連続テレビ小説「半分、青い。」(NHK 総合 月〜土 朝8時〜、BSプレミアム 月〜土 あさ7時30分〜)
第18週「帰りたい!」第106回 8月2日(木)放送より。 
脚本:北川悦吏子 演出:深川貴志
「半分、青い。」106話。よほど力がないと家庭とクリエイティブな仕事は両立できないのか
「半分、青い。」 下  文春文庫 北川 悦吏子
ノベライズ 8月3日発売  どんな結末になっているか気になる!

『半分、青い。
』 下  文春文庫 北川 悦吏子


106話はこんな話


2008年、お正月。涼次(間宮祥太朗)に家を出て行ったっきり。鈴愛(永野芽郁)は落胆しっぱなしで、みかねた光江(キムラ緑子)が迎えに行く。

カツ丼と揚げ餅


「今、大変なことになっている『半分、青い。』のコーナーもありますので」と「おはよう日本 関東版」の高瀬耕造アナが紹介した。「半分、青い。」の“コーナー”とは何かもうNHK職員すらバラエティーだかワイドショー感覚で捉えてしまっているように思える。テレビ朝日がワイドスクランブルの一部二部の間に昼の帯ドラマを編成したような感覚だろうか。だからこそ、離婚騒動で重くなった次の回は、食べ物で気分をあげようという趣向なのか、106話には草太(上村海成)のカツ丼、涼次の揚げ餅・・・がでてきて、これはもう“イケメンの作る料理”コーナーというコンセプトのようだ。

そういえば、105回の「あさイチ」は羊肉の特集だった。朝ドラからの画が切り替わったらどーんと肉のアップだった。なぜ猛暑の朝、肉、肉、揚げ物(設定がお正月だから)・・・この間まで三おばたちが素麺食べていたのに。あゝ、素麺、水茄子が恋しい。

まずはぼやきからはじめたが、ドラマはにぎやかに楽しく岐阜のエピソードからはじまった。
草太(上村海成)がつくし食堂のシェフになって経営が盛り返していた。

カツ丼が人気(「あさイチ」ではカツ丼にたまねぎがほしいと語られた)。「草太のカツ丼」には「将太の寿司」を思い出す。

結婚して子供・大地までできて人気シェフとして看板に顔写真をでかでかと載せるまでになった草太。
それはそうと、江川悦子による特殊メイクを施された中村雅俊がどうにも「ちびまる子ちゃん」の友蔵に見えてしょうがない。
漫画のように楽しげな楡野家に対してふと訪ねて来た和子さん(原田知世)の様子を見るに、萩尾家はなんだかたそがれてる感じだ。「病院の帰り」というワードが気にかかる。


娘に慰められる


楽しげにはじまったものの、やっぱり本質は悩み多き主人公の物語。
「貧乏」「パパ帰ってこない」とめそめそして、娘かんちゃんに励まされる。
クリスマス・イブ・イブから出ていったきりなのだろう。誕生日に両親が大喧嘩して父親が出ていって、クリスマス、大晦日、お正月を過ごしたにもかかわらずかんちゃんはたくましい。
鈴愛と涼次は「パパ」「ママ」と呼びあうのではなく名前で呼ぶ夫婦になりたいと言ってた気がするのだが、娘の前だから「パパ呼び」なのか。結局、気づけばパパ・ママという社会的な役割になってしまっていたということで、それもまたふたりの関係にヒビを作ったのではないだろうか。

こんな平凡な僕に


ここで一旦、三おば(キムラ緑子、麻生祐未、須藤理彩)による小劇場ふうコントが挟まれる。
そして光江は麦と共に元住吉の部屋を訪問。
涼次が行くとしたらそこしかないと思ったのだ。
案の定いて美味しそうな揚げ餅を作っていた。
「うまい」と喜ぶ(久々の涼次の手料理が嬉しかったに違いない)元住吉は雑誌で2003年活躍した人になってから5年、まだあの1DKくらいの事務所兼自宅にいるとはなぜなのか・・・秋風のオフィスをちょっと直しておしゃれオフィスを作る制作スケジュール及び予算はなかったようだ。

