今年2月、アイドルグループ「AKB48」がユニバーサルミュージックへレコード会社を移籍すると発表した。それまでの15年間、AKB48はキングレコードとともに成長してきた。
そのキングレコードでA&Rチーフプロデューサーを務めていたのが湯浅順司氏だ。氏の存在がなければ、日本のアイドルシーンは確実に変わっていた。氏がAKB48と二人三脚の15年間を3回連載で振り返る。(1/3)

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 AKB48が結成され、デビューしたのは2005年12月のことだった。インディーズで2枚のシングルをリリースした後、ソニー・ミュージックエンタテインメント内のレーベル「デフスターレコーズ」から8枚のシングルを発売する。しかし、AKB48と時代はなかなかマッチしなかった。


 2008年2月に発売された『桜の花びらたち2008』を最後に両者は契約を解消し、AKB48は“フリー”の状態になる。その時、ある人物がAKB48に接近していた。それが湯浅氏である。

湯浅 当時の僕はキングレコード(以下、キング)に入社して4年目の平社員でした。アニメの営業、アニメのディレクターを経て、J-POPの部署に異動してきたので、せっかくだから自分の好きなことをやろうと考えていました。K-POPかビジュアル系バンドかアイドルかの三択でしたが、アイドルだけは当時のキングが手掛けていませんでした。
じゃあ、アイドルだなと思い立ち、先輩の紺田大輔さんと共に動き始めました。(その後、紺田氏は主に握手会イベントを担当。2018年夏に逝去)

 その1年前、湯浅氏はAKB48劇場を訪れている。

湯浅 2007年のある日、僕は会社の先輩に連れられて、劇場に行きました。その日はひまわり組公演(チームAチームKの混合公演)で、大島麻衣さんが足を怪我してしまって、泣きながら挨拶だけした日でした。それでもたかみな(高橋みなみ)やこじはる(小嶋陽菜)たちが出ていて、今思うとすごいメンバーだったんです。
それに、曲も歌詞もすごくいい。その後も何度か劇場には足を運んでいました。AKB48さんとお仕事をしたいと考えるようになりましたが、他レーベルに所属していました。

 では、声優としてお仕事をしてもらおうとか、いろいろと画策していました。でも、そうこうするうちに新しいレーベルを探しているというニュースを耳にして、しばらく経ってから、当時のAKB48運営会社さんからご連絡をいただいたんです。

 湯浅氏にとっては渡りに船だった。
とはいえ、キングだけが候補ではなかった。その時点ですでに数社が候補に挙がっていた。

湯浅 当時の僕は平社員ですから、他社さんと戦っても勝ち目はないかもしれないと思いました。想いをプレゼンする機会をいただいたので、その場が勝負だなと思いました。

 氏はAKB48に関する文献を読み漁り、正規メンバーはもとより、全研究生の名前まで暗記した。さらに、後にアイドルシーンを変える一手をアピールした。


湯浅 プレゼンする場には、僕と紺田さんの2人で出席しました。僕たちはまず熱意を知っていただこうと思い、「めちゃめちゃ勉強しています!」と伝えました。そして、CDを発売する際に全国握手会と個別握手会に分けるやり方をご提案したんです。

 3年前に始まったコロナ禍によって形式が変わってしまったが、それまでのAKB48が採っていたスタイルは、全国握手会と個別握手会の二枚看板だった。全国握手会は文字通り、全国各地に出向き、複数のメンバーと握手ができるもの。個別握手会は、ファンがメンバー1人を指名して、握手するものだ。


湯浅 僕がご提案したのは、通常盤として全国握手会、劇場盤として個別握手会を開催するというものでした。通常盤というのはCDショップで売られているもので、劇場盤はAKB48劇場で手売り販売するものです。

 そのような手法を採っているグループは存在しなかった。彼がその手をひらめいたのは、自身がアイドルヲタクだったからだ。

湯浅 僕はハロー!プロジェクトのファンでした。ハロプロではグループ全員と握手できたけど、“推し”と長く話すことができません。だったら、“推し”と長く話せるような握手会にすればいいじゃないか。これが個別握手会を考えたきっかけでした。

 もうひとつ、僕が重きを置いていたのは、全国のショッピングモールに行くことでした。各地のイオンなどに出向き、かわいい衣装を着たメンバーたちが歌う姿を見せる。それを観て、興味を持っていた子供たちが憧れてくれる。そして、ファンになってくれて、いつかメンバーになりたいと思ってくれる。そうすれば、AKB48は10年、20年続くグループになるんじゃないかと考えました。この発想が全国握手会を生みました。実際、全国握手会を観てからAKB48のメンバーになった子は何人もいます。

 氏がプレゼンした際、「オリコン3位以内を獲ります。そして、将来的には紅白歌合戦に自力で出場できるグループにしたいです」とも宣言している。

湯浅 当時、朝の情報番組で放送されるのは、だいたいオリコン3位以内なんです。AKB48は6位が最高順位でした。僕はヲタクでもあるけれど、自分だけで楽しむのではなく、「グループの魅力を広めたい」と思うタイプなので、皆さんに知っていただけるようなグループになってほしかったんです。

 それに、AKB48は2007年に“アキバ枠”として3組まとめて1枠の扱いで紅白に初出場しましたが、単独でも出場できるように、一緒に成長していこうと考えていました。

 湯浅氏・紺田氏の熱のこもったプレゼンは運営スタッフを通じて、総合プロデューサー・秋元康氏の耳に入る。すると、「キングレコードは愛があるね」と言ってもらえ、1作ながらも契約を勝ち取ることに成功した。ヲタクの勝利である。

湯浅 嬉しかったですね。ただ、途中経過を上司に報告していなかったので、完全に事後報告でした(笑)。

 秋元先生は僕らのことを、『若い人たちが熱く語ってくれているな』と温かく見守ってくださったようです。結果、1枚でしたが、シングルを発売させていただけることになり、オリコン初週ウィークリーで3位を獲得できました。次のシングル『10年桜』は自然とキングからリリースする流れになり、『RIVER』からアーティストとして所属することになりました。

 2008年10月22日、キングレコードは『大声ダイヤモンド』を発売した。AKB48はキングという援軍も得たことで快進撃を始めた。

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