1924(大正13)年の創部以来、日本のサッカー界をリードしてきたことで知られる早稲田大学ア式蹴球部(サッカー部)。全国タイトル(天皇杯3回)や全国大学タイトル計27回(東西対抗13回・全日本大学選手権12回・総理大臣杯2回)などを獲得してきた名門である。
当然ながら日本代表に選抜されてきた早稲田大学サッカー部出身選手は数多く存在し、また同大学でサッカーを学び日本のサッカー史に大きく貢献してきた監督も1人ではない。ここでは、早稲田大学出身者が達成してきた日本代表の歴史的シーン5つを振り返る。
1968年メキシコシティーオリンピック:銅メダル獲得
1968年に開催されたメキシコシティーオリンピックにて、日本代表に選抜された早稲田大出身選手は5人居た。商学部の宮本征勝(DF)八重樫茂生(FW)釜本邦茂(FW)と、政治経済学部の森孝慈(MF)松本育夫(FW)である。
グループステージでのライバルは、スペイン、ブラジル、ナイジェリアという強敵。そのなか日本代表はナイジェリアを3-1で破り、勢いに乗ってブラジル戦で1-1、スペイン戦で0-0と引き分け、グループ2位で決勝トーナメントに進んだ。すると優勝候補のフランス相手に3-1で圧勝。ハンガリー(優勝)相手に0-5で敗北するも、3位決定戦で見事にメキシコを2-0で下し、銅メダル獲得に至った。
この時は釜本の活躍が目覚しかった。オリンピック中に7得点を挙げ、アジア人初の得点王に輝いている。釜本は現在もなお計75得点で日本代表の最多得点記録保持者である。
1996年アトランタオリンピック:ブラジル相手に奇跡的な勝利
1996年のアトランタオリンピックでも、日本サッカー史に重要なシーンが訪れた。当時のU-23日本代表(1992年バルセロナオリンピック以降、サッカー男子種目は23歳以下の選手に限定)はグループステージ突破ならずも、優勝候補と言われていたブラジルを1-0で下している。
ブラジルには、ロナウド(その後バルセロナ、レアル・マドリードなどでプレー)リバウド(その後バルセロナ、ミランなどでプレー)ロベルト・カルロス(当時インテル、その後マドリードなどでプレー)など、サッカー界の歴史を変えてきたスター選手が揃っていたこともあり、この日本代表の勝利は「マイアミの奇跡」(試合はマイアミ・オレンジボウル・スタジアムで行なわれた)と称されるようになった。
その日本代表を指揮していたのが、2018年にトップチームの指揮官にも就任した西野朗監督である。同監督は1973年に早稲田大学教育学部に入学し、選手としても日本代表に選出された経験を持つ。

1998年FIFAワールドカップ:史上初出場
1998年、日本代表は誕生して間も無くのJリーグ(1993年)所属選手のみで、史上初のワールドカップ(W杯)出場を果たした。Jリーグの誕生を支えたベテラン選手や、中田英寿(当時21歳)や小野伸二(当時18歳)のような若手選手が活躍。彼らをこの歴史的快挙に導いたのは、早稲田大学政治経済学部出身の岡田武史監督であった。
W杯本大会では日本代表は3敗し、クループステージ最下位という苦い結果ではあったが、この大舞台に足を踏み入れたことで世界中からの注目を浴びた。日本人選手が頻繁に海外に移籍し、海外で通用する者が現れるようになったことは、このW杯出場がきっかけとも言える。
中田英寿はまさにその1人だ。同W杯では全出場して輝き、多くの欧州クラブに注目された。多くの選択肢の中で中田はセリエA(イタリア1部)のペルージャを選択し、同クラブのプレーメーカーとして大活躍。2000年にローマに移籍し、そこでリーグ優勝まで味わうこととなる。

2012年ロンドンオリンピック:ベスト4入り
1996年以降の全てのオリンピックに出場を果たしてきたU-23日本代表だが、2012年のロンドンオリンピックでようやくメダル獲得に近づく。
早稲田大学教育学部出身の関塚隆監督の元、日本代表はホンジュラス、モロッコ、スペインを上回り、ランキング1位でグループステージを突破。エジプトを3-0で圧倒し準決勝に進んだ後に、メキシコに敗れ、銅メダルをかけた韓国との3位決定戦を迎えた。
残念ながら3位決定戦は韓国の勝利(2-0)となり、メダルまでは一歩届かず。しかし、韓国の指揮官を務めていた池田誠剛監督も、関塚監督同様に早稲田大学教育学部の卒業生であったため、この一戦は早稲田の底力を証明した試合ともなった。
2018年FIFAワールドカップ:決勝トーナメント進出
2018年ワールドカップの約2か月前に、日本サッカー連盟は理解し難い選択をした。指揮官であったヴァヒド・ハリルホジッチ監督を解任し、「マイアミの奇跡」を起こした西野監督に任せるというものだ。そのわずかな準備時間では、選手たちが西野監督のサッカーを理解するのは不可能ではないかと思われていた。
不安を感じていたのは西野監督自身もそうだった。早稲田大学ア式蹴球部OBが主催した壮行会に参加した際に「(日本サッカー協会の)技術委員長だったので、光を浴びるピッチに立つのは3年ぶり。どこまでやれるか、という思いはありますが、選手一人一人とコミュニケーションをしっかりと取って、世界で戦えるチームを作っていきたい。ア式蹴球部の仲間の存在は本当にありがたい。勇気をくれる仲間たちだと思っています。母校・浦和西高校の先輩の応援も心強いです」とコメントしている。
ところが不安に包まれていると思われていた西野ジャパンは、グループの強敵コロンビア(1位でグループステージ突破)を2-1で破り、1勝1分1敗で決勝トーナメントに進出。