日本のテレビ業界、バラエティ番組に革命を起こした男、テリー伊藤の半生が一冊の本になった。その名も『出禁の男 テリー伊藤伝』(イースト・プレス)。
著者は、NETFLIXでドラマ化された『全裸監督 村西とおる伝』の著者、ノンフィクション作家の本橋信宏だ。コンプライアンスに厳しい現代ではおよそ実現不可能であろう、テレビの世界を劇的に変えていった“天才”テリー伊藤の伝説をなぜ今書き起こしたのか? 本橋信宏氏に話を聞いた。(前後編の前編)

【写真】テリー伊藤×本橋信宏ツーショット

――本橋さんは過去の著作で何度かテリー伊藤さんを取り上げていますが、2010年6月に出した『悩ましき人々の群れ 新・AV時代』(文藝春秋)で、「おれがさあ、死んじゃったら、おれの人生洗いざらい書いちゃっていいよ」というテリーさんの言葉を綴っています。テリーさんはもともと自分の評伝を出すことに乗り気ではなかったということでしょうか?

本橋 よく伊藤さんが口癖で言っていたのは、「演出家というのは他者をどうアレンジするかに関心があるのであって、自分自身にはあまり関心がない」と。私から見たら、伊藤さんは自分にも関心があると思うんだけどね(笑)。あとシャイなんですよ。だから乗り気ではなかったんでしょうね。

――それが今回、『出禁の男 テリー伊藤伝』を出すことになった訳ですが、どういう経緯があったのでしょうか?

本橋 2016年に伊藤さんが『オレとテレビと片腕少女』(KADOKAWA)というノンフィクションを出して、自分自身を記述していたので、「あれ?」と思ったんですよ。それで『出禁の男』を編集した穂原編集長が、『週刊アサヒ芸能』(徳間書店)のテリー伊藤さんの対談をのぞいたときに、「本を出しましょう」と言ったら、あっさりと「いいよ」と。よっしゃ、このスキを突くしかないということで話を進めました。

ただ当初は伊藤さんの自叙伝という話もあって、その場合、私は構成者として参加する予定だったんです。でも伊藤さんは大成功者じゃないですか。
たとえ半生を正直に書いたとしても、結果的に自慢本になりかねないと。それは伊藤さんの美学に反するということで、第三者の私が書くことになりました。

――以前からテリーさんの本を書きたい気持ちはあったんですか?

本橋 ありましたね。私は大学生の頃から伊藤さんと親交があったから、ずっと面白い人だなと思っていたし、ヒットメーカーの創作の舞台裏は誰でも関心を持つことじゃないですか。伊藤さんは、そういうことを断片的にしか語っていなかったので、それを書いて出したいと考えていたんです。伊藤さん自身も出版に興味を持ち始めていたんですけど、そのときに伊藤さんが関心があったのは北朝鮮でした。

伊藤さんはサプライズが好きだから、俺がヒット番組の本を出すのは当たり前すぎると。「じゃあ何に関心があるんですか?」と聞いたら、「金正日しかないだろう」と。あの当時は金日成主席も存命で、「金日成のパレード」がサブカル連中の間で話題になっていたんです。だから、「金日成なら分かるけど、金正日は早すぎますよ」って説得したんです。そしたら「俺の嗅覚は当たるんだ。これからは奴が来る」と返されたんですけど、伊藤さんの言うとおりになりましたね。


――さすがの嗅覚ですね。テリーさんは1993年9月に『お笑い北朝鮮―金日成・金正日親子長期政権の解明』(コスモの本)を出してベストセラーになりますが、その取材には本橋さんも同行したそうですね。

本橋 私が出版社を紹介したのもあって、「とにかく日本にいても埒が明かないから行ってみよう」と伊藤さんが言うので、1993年5月に漫画家の根本敬さんも交えて北朝鮮に行きました。1990年9月に「金丸訪朝団」として、自民党の金丸信元副総理、社会党の田辺誠副委員長(当時)の両党代表団が訪朝したので、日朝の関係は雪解けムードだったんです。

