明治安田生命J3リーグで、現在得点ランキングトップの9ゴールを挙げているFC岐阜FW川西翔太のインタビュー。2011年にガンバ大阪でプロデビューした川西は、モンテディオ山形、大分トリニータを経て、2019年に岐阜に加入。

J3降格を経験するも、昨季はプロ入り後初の全試合出場と2桁得点を記録。攻撃だけでなく最前線からの守備でもチームを牽引する存在だ。

岐阜のチームとしての現在地や自身の得点量産の理由に迫ったインタビュー前編に続き、この後編では、学生時代に培ってきたことから、プロ入り後に出会った名将たちや周囲の選手たちとの関係までを伺い、川西の成長過程を紐解いていく。

関連記事:J3岐阜、川西翔太インタビュー【前編】得点ランク首位につける理由とは

プロとして生きていく術を掴むまで

奈良県生まれの川西は、小学校3年生から地元の奈良FCへ加入。本格的にサッカーを始め、当時はセンターバックとしてプレーした。FWとしてプロの世界へ歩みを進めて以降の川西は、ボランチやサイドMF、トップ下などでもプレーしてきたが、小学生にしてすでにオールラウンドな選手だったようだ。

中学生時代の奈良FC(小学生時代の奈良FCとは同じ系列クラブであるが全く異なるチーム)では、平日はコーチ不在の中、自分達だけで練習をした。全国とは無縁だったが、自由な環境の中で運命的な出会いもあった。

「中学1年生の時は毎日ゲームばっかりしていましたが、真面目な先輩も多く、中学2年生になるとドリブル練習を長く取った基礎をやってからのゲームになりました。中学3年生になって県トレセン(トレーニングセンター召集メンバー)に選ばれて、関西トレセン、ナショナルトレセンにまで行くようになりました。まずその時に(G大阪下部組織の)匠や秋、将生、ヨコ、ミチくん達(※1)と出会っています。本当に凄い人達とその段階で顔を合わせられたのが大きな刺激になりましたね」

※1)下平匠、倉田秋、平井将生、横谷繁、安田理大ら、G大阪の下部組織出身選手の愛称。川西とは下平と倉田が同学年。

平井、横谷、安田は1学年上。

G大阪下部組織に所属していた選手たちとの出会いから刺激を受け「全国に出たい」という想いが強まった川西は、青森山田高校へサッカー留学することを決意。2年生時には夏のインターハイで青森県勢初の優勝を遂げたが、それまで自由な環境でサッカーに取り組んで来た川西にとっては新たな環境で苦労もあったという。

「小学生の時からお兄ちゃんのように慕っている2つ上の先輩が(青森)山田に行っていて、『山田に来たら全国出れるぞ』と言われてセレクションを受けに行きました。自分は単純なので『行けば全国に出れる』と思っていたのですが、そんなに甘いわけもなく試合に出るのが大変でした。当時は1学年につき20人で、AチームとBチームがありました。Aは芝生で練習ができて、Bはバス移動して土のグラウンドで練習するというような環境の違いがありましたが、AもBもプレーしていた全員が巧かったです」

青森山田では、正木昌宣コーチの存在が大きかったと伺いました。

「はい。当時自分はFWで、1つ上の先輩に現在は海外でプレーされている小澤竜己さん(MKS Ilanka Rzepin/ポーランド)や伊東俊さん(現ロアッソ熊本)がいて、トップ下にも(ロメロ・)フランク(現アルビレックス新潟)がいたので、その攻撃陣に入っていけませんでした。なかなか試合には出られない中、正木コーチはそれでも僕を(黒田剛)監督にずっと推してくれていて、練習も付きっきりになって指導していただきました。ブラジル留学の経験もある方なのでシュートを始め細かいテクニック面も指導してもらい、またそれ以上に自分に自信を持たせてくれるようなサポートをしていただきました」

