「正しく怖がる」と「正しく判断する」


「正しく怖がる」とテレビで言っていて、ふむ、とか思ったけど、無理だ。「怖がる」というのは、自分で制御できるものではなく、どうしてもそのような状態になっちゃうものだ。

「正しく怖がる」というのは、言葉の意味を考えれば無理な注文だ。
最愛の人を亡くして悲しんでいる人に「正しく悲しみなさい」と言うぐらいに。
正しく判断することは(むずかしくても)可能だが、悲しんだり、怖がったりすることに、「正しい/正しくない」はない。

しかも、その「正しく怖がる」と言うメディアが、わざわざ怖がらせるために煽って(それは視聴率に結びつくのだろう)怖がらせている。

怖がらせておいて、「正しく怖がりましょう」なんて言うのは、よく言って責任逃れ、ふつうに言えばマッチポンプだ。
無責任な発言をするテレビを消して、SNSを断捨離するのが、「正しく怖がる」のにもっとも近い状態だろう。

正解があるように錯覚させる問題


「正しく怖がる」の無理さと欺瞞、リスクにどう向き合うか

「科学」2012年1月号(岩波書店)の特集「リスクの語られ方」のなかに「リスク・コミュニケーションのあり方」(吉川肇子)という原稿がある。
3.11以降のリスク・コミュニケーションに関するものだが、今回の状況下においても、重要な指摘となりえてる。

このなかで、吉川先生は、「正しく怖がる」という表現がしばしば使われるようになったことを述べて、次のように記す。

“この表現がリスク・コミュニケーション上問題になるのは、(放射線)リスクについて、人々が合意しないのは、適切な科学的知識を欠いているからであるという「欠如モデル(deficit model)」が含意されているかからである。「正しい」とか「正確な」という表現は、あたかもこの問題に対して合意された正解があるように錯覚させる。”

また「正しく」という姿勢が、情報提供を萎縮させることを具体例を交えながら解説していく。

小爆発二件と言葉のむつかしさ


「正しく怖がる」のもとは、寺田寅彦「小爆発二件」(青空文庫で読める)だ。

だが、「正しく怖がりましょう」ではなく、「正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた」という文脈だ。

「むつかしい」のだ。
しかも、“爆発しても平気でのぼって行った”人や、“「なになんでもないですよ、大丈夫ですよ」”と無関心で正常化バイアスがかかってる人に向けたもので、「ちゃんと知って、怖がる」という意味で使われている。

“ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。”

「正しくあること」の強要ではなく、そのむつかしさの表明である。

手近な正解や、「一致団結して(何も考えずに)従え」「一所懸命やってるから文句を言うな」といった押しつけは、そういったむつかしさや、ひとりひとりの主観を、殺して、間違った道に突き進む原因になってしまう。
正しくあることはむつかしい。

正しさをふりまわして、だれかをやりこめる快楽に溺れていると、自分の首をしめてしまう。
正しくなかったことに対する寛容と、臨機応変な対応と、つねに自分の考えを改める姿勢を。
(米光一成)