その中でもとりわけ批判の対象となっているのが、文芸評論家の小川栄太郎氏の記事『政治は「生きづらさ」という主観を救えない』で、実際に手に取って読んでみたところ、あまりの酷さに頭がくらくらしてしまうほどでした。
通常、評論に対する反論ならば一つ一つ丁寧に反論するべきだと思いますが、あまりに間違いや単なる差別発言が多く、かつ丁寧に述べるほどでもない基礎的なことも多いので、今回は小川氏の文章に「赤ペン」で訂正や指摘を入れるという形で掲載することにしました。20スライドという大変分量が多いですが、ご覧ください。
正直、制作するのに疲れました。社会をより良い方向へアップデートするために、言論を競い合わせるのではなく、様々な人々のリソースが生み出された言葉の暴力を打ち消すことに割かれることは、本当に社会的に損失でしかありません。
社長の声明、まさかのゼロ謝罪!
このような言葉の暴力に憤りを覚えた一部の書店では、新潮社の書籍に対する不買運動を始めたようです。Twitterでは、出版社の公式アカウントを運用する担当者たちが、出版における言論の自由と差別の問題について勉強会を開こうという動きも出ています。
ところが、新潮社の社長・佐藤隆信氏の名義で出した声明は「謝罪」の言葉が一切ありません。「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました」と言いながらも、ありがちな「不快にさせて申し訳ございません」の文言すら無いのです。そして、何よりも、「今後とも、差別的な表現には十分に配慮する」という表現は、打開策を打たない意思表示にしか見えませんでした。
以前、謝罪文が全く謝罪になっていない様子を色分けして可視化するという方法を、『豪雨災害中に自民党宴会、謝罪文の酷さを可視化してみた』という記事で紹介しましたが、この社長声明文も酷かったので、同様に色分けと指摘を行いました。黄色が批判されている点とは異なる点について言及している箇所や不足している箇所、赤色が自社の犯したことに対する責任や改善を放棄する宣言をしていると読み取れる箇所です。
生きづらさを紐解くことこそ言論人の務めである
最後に、小川氏は寄稿文のタイトルのごとく、『政治は「生きづらさ」という主観を救えない』という考えのようですが、私は生きづらさこそ現代社会の課題として、解消せねばならないと思っています。
確かに「(生きづらさについて)何でもかんでも社会のせいにするな!」というのは至極最もですが、個人の努力不足による要因と社会システムによる要因の間に、明確な線引きは出来るはずも無く、非常に複雑に絡み合っています。それを紐解いて、「努力不足ではない社会システムによる要因」を言語化していくことこそ、我々評論を仕事にする者の役割ではないでしょうか?
それを実施するべく、2016年には朝日新聞社WEBRONZAにて、「女性の「自分らしさ」と「生きやすさ」を考えるクロストーク」と題した連続イベントを開催しました。また、ちょうど2018年9月22日に公開したオンラインサロンでは、「生きやすさ解放区」というタイトルで、差別・偏見・ムラ社会意識等が無いサードプレイス(=家と職場以外のコミュニティ)を作る取り組みという次のステップにチャレンジしています。
でも、正直なところ、今後社会は分断して行く可能性が高いと思います。反知性主義と自己責任論と差別と偏見と陰謀論で溢れた世界を生きる人々と、そうではない人々との間に強烈なキャズム(谷)が出来上がり始めていますが、それが修復不能なほどに広がって行くでしょう。この「社会的断絶」は、決してトランプ支持者と反トランプというアメリカの問題だけではありません。
マクロな視点では分断が進まぬよう彼等の抱える闇を社会全体で解消する必要があると同時に、ミクロな視点では私たち一人一人があちらの世界に溺れてしまわないよう、進歩と自己研鑽を続ける必要があるのではないでしょうか。
(勝部元気)