卒業後は青森山田の黒田剛監督の薦めにより、監督自身の出身校でもある大阪体育大学に進学。プロを意識しながらフィジカル強化に励む日々の中、川西はそこで新たな理論とも出会った。

実業団バレーボールチーム「久光製薬」の監督も務めた動作解析の専門家、夏嶋隆氏には、現在にも活きている身体の使い方に関するレクチャーを受け、身長177cmのFWがプロとして生きていく術を掴んだ。

「サッカーに取り入れるかどうかは人それぞれだと思うのですが、夏嶋さんからは体重移動から始まり、身体の構造や仕組みを教えていただきました。サッカーはボディコンタクトが絶対にあるスポーツなので、それを理解することで『どの部分を当てるとバランスを崩すのか?』『ボールがある中でどうターンをするのか?』などを自分で考えてサッカーに落とし込んでいました。どれだけ高くて大きな選手でも押されると弱いポイントがあったり、バランスが崩れたり、重心が揺らいだり、ズレたりするんです。夏嶋さんは、久保竜彦さん(元日本代表FW)やカレン・ロバートさん(ジュビロ磐田など国内外で活躍したFW)にも指導されていた方なので説得力もあり、彼の理論が今現在のプレーにも活きています」

J3岐阜、川西翔太インタビュー【後編】古巣ガンバ大阪との対戦を目指して

G大阪でデビュー以降の名将たちとの出会い

大阪体育大学では関西学生リーグ2部所属ながら総理大臣杯優勝を飾るなど大学サッカーで名を上げた川西は、大学の同級生であったDF藤春廣輝(元日本代表、現G大阪)と共に2011シーズンよりG大阪への加入を決断。当時のG大阪は、西野朗監督の下で攻撃サッカーを武器にJ1の強豪に位置しており、強力なFWを揃えていた。なぜ川西はそんな過酷な環境を選んだのだろうか。

「色んなチームに練習参加していた中で、ガンバには1番早い段階から声をかけてもらい、西野監督に推してもらっていたことが大きかったですね。あとは、練習参加した時に中学時代のトレセンで知り合っていた(下平)匠たちから『久しぶり~!』と声をかけてもらえたりもして、環境的にもやりやすかったです」

「ガンバではデビュー戦(2011年J1第7節広島戦)で初ゴールが獲れて幸先が良かったのですが、その後にすぐに発熱で欠場してしまいました。さらに、復帰して西野監督から『練習しなくてもいいから、ACLのアウェイ遠征の準備をしておけ』と言ってもらったのに、ぶり返してしまって…。それ以来、信頼を失って半年ほど干されたような時間が続きました。監督や強化部、マネージャーさんからも『体調管理もプロサッカー選手の仕事だから』と言われました。モンテディオ山形戦(第30節)で久しぶりに途中から試合に出て点が獲れて、アルビレックス新潟戦(第32節)でも途中出場から2点取れたので、尚更もったいないことをしていたなって思います」

そして2011年「さあ、これから」と思っていた矢先に、川西選手は腓骨々幹部骨折で長期離脱となり、チームは西野監督の退任、J2降格と色んなことが起きましたね。

「そうなんです、怪我では結局10カ月も休むことになりました。練習に復帰して1カ月くらいは練習試合でも45分間しかプレーできていなかったのですが、当時の松波正信監督(今季途中からG大阪監督に再就任)からは『時間限定でも使うから』と言っていただき、実際に使ってもらったので本当に感謝しています。今、また松波さんが監督をされているガンバとは、公式戦で戦いたいですね」

G大阪で3年間プレーした川西は、2014年に出場機会を求め当時J2の山形へレンタル移籍。加入当初は主力FWとしてプレーするも結果を残せず、次第に出番は減っていった。しかし2014シーズン終盤、チームが[4-2-3-1]から[3-4-2-1]へとシステムを変更するタイミングで、川西は2列目のシャドーに抜擢される。この年ラスト11試合で5ゴール2アシストと大爆発した川西の活躍により、山形はJ2で6位へと浮上。J1昇格プレーオフを勝ち上がり、クラブ史上2度目のJ1への切符を勝ち取った。同シーズン「第94回天皇杯全日本サッカー選手権大会」でもクラブ史上初の決勝進出を果たしている。