涼次は光江に「こんな平凡な僕にこんなチャンスが巡ることなんてもう二度とないんだ」と言う。平凡な人間は家庭も仕事も両方を得ることはできない、よほど力がある人しかそれはできないと。
二択を迫られたとき家族を捨てることにした涼次に光江は逆上する。
さすがキムラ緑子、全力でオーバーアクト、その勢いで見せきった。

名プレイヤーに拍手


ここで賢明かつ熱心な視聴者は、ここでもまた鈴愛の言動が返ってきたことに気づくだろう。「こんな平凡な僕にこんなチャンスが巡ることなんてもう二度とないんだ」は100話の「たった一度しかない ここ! 今! って瞬間があるような気がする」という鈴愛の台詞と同じ。
彼女の言うように涼次は「ここ!今!」に手を伸ばしたのだ、やっと。
鈴愛と涼次は似た者同士、そして、元住吉が「『名前のない鳥』を盗んだ」という台詞は61話の律の「最後に僕は鈴愛の夢を一枚だけ盗んだ」という台詞と響きがそっくり。佐藤健も斎藤工も台本の文字から譜面を浮かび上がらせそのとおりに歌を歌うように同じような音で台詞を語る。すばらしいプレイヤーである。


主人公を客観視するのは視聴者の役割


賢明かつ熱心な視聴者はとっくに気づいていると思うが、ドラマの登場人物の価値観がほぼほぼ同じで使うワードも話し方も同じ。ひとりの作家から生まれたものだから似てしまうのは仕方ないし、「私小説」というジャンルだってあるのだから、作家の体験や心情がふんだんに作品に投入されていたって全然いい。私の血はワインでできていると言ったのは川島なお美(「失楽園」のドラマ版に出演した)だったが、作品に流れる血が作家の血であるのはむしろ当たり前。

「半分、青い。」の場合は、「ドラマ全身が私」のような視点の相対化は、双方向メディアとしてのひとつの可能性を探るかのように視聴者に預けているような節がある。拙著「みんなの朝ドラ」でドラマとSNSの双方向性について、ドラマの中に主人公の視点とは違う視点を置かずに視聴者ツッコミを待つスタイルが、「まれ」や「べっぴんさん」などに見受けられたと書いた。「半分、青い。」はその第三形態くらいに進化した気がしている。
涼次が、映画監督をやるために家族を捨てるという選択に関しても、前にもレビューに書いたが視聴者の「異論反論OBJECTION」を待っていると思う。

そのアプローチ方法の良し悪しはここでは問わず、ただただその徹底ぶりには凄まじいものがあるとだけ書いておきたい。手持ちの武器は少なくともそれを無駄なく活用しながら格闘するその姿は、「エイリアン」のシガニー・ウィーバー(巻き込まれた役だけれど)などの女性がひとりで戦う映画を見ているようだ。いやむしろ、シガニー・ウィーバーが戦ったエイリアンの側に近いかもしれない。アウェーな場所で生き残るために戦っているところが。もしくは海から東京目指して猛進していくシン・ゴジラか。

忘れられない電話番号


そして鈴愛は、涼次にもらった万華鏡をぽいっと放り出し、幼い頃から頭にずっと残っている萩尾家の電話番号にかける。携帯時代に家電の番号をまだ覚えているとはよっぽどの絆だよなあと思う。

彼女の向こう側に大きなクマがやたら存在感を放っている。裏話を知りたくない人には申し訳ないが、104話のレビューに佐藤健が永野芽郁にプレゼントしたエピソードから北川悦吏子が台本にかんちゃんが大きなクマをボクテにもらうと書いた裏話を書いた。それを知るとどうもクマに余計なバイアスをかけて見てしまう(ただこれに関して北川先生はツイートしていない)。

り〜つ〜、再登場まであと◯日・・・。
(木俣冬)