「ゴールデンカムイ」6話。今回は「命を取る」ことにテーマを置いた回。
動物を狩るとはどういうことか、生きる相手を殺すとはなんなのか。連発される「勃起!」で笑いそうになるが、主人公である杉元と、アイヌのアシリパ(リは小文字)、元マタギの兵士・谷垣が、生命を奪うことに対して決意を固める、すこぶる真面目な回だ。
「ゴールデンカムイ」6話。全部食べて全部忘れるな、それが獲物に対する責任だ
「ゴールデンカムイ」6巻。表紙はヤバい柔道家の牛山。おでこのはんぺんみたいなのがチャームポイント。おそらくアニメだと8話くらいから出るか?

勃起する!


今回メインになるのは、2つの狩猟チーム。
食べるために鹿狩りをする杉元・アシリパチーム。
白いオオカミ(アシリパの友人レタラ)を狙うマタギの谷垣・二瓶鉄造チーム。

二瓶鉄造は凄腕のマタギ。『羆嵐』の元ネタ・三毛別羆事件でヒグマを退治し、生涯で300頭のヒグマを狩った山本兵吉を彷彿とさせる、豪快な人物(二瓶が倒したヒグマは200頭)。
彼が使うのは旧式の村田銃(単発銃)だ。
この時代ボルトアクション式の連発銃もあるというのに、彼は頑なにこの銃しか使わない。しかもストック用の弾丸を手に持つことすらしない。
こだわり、なんて軽いものじゃない。一発だから命をかける腹が据わるという信念だ。
示現流剣術の「一の太刀を疑わず、二の太刀要らず」と同じ精神だろう。


彼は狩猟を勝負だと考えている。
相手は自然の中で、必死に生きようとする魂だ。
自分も対峙する際は、食われて糞になる覚悟をしている。

だからこそ、卑怯な狩りや獲物の窃盗をする人間を、決して許さない。
「聞こえてるか盗人どもッ この二瓶鉄造が羆を狩るときは殺される覚悟で勝負しているッ 俺を狩るというのならば… 獣の糞になる覚悟は出来ているんだろうな?」

彼はしばしば狩りの話をすると「勃起!」とでかい声で叫ぶ。
自然との戦いの中、魂がこれ以上無く張り詰め、生きるか死ぬかで興奮している。的確な表現だ。

獲物に対して責任を取るということ


一方杉元・アシリパ組の狩りは、シンプルに「食べる」のが目的。
初弾で鹿の急所をはずしてしまった杉元。無駄に苦しい思いをさせてしまったことを悔やんでいる。
なのに今回も、生き抜こうとする鹿を見て焦り、またしても撃ちそこねる。
鹿が傷を追いながら懸命に生きている姿を見て、戦時中がむしゃらに生きようとしていた自分の姿を重ねてしまったからだ。

鹿の死を目の前にした、アシリパの落ち着いた言動から、自然に生きるアイヌの生命への向き合い方がよく出ている。

彼女はうろたえる杉元のかじかんだ手を、さばいた鹿の内臓の中に突っ込ませる。
「鹿は死んで杉元を暖めた。鹿の体温がお前に移ってお前を生かす。私達や動物たちが肉を食べ、残りは木や草や大地の生命に置き換わる。鹿が生き抜いた価値は、消えたりしない」

アイヌは動物を、使えるところは全て使う意識で狩猟している。有名なのは鮭。皮、身、頭、はらわた、骨まで全て利用し、一片も余さないそうだ。
アシリパと杉元は、鹿を食べるために狩った。
どうしても「生きよう」とする生命を殺すのは、罪悪感に襲われてしまう。しかし必要な殺生は無駄ではない、大きな自然の中で価値有ることだ、とアシリパは考える。

だから無駄にすることに対しては非常に厳しい。
鹿を調理して食べた後、「もうオナカいっぱい」という杉元を、アシリパは叱責する。

「懸命に走る鹿の姿、内臓の熱さ、肉の味、全て鹿が生きた証だ。全部食べて全部忘れるな!! それが獲物に対する責任の取り方だ」

狩ることが目的の二瓶組と、命に感謝し自然を食べるアシリパ組の思想は、大きく異なっている。
しかし自然の生命に向き合う際の真剣さは同じだ。どちらも自然に畏怖し、常に敬意を表している。

人間の命


散々人間を殺してきた杉元のような兵隊たちが、なぜ動物を殺せないのか?という疑問はどうしても湧く。
ここが杉元や二瓶、谷垣らが体感している「生きようとする命」への敬意の現れが出ている部分。

二瓶は谷垣に、屯田兵を殺した件についてこう述べている。
「金塊なんぞに目が眩んだ人と人との殺し合いだ。獣を殺すほうがまだ多少の罪悪感がある」
谷垣は人殺しを罪だと思いつつも、実はこの思いに共感している。
マタギの彼は、ヒグマを狩った後に成仏のため引導をいつも唱えていた。
「コレヨリノチノヨニウマレテヨイオトキケ」
しかし彼は、戦争で殺した相手には一度も引導を唱えたことがない。

この作品での生命の価値は、人か獣かの差にはない。

自らの強い信念で、生き続けようとしたか否かが重要だ。
必死に生きた生命なら、獣でも人間でも、深く敬意を払う。
よこしまで欲にまみれた生命には、迷うこと無く杉元たちは銃口を向けるる。

(たまごまご)
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