【私が生きるクスリ】


 由紀さおりさん(歌手)


 今年が歌手生活55周年の由紀さおりさんは5月に、新曲「人生は素晴らしい」のお披露目を兼ねたコンサートをパリで行う。大ヒットした「夜明けのスキャット」から数々の名曲を歌い続けてきたが、元気の源はチャレンジし続けることだ。


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 これまで私は一度も諦めたことがなかったんです。いつも目標を設定して、それに向かって突き進んできた。目の前にニンジンをぶら下げられた馬のようにね(笑)。そんな例えをいくつかお話ししたいと思います。


 姉の安田祥子と80年代に始めたのが童謡コンサートです。どんなコンサートでも一度始めたら10年はやろうと決めていました。

まだバブルがはじけていなかった頃です。


 当時、応援してくれる方がいて、お正月にはロサンゼルスのリトル・トーキョーに呼んでもらっていました。その前にはホテルで身寄りのない方にターキーを配るクリスマスのドネーションが開かれる。その際、ディナーショーをやってほしいと頼まれ、姉と歌ったわけです。


■カーネギホールで実現した童謡コンサート


 そうしたら「これはカーネギーホールでやった方がいい」と言われたんですね。私は童謡コンサートを10年続けられていたらやろうと思って歌い続け、95年にカーネギーホールでの最初のコンサートが実現しました。

2回目は3年後の98年です。


 すると「カーネギーホールで3回やった人はいないから、もう1回やったらどうか」という話になった。だけど、私はむしろワールドツアーをやりたかった。シドニーのオペラハウスで歌いたいと思っていましたから。結局、それも実現し、世界各地を回り、2002年にオペラハウスで最終日を迎えることができました。やると決めたら諦めない。

それがカーネギーホール、オペラハウスにつながったと思っています。



針の穴を通すよう人とのつながりで実現したコラボアイテム「1969」

 ピンク・マルティーニとのコラボレーションは偶然が重なったたまものでした。コラボアルバム「1969」がリリースされたのは11年、東日本大震災の年です。スタッフのひとりがYouTubeで「天使のスキャット」のカップリング曲「タ・ヤ・タン」を日本語で歌っているピンク・マルティーニを見つけ、それがきっかけで10年のピンク・マルティーニのビルボードライブ東京のコンサートに飛び入り出演するんですね。


 震災前は新曲を誰に書いていただくか悩んでいた時期です。AKB48全盛の時代ですから秋元康さんに相談した方がいいよと言ってくださる方がいたので、お会いしました。

秋元先生に「由紀さんの『夜明けのスキャット』はラジオの時代のヒットだよね、あの時代の歌をもう一度やるのもいいけど、ただやるだけじゃお客さんは来ないよ」と言われてグサッときました。先生が書いてくださることにはなったけど、私の中ではモヤモヤしたものがありました。


 その後、しばらくしてピンク・マルティーニとのカバーアルバム制作のアイデアが出てスタッフが何度もメールのやりとりをしたのですが、具体的に進まない状況が続き、スタッフが一度打ち合わせに会いに行きました。そんなさなかに震災が起きるわけです。仕事は震災ですべてなくなりましたから、自分でポートランドまで行って確かめたいと思い立つんです。私に不動産関係の知り合いがいて、その方が海外の賃貸契約を確認するのにポートランドにも定期的に出かけているという話を聞いていました。

そして、その方が利用している旅行会社の日本人の担当がピアノのトーマスさんととても仲がいいということもわかった。


 私がスタッフにポートランドに行きたいと直訴したら、トーマスさんと仲がいい人がいるなら一人でも大丈夫だろうと理解してくれて、出かける準備を始めました。それでその方に連絡したら、電話が通じて「新幹線の中から話してます」というじゃないですか。「どうしたんですか」と聞いたら、「ポートランドの日系人の方を旅行に連れてきている」と。


 私はトーマスさんに会いたいとお願いしました。聞けば、その人はフジテレビで放送された「オレゴンから愛」を撮っていた時に仕切っていた旅行会社の社員で、3.11で被災した人のためのチャリティーコンサートをやることになっている、それをプロデュースするのがトーマスさんだというのです。

