まった姿勢で埋まっているものがいくつか見つかり、そこには花の花粉もたくさんありました。つまり死者を埋葬していたんです。埋葬をしていたということは死後の世界を認めていたということで、そこから最初の宗教が発生したといわれています。



――人間は必ず死ぬ。けれど死ぬとはなんだろう? という疑問の答えとして、宗教が生まれた。

横坂:そうですね。さらに宗教が発生したことによって倫理も作られました。なぜなら、良い人が死に、嫌な奴も死んだ時、両者が行く死後の世界が同じだったら嫌だなと思うからですね。良い人が死んだら天国へ。
嫌なやつが死んだら、あんな奴は酷いところに行ってしまえ! と思い、そこで天国と地獄というものが現れます。すると今度は逆に、天国に行きたいから良いことをする、地獄に行きたくないから悪いことはしない……と、倫理ができていきます。そのようにして宗教は倫理基盤の役割も果たしてきたんです。

上馬キリスト教会Twitterの「中の人」が語る、日本人と宗教の関係とは


「こうしてください」ではなく「あなたに委ねます」という祈り


横坂:日本人は神様に対して「こうしてください」という祈り方をしがちです。神社に行っても、合格祈願や安全祈願など「こうしてください」と祈る。けれど合格を祈願した人全員が合格することはもちろんありませんから「お祈りしたのに落ちたじゃないか!」「神様なんかいないじゃないか!」となってしまいます。

――確かに。みんなの願い事が同時に叶うことはありませんね。

横坂:ですが「こうしてください」という祈り方は、よく見ると上下が逆転しているんです。人間が上になって、神様に命令してしまっている。神様に「こうして」と言い、その通りになったら「ありがとう」、ならなかったら「なんで聞いてくれないんだ」と文句をいう。神様はもともと人間よりも偉いんだから、僕らのいうことなんか聞いてはくれません。

――ではキリスト教ではどのように祈るのでしょうか?

横坂:僕らのいうことは聞いてくれなくても、神様は必ず良いようにしてくれるとクリスチャンは思っています。クリスチャンは神様に対して「こうしてください」ではなく「あなたに委ねます」という祈り方をします。

――「あなたに委ねます」とは。

横坂:例えば子どもが、親に対して「お菓子を買って」とねだっても、その通りに全部買ってもらっていたら、その子どもは幸せにはなれません。自分の願いを全部聞いてくれる親がいたとしたら、子どもは小さい頃から、自分にとって何が必要なのかを考え続けて生きていかなければいけない。「この親、俺が言わなきゃ何も動いてくれない」となったら、それはすごく苦しい。

――なるほど。自分が欲しいものと、本当に必要なものが、いつも同じとは限りませんものね。願いが叶っても、必要なものを正しく願わないと幸せになれないなら、結局どうしていいのか分からなくなってしまう。

横坂:逆に、ときには算数のドリルとか、一見うれしくないものを与えられても、必要なものを与えてくれているという意識があれば、子どもは安心することができますよね。

――それが委ねることの安心感なんですね。

横坂:神様は僕らの願いを叶えるわけではないけど、僕らにとって良いようにしてくれる。必要なものは必要なときに与えてくれると、聖書にはそう書いてあります。

(辺川 銀)