「ガンバ時代の最後の年(2013年)に長谷川健太監督(現FC東京監督)のサッカーに合わせられなかった自分は、山形でもチームの環境や戦術になかなか合わせることができませんでした。周囲の選手のプレーに対してストレスを溜めることもありました。見かねた当時のチームメイトの山崎雅人さん(現大分トリニータU18コーチ)と高橋健二コーチ(現湘南ベルマーレコーチ)に『お前そんなんじゃこの先もダメだぞ』と言われ、それまでの自分は西野監督とガンバのサッカーに甘えていたのだと気付かされました。そこで変われて良い方向に出たと思います。

でも、あの2014年のガンバとの天皇杯決勝は出たかったですよ(※)」

※2014年の天皇杯決勝では、J1優勝のG大阪がJ2で6位だった山形に3-1で勝利。G大阪はJ1リーグ、ヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)、天皇杯の3冠を達成。川西はG大阪からのレンタル移籍だったため、契約により天皇杯決勝には出場できず。

J3岐阜、川西翔太インタビュー【後編】古巣ガンバ大阪との対戦を目指して

2015年、川西は山形へ完全移籍。J2へ降格するも、2016年はボランチにコンバートされ、年間を通して主力としてプレーした。2017年からは大分トリニータへ移籍し、自身にとって3度目となるJ1昇格に貢献した。

G大阪時代にはJ1優勝経験のある西野監督や長谷川監督、山形ではJリーグ歴代最多指揮数(現在705試合)を更新し続ける石崎信弘監督(現カターレ富山監督)、大分ではチームをJ3からJ1昇格へ導き優秀監督賞を受賞した片野坂知宏監督、岐阜では独自の攻撃サッカーを構築する大木武監督(現ロアッソ熊本監督)など、数々の名将と呼ばれる指揮官の指導を受けてきている。

「結果的に独自の色を持つ良い監督ばかりに出会ってきたと思います。でも、自分のコミュニケーション能力の低さで人間関係を作っていくのが下手くそだったので、もったいないことをしてきました」

「それでも山形時代のイシさん(石崎監督)はこんな僕を受けれてくれました。ガンバでは西野さん(西野監督)や周囲の選手がやりやすい環境を作ってくれていました。大分のカタさん(片野坂監督)は、練習から100%でやらないと試合では絶対に使ってくれない厳しい監督です。それを常に見られてる感じもありますね」

「ガンバではヤットさん(元日本代表MF遠藤保仁、現ジュビロ磐田)がいて、フワフワしていながらもメチャメチャ巧かったですから。

ガンバの練習の中では『こんな感じでいいんちゃう?』と自分の色を出して練習の意図とは少し違ったアクセントをそれぞれが加えるんですけど、その感覚を他のクラブに持ち込んでしまったら『は?何なん?そんなん出来ても意味ないし』となるんです。それだけ西野さんの時のガンバは特別だったと思います」

J3岐阜、川西翔太インタビュー【後編】古巣ガンバ大阪との対戦を目指して

大木監督のサッカーに惹かれて岐阜へ

大分に移籍する前後はボランチとしてプレーすることが多く、葛藤も抱えていた川西。同時期に、弟のFW川西誠が所属するFC大阪がJFL(日本フットボールリーグ)に昇格し、2016年にはJFL得点王にも輝いた。兄にもポジティブな知らせが多く届き、良い刺激になっていたようだ。そして2019年、現在所属する岐阜へ加入した。