もうトントン拍子に話がつながりました。


 それならとポートランドに出かけ、トーマスさんのピアノで「夜明けのスキャット」「故郷」「赤とんぼ」を歌いました。それが認めてもらえるかどうかで彼らとコラボできるか決まると思ったので、ものすごく緊張したのを覚えています。トーマスさんに「2日間くらいポートランドに残ることができるか」と言われた時はホッとして、「大丈夫」と即答していました。


 仕事は何もないわけですから、GWに10日くらい、またアルバムのレコーディングのためにポートランドに来ることを約束しました。トーマスさんもレコーディングできるのはその10日間だけということでした。私は出かけて行って、残りの曲を全部レコーディングして帰ってきました。


「1969」はジャズチャート1位になり、世界的なヒットになったわけだけど、そもそもは新幹線にいた神様が接点をつくってくださったこと、私の友人の友人がトーマスさんと私をつなぐ役割をしてくれたことで実現したアルバムです。彼らを知ってから完成するまで3年くらいかかりましたが、やはり諦めなかったから実現できたことだと思います。



三味線で一人芝居を始めた延長線上に「チントンシャンソン」

 彼らとは、3年半くらい一緒に仕事をして、世界中を回りました。その間、インターネットが発達して世界のありようも音楽のありようも百八十度変わりました。音楽はパソコンで作るグループ、そうじゃないグループがいて混沌としています。そんな中で迎えたのが50周年です。20年に三味線を始めて、東京の観世能楽堂で一人芝居をやりました。でも、コロナで大阪と名古屋の能楽堂で予定していた再演は中止にしました。


 その時、せっかく始めた三味線を私なりに着地することができないのは嫌だなと思いました。気になったのは能楽堂の一人芝居を見にきてくださった名取りさんに言われた一言。「私たちは三味線は弾くけど、歌えないからね」。そう言って帰っていった。それで、私は歌手だから、弾くだけじゃなく歌うこともできると気がつくわけです。それからお師匠さんとも相談して、赤坂のライブハウスでジャズチームと一緒に着物を着て三味線を弾き、歌うライブを2年くらいやりました。最初はうまくいかなかった。惨憺たるものでした。2年目からは、まあなんとかという感じでしたが。


 そして、大阪の新歌舞伎座でトライアウト的にやらせてもらう機会を得て、来てくださった方がとても喜んでくださった。55周年でもぜひやってみたいと言ったら4月21日の55周年の新歌舞伎座公演が決まりました。さらに、パリでのコンサートも。来年4月に締めくくる予定です。


 コンサートの1部では着物で三味線を弾きながら歌い、2部は私の歌とシャンソンを歌います。パリで歌うからフランスの方に曲を作ってもらうことになり、何作か作ってもらい、その中から1曲選び、松井五郎先生に作詞していただいて、新曲「人生は素晴らしい」ができました。


 三味線を一緒に弾いてくれるのはお師匠さんの弟子のアメリカ人です。パリでやるから挨拶ぐらいはできないといけないと思って、月に2回、フランス語の学校に通っています。歌う時はフランス語の都々逸をネタでやって、笑いを取ろうかと(笑)。コンサートを構成してくださる先生が、私の三味線のところのために「さおりのチントンシャンソン」というのも作ってくださいました。


 ステージに自分の足で立てないと歌うことができないので、6年前からパーソナルトレーナーにもついています。足腰と股関節を柔らかくして体幹をキープしないと、着物を着てお草履でステージに立ち、それから7センチのヒールに履き替えて動くことなんてできませんからね。


 サブスクで何でも聴けちゃう時代。会場に足を運んでもらうには、そこで聴いてみたい何かをやらないといけない。拙い三味線でもいいし、チントンシャンソンでもいい、ネタでもいいから、出かけて、見てみたいと思わせる何かをやらないとダメだと思います。


 自分の体調、与えられた条件の中で「今日の一番」をやることができるか。それがステージに向かうポリシーであり、夢を見続けることが私の生きる力です。


(聞き手=峯田淳/日刊ゲンダイ)


▽4月17日リリース 新曲「人生は素晴らしい」、デビュー55周年「由紀さおりベストオブベスト~55th anniversary」。「由紀さおり 55th コンサート~新しいわたし~」4月21日新歌舞伎座、5月17、18日パリ日本文化会館