名古屋空港から直行便も出ていましたし、平壌のホテルで赤軍派の若林盛亮さんともお会いしました。そしたら若林さんがテリーさんを知っていたんですよ。支援者が日本のテレビ番組や録画して送っていたらしく、私たち以上に流行に詳しくて驚きました。

――伊藤さんとの出会いは、本橋さんの大学時代に遡るそうですが、改めて出会いのきっかけを教えていただけますか。

本橋 知り合ったのは1976年で、私は大学2年生でした。伊藤さんは若手ディレクターで、初めての特番を任されていたんです。それは伊藤さんが以前から温めていた素人を主役に据えた対抗合戦で、『東大・早稲田・慶應三大学芸能合戦』という番組でした。今だったら通らないような緩い企画なんですけど、そのキャスティングを早稲田の企画演出部という私がいたサークルに任されたんです。
当時の私はさほど社交的ではなく、人見知りが激しくて、暗くはなかったんですけどシャイで。そんな私が伊藤さんとは、なぜか馬が合って、かまっていただけたんですよ。

――その番組が終わった後も、お付き合いが続いたんですか?

本橋 『三大学芸能合戦』の翌年に女子大生版をやるというので、「本橋ちゃん手伝ってよ」とまた声をかけてくれたんです。今は廃校となった東京女学館短期大学に行って、夏目雅子さんのご学友と一緒にお茶を飲みましたし、ちょこちょこ伊藤さんの実家にもお邪魔になりました。あの頃の伊藤さんは外注会社「IVSテレビ制作」の無名ディレクターでしたからね。

――大学卒業後は本橋さんもIVSテレビ制作にいた時期があるんですよね。

本橋 もともと私は立花隆さんや竹中労さんに憧れて物書きになりたかったんですけど、まずは新卒でどこかに入社してから独立しようと考えていたんです。ところが、就職試験を受けた会社全てに落ちて、困って伊藤さんに泣きついたら、「うちに来いよ」と言ってくれたんです。まあ3か月で逃げ出しましたけど(笑)。

――当時からテリーさんはしゃべりが達者だったんですか?

本橋 あの頃からジョークも冴えてたし、たとえ話が上手かったし、リハーサルも面白いんですよ。伊藤さん自身、「芸人よりも俺のほうがリハが面白いって言われるんだよ」と言ってました。話芸の達人。
あと人たらし。『出禁の男』で取材したIVSテレビ制作の長尾忠彦会長も「ADの頃から伊藤ちゃんは話が面白かったんだよな」と証言してましたけど、話芸は大事ですよね。よく「男は無口のほうがいい」なんて言いますけど、それじゃダメ。あの矢沢永吉だって、カリスマ性の半分以上はしゃべりですからね。村西とおるもそうですよ。

――3人とも立て板に水のように話しますよね。

本橋 天下を獲る人は自分の価値観、世界観を持っているから、熟成した言葉があふれ出るんです。

――本橋さんは、どうして伊藤さんや村西さんのようなアクの強い人たちと長く付き合ってきたのでしょうか?

本橋 たまたまです(笑)。もともと村西監督も伊藤さんも取材で会った訳ではなく、個人的な付き合いで始まっているから、いつか彼らを対象に本を書きたいという商売っ気もなかったんです。だからこそ平気で書けないことも言ってくれるし、いわゆる「巻き込まれ型」と言いますか、一緒に過ごしていく結果として、本に書くことになったんです。あと、ないものねだりというのもありますね。

先ほどお話に出た『週刊アサヒ芸能』もそうですけど、山口組だとか弘道会だとか怖そうな取材をしている実話誌の編集長に共通するのはおっとりして、優しい風貌ですよ。
昔から伊藤さんは、「一流のお笑いディレクターは普段つまらない奴なんだ。自分がつまらないというコンプレックスがあるから、それを他者に演じてもらうんだ」と言ってました。それと同じで、自分にないものを村西とおるや伊藤さんに託して書いているところがありますね。まあ伊藤さんはお笑いディレクターなのに、本人も面白いですけどね。(後編へつづく)

【後編はこちら】作家・本橋信宏がテリー伊藤の“出禁”伝説を本にした理由「記録されざる文化を活字で残すのが私の役目」
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