報道によると、未成年の女子大学生を雑居ビルに連れ込み、強制性交を働いた後、路上で被害者女性の頭部に「かかと落とし」をしているところを警察に現行犯逮捕されたとのことです。

立て続けに起こる慶應生の性暴力事件
慶應大学では、ここ数年の間に、ミスコン・ミスターコン絡みの学生による性暴力事件が立て続けに起こっています。
昨年2017年8月には、「ミスター慶應SFCコンテスト2015」に出場していた学生が、路上で帰宅途中の女性にいきなり後ろから抱きつき、胸を触るなどのわいせつな行為をしようとした疑いで逮捕されました(のちに不起訴)。
また、「ミス慶應コンテスト」を主催する「慶應大学広告学研究会(解散を命じられて現在は無い)」のメンバーだった男子学生6人が、神奈川県葉山町にあった古い合宿所で集団強姦を行った容疑で逮捕されています(こちらものちに不起訴処分)
再発防止策を講じなかった大学の責任は重い
ところが、慶應大学生による性暴力事件が相次いでいるにもかかわらず、性暴力削減に向けて大学側が実効性のある再発防止策を開始したという話は、これまでニュースで聞いたことがありません。
そもそも、2003年に起こったスーパーフリー事件では、その後刑法に「集団強かん罪」(現在は廃止)が創設されるほど社会問題化したものの、大学側は学生に対して性暴力を起こさないような施策を何か打ったのでしょうか?
当時、私も渦中の早稲田大学で1年生をしていたわけですが、大学側から性暴力を起こさないよう、特別研修等で指導を受けた記憶や大学側が大々的な性暴力防止キャンペーンを行っていた記憶は一切ありません。そして今もなお、決定的な対策を施しているという事実は聞いたことがありません。事件が起こった際に加害者学生を処罰するケースも一部ありますが、抜本的な再発防止策を講じているとは言えないのです。
ですが、ここまで大学生の性暴力事件が幾度も繰り返されるのであれば、もはや加害者大学生個人の問題ではなく、学生文化の問題です。男子大学生の中に、女性の人権を軽視し、それを許す雰囲気が漫然と漂っているという構造的な問題があるわけですから、それに対して大学側が無策のままであることは、大学側の責任も大いにあると思います。
一刻も早く、学生に対して人権やジェンダー平等や性暴力について考えさせる特別研修を行うことや、海外の大学で行われているような大々的な防止キャンペーン等の試みが必要でしょうし、今後入学する学生には授業開始前のオリエンテーションにて性暴力問題を必修にするべきです。
そして、大学や文科省等による再発防止策の実効性や、被害者救済と加害者更生にほとんど触れず、大学の名誉・評判・ブランドへの影響等を気にするばかりの日本のメディアや世論にも、大きな責任があるということを忘れてはいけません。率直な言葉で言えば、「腐っている」と思いますし、そういう人々もこのような暴力を生み出す社会の一端を担っていると言えます。
ミスターコンはミソジニーと結びつきやすい
また、一連の事件を起こしているのが、ミスコン・ミスターコン関係者という点も見逃してはいけないと思いますし、日本のミスターコンがミソジニー(女性嫌い)と無縁では無いと思うのです。
というのも、男尊女卑思想やカースト意識の根強い日本では、「カースト上位男性=数多の女性を支配できる男性」「カースト上位女性=男性のトロフィーとして最も価値ある輝かしい女性」という女性蔑視がいまだに蔓延っているからです。
そして、「上位」の称号の付与・獲得が行われるミスコン・ミスターコン界隈には、そのような女性蔑視の思想と分かちがたく結びつけてしまっている人たちが少なからずいて、「自分は上位男性だから女性を支配するに値する人間だ!」という幻想に陥りやすいのだと考えられます。
ミスコンが21世紀でも生き残れた理由
このように日本のミスコン・ミスターコンは、女性蔑視といまだに融合したままですが、そもそも、ルッキズム(差別的な外見至上主義)的視点のもとに、女性たちの外見美を競い合わせるミスコン自体も、これまで先進国を中心にフェミニストから大きな批判の対象とされてきました。
そこで存亡の危機に立たされた各ミスコン大会は、「男性が求めるようなトロフィーとしての美しさを競う」という価値観ではなく、「自立した女性自身が放つ美しさ」を競うよう次第にコンセプトのシフトチェンジを起こしました。
評価項目にも「いかに自立した女性であるか」というフェミニズム的視点を自ら内包することで、フェミニストからの批判の声に応え、ジェンダー平等な現代社会でも生き残ることができたと考えられています。
女性蔑視が悪化する日本の大学ミスコン
それに対して、日本の大学のミスコンはどうでしょうか? フェミニズム的な思想がどこかに内包されているでしょうか? 残念ながら、全くそのような思想はありません。
現代のグローバルなミスコンは、自立していて、健康的で、成熟した美しさを有している女性を高く評価とするものですが、ロリコン文化や「三歩下がって男を立てる女性が良い女性」という男尊女卑文化が根強い日本では、一切それらの要素が評価材料になることはなく、グローバルなミスコンとは同じミスコンという名を使っていても、全く趣が異なるものとして捉えるべきでしょう。
さらに近年は多くの著名大学のミスコンがAKB48的な投票システムを採用したことで、投票したファンにゴマすりをするような状況も生まれており、フェミニズム的要素はむしろ後退していると言っても過言ではありません。
大学ミスコンは海外のミスコンにならい、自立していて、健康的で、成熟した美しさを有している女性を評価するものにチェンジできなければ、女性蔑視として即廃止にするべきだと思います。これまではミスコンそのものの存続か廃止かというゼロサム論争ばかりでしたが、大学側はそのように条件付き廃止を明示することで、開催する学生たちに自己改革を促すべきでしょう。
日本のミスターコンもフェミニズムを内包せよ
そして、「自立した女性」と対をなすのは、「女性を支配しないフラットな男性」です。つまり、ミスターコンはフェミニストであるか否かもその評価対象とするのが理論上妥当ではないでしょうか?
もちろんそれは「女性に優しいor甘い」「紳士的な振る舞いをする」という意味ではなく、あくまで「差別や蔑視や暴力や偏見(アンコンシャス・バイアス)を望まず、それを自分とは異なる性別の人々に対しても向けることを許さない」という人として普通のことです。
たとえば、カナダのジャスティン・トルドー首相や、スペインのペドロ・サンチェス首相のように、フェミニズム的思想を前面に出す男性こそが新しい時代の男性リーダー像であるべきですし、そういう人材を輩出しようとするならばミスターコンにも存在意義があるのだと思います。
逆に、「ジェンダー平等」を審査基準の重大要素に加えることで、「上位男性」とミソジニーが結びついた状態を分離しないミスターコンは、全て廃止とするべきでしょう。この「ミソジニーとの決別」もまた、同様の事件を今後起こさないようにするために必要不可欠な再発防止策ではないでしょうか。
(勝部元気)