「大木さん(大木監督)のサッカーに魅力を感じていたので岐阜に来ました。大木さんには僕がガンバにいた頃から声をかけてもらっていて、実は2013年に移籍するタイミングでは山形か京都サンガに行くことになっていたんです。大木さんが京都を退任することになったので、その時は山形に決めました。岐阜からもまた声をかけていただいて、大木さんが指揮する岐阜に加入しました。だから大木さんのチカラになりたかったんですけど…」

加入当時はなぜ試合に出れていなかったのですか?(川西は大木体制時の出場はゼロでベンチ入りが2回のみ。2019年大木監督は第18節終了時に退任。)

「明確に言われたのは『守備ができないから』でしたね。大木さんの独特な攻撃サッカーは特殊な守備のやり方で成立している部分があるので、それを深く理解できていませんでした。

戦術的な守備ができなかったこともあって、大木さんにはずっと怒られ続けてましたね」

「大木さんは高校サッカーの監督のような迫力があって、怖いぐらいでした。日頃は笑顔の多い“サッカーおじさん”なんですけど。オンとオフの差が激しくて、岐阜ではずっとオンの状態でした。もう少しオフの状態を見せてもらっていたら、コミュニケーションを取りながら適度な距離もとって良い方向に進めていたのになと、今では思います。ただ同時に『監督とはこういうものだ』っていうのを目の当たりにさせてもらい、『自分はまだまだ緩かったんだな』と明確に感じさせてくれた監督です」

J3岐阜、川西翔太インタビュー【後編】古巣ガンバ大阪との対戦を目指して

J2そしてJ1昇格し、ガンバや大分と対戦したい!

岐阜は今季前半戦を首位の富山と勝点1差の3位で折り返しました。今季の最終節では、その大木監督が率いる敵地での熊本戦(熊本は現在4位)ですね。

「大木さんの下で試合に出られなかったのは自分に原因があり、大木さんのことはリスペクトしています。熊本へ行く前にJ3優勝、J2昇格を決めたいですね。今年のJ3には、昨季岐阜の監督だったカマタマーレ讃岐のゼムノビッチ・ズドラブコ監督や、山形でお世話になった富山の石崎監督もいます。恩師への恩返しの意味でも、そういうチームには負けたくないし、ゴールを決めていきたいです」

「まずはJ2昇格が目標です。そのあとは難しいかもしれませんが、J1へ昇格して公式戦でガンバや大分と対戦して勝ちたいですね!」

やっぱりガンバは特別なのですね!

「ガンバには一緒にプレーしてた選手は少なくなりましたけど、今も(倉田)秋がプレーしていますし、松波さんも監督をされています。奈良FCの大先輩である松代直樹さんがGKコーチもされているので、こっそり応援しています。アカデミーにもオグリさん(元日本代表FW大黒将志)やミョウさん(元日本代表MF明神智和)がいて、今もマネージャーをされている橋本篤さんにも凄くお世話になっていました。知ってる人がいっぱいいるのもあるし、選手だけでなくスタッフも全員がリスペクトできる特別なチームです。だから、そんな特別なチームと公式戦で対戦したいです!」

川西翔太プロフィール

1988年10月28日生まれ(32歳)177cm72kg、奈良県出身。中学卒業後に青森山田高校にサッカー留学、2年生時に夏のインターハイ優勝を経験。大阪体育大学へ進学後、2回生時に総理大臣杯優勝。大学卒業後はG大阪に加入、J1優勝争いやJ2降格、J1昇格も経験するなど、チームの過渡期に3年間プレー。2014年から3年間プレーした山形、2017年から2年間在籍した大分でもJ1昇格を経験。2019年から岐阜に加入し、J3降格を経験するも、2020シーズンはプロ入り後初の全試合出場と2桁得点(10得点)を記録。2021シーズンは前半戦を終了し、J3得点ランキングトップとなる9得点を挙げてチームを牽引中。基本技術が高く、ポストプレーやオフ・ザ・ボールの動きにも優れるFWで、ボランチやサイドMF、トップ下としてもプレーできる。最近の趣味はゴルフ。

編集部おすすめ