【特集】現役引退から20年
先駆者・中田英寿の記憶(1)
北中米ワールドカップの開幕が迫るなか、日本サッカーの歩みを振り返るうえで、ひとりの存在を抜きに語ることはできない。世界を舞台に闘い、日本代表の価値観を塗り替えた先駆者──中田英寿。
第1回は、中田英寿が日本代表に初招集された1997年から取材現場で見てきたライター戸塚啓氏に、当時の雰囲気を振り返ってもらった。
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「6」のつく年には、日本サッカー界にとって重要なイベントが行なわれている。1996年はアトランタ五輪で、2006年はドイツワールドカップ。2016年にはリオ五輪に出場している。アトランタ五輪出場のインパクトは大きかった。西野朗監督と前園真聖、川口能活、城彰二らが、28年ぶりに世界への扉を開いたのである。高校卒業とともにプロ選手となった「Jリーガー世代」が、日本サッカーを牽引していくことを示した瞬間だった。
本大会では松田直樹と中田英寿が飛び級で招集され、チームはサッカー大国ブラジルを撃破する。「マイアミの奇跡」「世紀のアップセット」と呼ばれる勝利だった。
アトランタ五輪終了後、成長の歩幅を一気に広げたのは、中田である。
所属するベルマーレ平塚で1年目から出場機会をつかんでいた彼は、アトランタ五輪の翌1997年に日本代表に招集される。5月の代表デビュー戦からインパクト大のプレーを見せ、そのままレギュラーに定着し、フランスワールドカップ最終予選を勝ち抜く原動力となった。
当時の私はサッカー専門誌に勤めていて、ベルマーレ担当の同僚は中田の将来性を早くから、それも高く評価していた。中田とコミュニケーションも取れていて、サッカーの話をするのが好きだと聞いていた。編集会議ではいつも熱っぽく中田を推すので、少し引いてしまうくらいだった。今となっては、同僚の慧眼を褒めるしかないのだが。
【何を聞いても素っ気なくて......】
僕自身は1997年の最終予選から、中田を取材していく。
最初に声をかけたのは、アブダビで行なわれたUAE戦の試合前日だった。練習を終えてロッカールームへ戻っていく彼を呼び止めた。当時はまだミックスゾーンと呼ばれる取材エリアはなく、話を聞きたい選手を自分で捕まえていた。
中田はある試合で自身のコメントを切り取って使われたことから、限られたメディアにしか話をしないようになっていた。彼がどんな対応をするのかはわからなかったが、ひとまず立ち止まってくれた。
所属と名前を明かして質問をすると、嫌がる様子もなく答えてくれた。
0-0のドローに終わった翌日の試合後も、足を止めてくれた。前日は僕ひとりで、この日は数人の記者と一緒に囲んだが、言葉は多くなかったものの、質問に答えてくれた。
UAE戦の次は、ホームの韓国戦だった。試合前日に韓国メディア向けの会見が設定され、先方からのリクエストで加茂周監督とカズこと三浦知良、それに中田が出席した。「中田に何を聞いても素っ気なくて、記事にできるかどうか」と、韓国人記者がひどく困っていた。
翌日の韓国戦は、終盤の失点で逆転負けとなった。チームは中央アジアへ遠征してタジキスタン、ウズベキスタンと引き分ける。最終予選突破に黄色信号が灯るなかで、中田のコメントを聞く機会は減っていった。あのジョホールバルでイランを破った試合後も、彼のコメントを直接聞いていない。
1998年のフランスワールドカップを経て、中田はセリエAのペルージャへ移籍した。
イタリアでプレーしている彼の取材機会は、基本的に日本代表の活動期間に限られる。ましてやセリエAで結果を残しているから、その言葉を聞きたい記者が大きな塊(かたまり)を作る。
期せずして、日本代表の取材にはミックスゾーンが導入されていた。ロッカールームからバスへ乗り込む間の決められたエリアで、取材者は選手に声をかけて話を聞く。
【少ない言葉で明確に課題を指摘】
日韓ワールドカップへ向けた日々は、取材者が爆発的に増えていった。選手からすると、所属する媒体も名前もわからないメディアが増えたことになる。コメントする立場では、居心地がいいものではなかっただろう。
中田が足を止めずにミックスゾーンを通り過ぎていく。そんな光景が、なかば当たり前のようになっていった。
彼自身はオフィシャルサイトを立ち上げた。サイトに連動したCS放送の番組もスタートした。自らメディアを持つことで、自分の思いを正しく伝えていった。
僕自身はフランスワールドカップ後にフリーランスとなっていて、選手のコメントありきで記事を書く機会は限られていた。「中田のコメントを取ってこい」と、デスクに指示されることもない。
もちろん、コメントはほしい。そして、「ここはポイント」と思えるような試合後に、中田はミックスゾーンで立ち止まった。信頼関係を築いている記者の呼びかけに応えるのだが、その後ろには何十人という記者が集まる。それも承知のうえで、彼は質問に答えていた。
2002年の日韓ワールドカップでトルコに敗れたあとは、「足りないものはいろいろある。ひと言では言えない。手ごたえはありましたけど、負けたのは何かが足りないから」と話した。
日本を1-0で退けたトルコは、ベスト4まで勝ち上がった。彼らにあって日本に足りなかったものは何か。中田の言葉とともに、4年後のドイツワールドカップへの道のりはスタートしたと言っていい。
ジーコ指揮下では、たびたび苦言を呈した。彼と川口らのアトランタ五輪世代、柳沢敦、中村俊輔、中澤佑二らのシドニー五輪世代、小野伸二らの黄金世代が集結したチームは、1998年よりも2002年よりも優れた個が集結していた。チームのポテンシャルを信じているからこそ、少ない言葉で明確に課題を指摘していった。
現役時代の中田を評して、「孤高」の表現が多く使われた。「群れない」姿がそう言わせたのだろうが、個人的には「高い境地にいる」彼の姿に「孤高」を見た気がする。
ジョホールバルでの練習で、中田はひとり長袖を着ていた。発疹を気づかれないためだった。体調不良に襲われる場面はそれ以外にもあったと聞くが、彼はケガ以外では休養することを選ばず、日本代表の一員として戦い続けた。
そして日本代表としてのプレッシャーを真正面から受け止めて、3度のワールドカップに出場したのだった。

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