avexに所属するアイドルグループSUPER☆GiRLS。そこに昨年加入した異色の新人がいる。
金澤有希、25歳。新人ながらグループの中で最年長という年齢もさることながら異色なのはその経歴。アイドルのキャリアをスタートしたのは小学5年生。地元苫小牧を拠点にするグループを皮切りに、AKB48研究生、GEMリーダーを経て今回のSUPER☆GiRLS加入となる。まさに漂流アイドル。なぜ彼女はこうまでしてアイドルにこだわるのか? その疑問に答えた彼女のロングインタビューを3回にわたってお送りする。そこから見えてくるのは、幼い頃から自分の人生と真摯に向かい続けた一人の女性の力強い生き方だった。

──今回のロングインタビューは、「なぜ私はアイドルを続けるのか?」というテーマでお伺いしたいと考えています。そのために、まずは金澤さんの挫折と栄光に彩られたアイドル遍歴をじっくりお聞かせください。そもそもどうしてアイドルを目指すようになったのですか?

金澤 私の場合、とにもかくにも大きかったのが辻希美さんの存在。幼稚園の頃はモーニング娘。
さんとミニモニ。さんがそれこそ大フィーバーしていまして、年長組のとき、お遊戯会でミニモニ。さんを踊ったんです。衣装はお母さんに作ってもらいました。曲は『ミニモニ。ジャンケンぴょん!』だったと思います。そこから一気にのめり込んでいきました。

──年長というと、それが5歳くらいのときですか。

金澤 そうです。ただ正確に言うと、お父さんとお母さんは『ASAYAN』が大好きで、モーニング娘。誕生の瞬間から観ていたんですね。『モーニングコーヒー』前の『愛の種』時代から。
私もなんとなく一緒に番組を観ていたので、アイドルの下地はあったと思います。そして幼稚園の年長のときにミニモニ。さんを踊ったことで、すべての価値観が一変しました。妹と一緒に常に熱狂している状態で、新曲が出るたびにビデオ録画した映像を何度も繰り返し観て、妹とずっと踊っていました。北海道でコンサートがあると、「絶対に行く!」って姉妹で親におねだりしていましたね。

──ご両親も妹さんもアイドルには理解があったわけですか。

金澤 はい。私はモーニング娘。さんもミニモニ。さんもメンバー全員が大好きだったけど、中でも辻さんの存在というのは本当に特別で……。当時の私の考えは「アイドルになりたい!」じゃないんですよ。「アイドルになる!」って決めていたんです。
もっと言っちゃえば「辻ちゃんになる!」って、それだけしか考えていなかった。もちろん髪型もファッションも真似していましたし。

──辻さんの何がそこまで特別だったんですか?

金澤 ギャップですね。そのときは私も完全な子供だったけど、そんな私からしても辻さんは子供っぽいなとテレビ番組を観て感じていたんです。

──ゲームに負け、焼きそばを食べられずに泣いている番組とかありましたね。なんでしたっけ、日曜日の昼間にやっていた……。

金澤 『ハロモニ(ハロー!モーニング。)』ですよね。まさに、ああいうことなんです。テレビだと誰よりも子供っぽい。それなのに、コンサート会場では汗をかきながら必死でステージを走り回っている。そのギャップが衝撃的だったんです。


──世代的にはベリキューと同じくらいですよね。キッズのオーディション(※1)は受けなかった?

金澤 もちろん考えました。ただ、私は北海道の苫小牧出身なんです。当時のハロプロさんって、北海道と沖縄に住んでいる子は中学に入るまで受けられなかったんです。

──そのあとのエッグ(※2)は?

金澤 エッグももちろん考えました。というか、実際に受けました。だけど、これは私が勘違いしていたんです。実際はキッズと同じで中学生以下の北海道出身者は応募資格がなかったんですけど、なぜかOKになったと思い込んでいて。面接のとき、「住んでいるのは北海道だよね? 申し訳ないけど北海道はダメなんだ」って言われました。

──学校ではどんな生徒だったんですか? 芸能人に憧れるくらいだから、目立ちたがり屋?

金澤 いや、そんなことはないですね。かといって暗いというわけでもなく、外で男子と一緒に遊んでいる感じ。わりと周囲からはイジられる存在だったかもしれないな。
まぁそれは今も変わらないか(笑)。

──さぞかしモテたんでしょうね。

金澤 それは全然なかったです! 男子と一緒になってドッチボールをやっているタイプだったので。可愛いキャラでもなければ、癒し系でもないですし。

──とはいえ、同級生の男の子に告白されたりは?

金澤 いや~、小学生の頃はさすがにないですよ。中学生になってからは……まぁ若干ありましたけど(照)。でも学校の子からしたら、当時の私ってとにかくひたすらアイドルを追いかけているイメージしかなかったと思います。お年玉が入ると、すぐに札幌に行くんですよ。札幌にはハロプロのお店があったから。そこでお金を全部使っていました(笑)。

──今はなきハロショ札幌店! 時代を感じさせますね(笑)。

金澤 家でも部屋中が辻ちゃんのポスターやうちわで埋め尽くされていて、友達が来るとア然としていましたから。


──当時の小学生女子にとって、ハロプロやミニモニ。は必須科目だったんですか?

金澤 もちろんそうなんですけど、私ほど熱を入れている子はさすがにいませんでした。だから周りも「あの子はアイドルになるつもりらしいよ」とか、すでにそういう認識なんですよ。誕生日プレゼントでも、辻ちゃんの消しゴムとかハロプロさん関連のものばかりもらっていましたし。

──そして最初のアイドルグループに加入したのが……。

金澤 小学校5年生のとき。父親と一緒に買い物していたら、街中で声をかけられました。タッチというグループだったんですけど。

──どんなグループだったんですか?

金澤 ローカルアイドルなんですけど、完全に地元密着型で、苫小牧に住んでいる人は全員が知っているような存在だったんです。でも、いざ活動を始めてみたら本当に大変で……。予想もしていないことばかりでした。ローカルアイドルだから、とにかくすべてを自分たちでやらなくちゃいけなくて。機材運びから始まって、会場のセッティングとかも全部。何より辛かったのが寒さです。北海道ですから、冬は氷点下15度ぐらいまで下がる気温の中、ミニスカート姿で会場の準備とかしているんです。

──まだ小5なのに! 『ハロモニ』で観た辻ちゃんとは雲泥の差(笑)。

金澤 ここは地獄みたいだなって思いました(笑)。そもそも北海道では、真冬だと人があまり外出しないんです。だから、お客さんも1人とか2人ということがザラにあって。子供ながらにすごく悩んだし、もがいていました。中学の3年間は、アイドル活動と並行して部活もやっていました。というのも、父から「スポーツ系の部活に絶対入ること」と言われていたんです。父は体育会系で人間関係が鍛えられるという考えを持っていたので。

──競技は何を?

金澤 中学校ではバスケットボール、市のスポーツクラブでは陸上。それに加えてタッチでのアイドル活動がありましたからね。だから正直言って、中学の3年間では遊んだ記憶が一切ないです。帰りにみんなで寄り道して遊ぼうって話になっても、私だけ先に部活やタッチの現場に向かっていました。さっき告白とか話がチラッと出ましたけど、正直、恋愛どころじゃなかったです(苦笑)。

──いきなり結論が出てしまったかもしれない。その苦境からスタートしたのだったら、そりゃ今でもアイドルを続けられるでしょうね。

金澤 とにかく何が辛いって、寒さが一番キツかったですね。すごく印象に残っている出来事があるんですよ。野外でイベントをやる場合、セッティングがあるから私たちはステージが始まる何時間も前から会場入りするんです。

──セッティングというのは、PAの配線とか椅子の配置とか導線の確保とか?

金澤 そういうことも含めて全部自分たちで行いました。セッティングを済ませて、お客さんもいない外の会場の隅っこで、メンバーは円になってヒーターを囲むんです。もちろんミニスカートの衣装のまま。そうすると、あまりにも寒すぎて手足の感覚がなくなってくるんですよ。みんな無言でヒーターを見つめているんですけど、寒さで感覚がないものだから、気づいたらヒーターの熱で手袋が溶け始めていて……。「あっ、ヤバい! ヤバい!」って、そこでハッとするわけです(笑)。

──自分の手袋が燃えていることにも気づかない苫小牧の寒さ(笑)。

金澤 まぁそんなこんながありつつも、気づいたら結構な年月が経っていたんですけど……。タッチには小学校5年生から高校1年生までいました。

──えっ、なぜそこまで長く在籍したんですか!? 話を伺ったら、過酷な活動環境じゃないですか。

金澤 確かに辛かったです。当時も友達からは「よく続けていけるね」とか言われていましたし。でも、同時にやりがいはすごくあったんです。タッチのプロデューサーの方は苫小牧市議会の議員の方で、そういう関係もあって、老人ホームとか少年院を訪れる機会も多かったんです。訪れた先々でお年寄りの方や、同年代の方にかけられた言葉は、私たちにとっても本当に励みになりました。他にも、苫小牧市で大きなお祭りがあると、必ず出演させていただいていたんです。普段のタッチは路上ライブがメインだったので、人が大勢集まるお祭りに出演するという事はすごく大きなチャンスなんです。「この人たちが少しでもタッチを好きになってくれたら……」って考えると、なんだかワクワクしてくるんです。あと一番大きいのは、“アイドルが好き”だっていう気持ちですよね。その部分だけは、ミニモニ。さんに夢中になった幼稚園年長のときから1ミリも変わらなかったです。

──なるほど。理不尽なことばかりでもなく、未来への夢もたくさんあったというわけですね。

──そしてAKB48の研究生になったのが高1のときですか。

金澤 苫小牧にある高校に入ってしばらくした頃、先輩が私たちのクラスを覗きにきたんです。なんでも「前田敦子に似ている子がいる」って話だったらしくて。その似ている子っていうのが、この私だったんです。だけど当時の私はAKB48の存在はもちろん知っていましたけど、まだメンバーの顔と名前がはっきりわかっていなくて……。

──大ブレイク前夜、『言い訳Maybe』とか『RIVER』の時期?

金澤 そうですね。ちょうどその前後くらいだったと思います。だから「前田敦子? 誰だろう?」って調べてみると、「うわっ、可愛い!」って思うようになり、それでAKB48が好きになっていきました。友達からは「AKB48のオーディション受けてみなよ」って言われることもあったど、「え~、いいよ」って返事していました。それが9期オーディションのときです。自分にはタッチがあったし、北海道から出ていく事もまだ怖い思いもありました。小学生の頃は「東京に出てアイドルになりたい!」と思っていたんですけど、高校にもなればだんだん現実も見えてくるから、それがどれだけ大変なことはわかるじゃないですか。苫小牧から札幌に出るのにもオタオタしているのに、1人で東京に出るなんてそんな……。このへんの感覚は、都会で育った方だとなかなかピンと来ないかもしれませんが。

──それなのに、どうして応募したんですか?

金澤 きっかけは妹です。家で2人で『週刊AKB』という番組を観ていたら、妹が唐突に「私、オーディション受ける」って言い出したんですよ。「お姉ちゃんも一緒に受けようよ」って。それを聞いて、私は鼻で笑いましたね。「いやいやいや。こんなド田舎で育った私たちが、ここまで大きなオーディションで何ができる? 大体、東京に出るってどういうことか本当にわかっているの?」って。でも逆に、あまりにも話が大きすぎるから「どうせ受かるわけないし、いいか!」って気軽に考え、軽い気持ちのまま、2人で応募したんです。

──金澤さんの半生記には、要所要所で妹さんが登場しますね。

金澤 妹の存在は、私にとって、ものすごく大きいです。妹がいなかったら、全然違う人生を歩んでいたかもしれません。その妹と私は、10期オーディションで2人とも最終審査まで残ったんです。いよいよ最後の合格発表で、全員が別室に集められたんです。番号が名前順に振られていて、妹と私は同じ苗字だから連番。妹の次の番号が私でした。そして若い番号から順に合格者の番号が呼ばれていくわけですけど……私の番号が呼ばれた瞬間、左隣に座っていた妹がボソッとつぶやいたんです。「あ、終わった」って。私、そのときの声が今でも忘れられなくて。

──妹さんは自分の番号を飛ばされて、自分が落ちたことに気づいたと。

金澤 そもそも「AKB48を受けたい」って言い出したのは妹なんです。それなのに私だけが受かっちゃって……。自分が合格してうれしいっていう感情は、とてもじゃないけど持てなかったです。本当に一生忘れないでしょうね、あの「あ、終わった」という声は。アイドルをやっていてどんなに辛いことがあっても、あの妹の声を思い出したら頑張ることができる。アイドルって誰でもなれるものではないですから。よりによって一番身近な存在が、そのことを私に教えてくれたというか……。こうやって話しているだけでも、泣きそうになります。

中編へ続く

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(※1)キッズのオーディション:2002年に開催されたハロー!プロジェクト・キッズ オーディションのこと。小学生限定で開催された。合格した15名は、のちにBerryz工房および℃-uteのメンバーとして活躍する。

(※2)エッグ:2004年からスタートしたハロプロの研修機関・ハロプロエッグのこと。現在はハロプロ研修生と改称されている。初期に在籍したメンバーは和田彩花をはじめとしたスマイレージ(現・アンジュルム)勢や真野恵里菜、アップアップガールズ(仮)など。
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