妖怪ウォッチ』の大ヒットにとどまらず、クロスメディア戦略による新規タイトルを続々と生み出している、福岡のゲームメーカー レベルファイブ(LEVEL-5)。東京ゲームショウ 2015のキーノート・スピーチでも注目を浴びた同社代表取締役社長/CEO 日野晃博氏に、これまで手掛けてきた作品のルーツや、クリエイターと経営者双方の視点から見たゲーム業界の未来についてじっくりと話を訊きました。


(聞き手: 黒川文雄)

■自由な発想のルーツは少年時代に

――日野さんが手掛けたタイトルにルーツがあると思いますので、その辺りからお話をうかがいます。福岡県大牟田市で少年時代を送っていますが、東京と違って娯楽も限られていたのではないでしょうか。その頃は、どのような子供時代を過ごしていたのでしょう。

日野晃博氏(以下、日野): 何にでも興味を持つ子供だったので、自分の行動範囲内の本屋や電気屋に行ったりしていました。自分の興味があるものに対し正直に動いていた感じですね。

――後にマイコンのプログラムに傾倒していくのですが、元々のきっかけはあったのでしょうか。

日野: 小さい頃からメカみたいなもの、まだミニ四駆と呼ばれる前の自走式模型やラジコン、そういう機械系のものがすべて好きでした。その後、マイコンのようなものが登場しだしたのですが、最初は実物を見ることもできなかったので、関連書籍を読んで興味を持っていきました。

――毎日放送系列のドキュメンタリー番組「情熱大陸」で拝見したのですが、プラモデル屋にもよく行っていたようですね。

日野: そういうものにも興味を持っていました。

――その後、実際にプログラムを始められたわけですが、ご自身ではどういった部分を面白いと感じていたのでしょうか。

日野: プログラムに限らないのですが、最新のものや、世の中に無いものを見ていくことが好きだったみたいです。


――まさに今は世の中にないものを作っていますよね。誰もが子供のころはクリエイティブな発想を持っていますが、大人になるとその感覚が無くなっていくと思います。日野さんを見ていると、ずっと子供の頃のようなクリエイティブ性を持ち続けているように感じられるのですが、それはなぜなのでしょうか。

日野: 両親共遠く離れた場所で働いていたので、主に祖母に育てられていました。もちろん、両親とは一緒に過ごす時間はありましたが、祖母の家にいる期間が多かったので自由にさせてもらっていたんですね。あれをしちゃいけない、これをしちゃいけない、みたいなことは言われませんでした。子供のころに親からあまり管理されずに育った環境が、今のクリエイティブに繋がっているのかもしれません。

――つまり、何者にもとらわれることなく自分の自由にやってきたからと。

日野: そうですね。行動も自由でしたし、あまり危険な場所ではなかったこともあって自由に動き周っていました。小さい頃は、今なら絶対に真似してはいけないと怒られるレベルの、やってはいけないことばかりやっていましたけど(笑)祖母の甘やかしが入っていたので、他の子供たちよりも使えるお小遣いも自由がきいていたりと、そういう制約を受けないところで育ってきたことが、今のクリエイティブを形成するバックグラウンドになっているのかもしれません。

――なんでも自分で作れるし、なんでも自分で考えられるということですね。


日野: 自分の考えたことをそのまま実行して行動することが当たり前だと思っているので、誰かから言われたことをする、ということをあまりやらなくて済んでいたと思います。

■ゲーム会社を経て起業へ

――それは今の経営に至る部分に近いものがありそうですね。その後、システムソフトやリバーヒルソフトといったゲーム会社で働かれていますよね。

日野: 多くのものを見て、いろいろ勉強をして、個人的には一般の人とは違うくらいの知識を持っていると思っていましたね。

――それはエンタメに対する知識ということですか。

日野: そうですね。会社に入った時は他の同期のメンバーよりもずっと知識がある状態でした。でも、会社に入った後は自分の実力は非常にちっぽけなものだったと気づきました。少し打ちのめされた感もありましたが、むしろやる気に繋がりましたね。まだこんなに広い世界があったのかと。

――ご自身でもそう思われることがあったのですね。よく言われているのが、経営もゲームと同じでレベルを上げていくのだと。
ご自身で自分の知識であるとか、経験の足りなさを実感して、もっとやらなければいけないと考えたわけですね。

日野: そうです。もっとやるべきことがあった、という感じです。

――それは、プログラムやゲームの企画、エンターテイメントに対する追求ということでしょうか。

日野: 主にプログラムの技術的なことでした。僕はなんでも作れるつもりでいたのですが、会社に入ってみると、もっと高い次元の、それはコンピューターを開発する人がやるような次元のことを先輩たちはやっていたんです。OSの上にソフトウェアを開発していくのが当たり前だったのですが、会社に入った時の先輩たちは、そのOS部分を作っていたりとか。その頃はまだPCでのローレベルのプログラムで、MS-DOSというOSでした。MS-DOSの上で動くプログラムだとスピードが十分ではなかったので、OSレベルでファイルの一部分を管理する仕組みを独自で作ったり、OSを介さずに直接ゲームが立ち上がるようにしようとか、そういう概念自体も新しかったですね。

やはり、プロというのはこういうことなんだなとその時思いましたね。本に書いてあることだけやれるようになっても、やはり現場は違うんだ、と。会社の中に、この人の技術は学ばなければいけない、みたいな尊敬できる人がいると、仕事もやる気が起きましたし、毎日会社にいるのが楽しかったですね。


――そのような経験を経て独立されたわけですね。

日野: レベルファイブを設立した時は、もともとSCEさん(ソニー・コンピュータエンタテインメント/現SIE)がサテライトカンパニー(いわゆるセカンドパーティー)というのを作っていた頃です。サテライトカンパニーはクリエイターを囲って、一つの小さい開発会社を作り、それを支援しながらソフト開発していくというシステムでした。自分たちもそんな風に扱ってくれないかと考えていたのですが、SCEさんのその当時の佐藤明副社長は、「才能を信じて契約することはいいのだけど、サテライトカンパニーではなくて自分たちの会社にしてください」と僕に言ってくれたんです。それで僕は自分で会社を作りました。
サテライトカンパニーのシステムはその後、無くなってしまうのですが、もし僕がそこでやっていたら、今のレベルファイブは無かったかもしれませんね。そういう意味では、あの時の判断は良かったのだと思います。だから、SIEさんだけでなく、任天堂さんのハードでもゲームを作れるわけですし、すごくいい助言でした。佐藤さんの真意は分かりませんが、僕らはそういった枠にとらわれず自由にやったほうがいいんじゃないかと思っての助言だったのかもしれません。

――結果的にはすごく良い選択になりましたよね。

日野: 佐藤明さんは、僕らにとっては恩師ですよね。

――システムソフトやリバーヒルソフト在籍中は、自分が作りたいものを自分の意志で作るということがモチベーションとしては強かったですか。


日野: 自分の作りたいものは、会社に入ったばかりの時はありませんでした。ただ、周りに追いつきたいという気持ちがすごくありました。一番にならないと気が済まないところがあるので、負けず嫌い精神の中で先輩たちを出し抜いてやろうというのがモチベーションでしたね。その時の大きな転機となったのが、誰もがファミコンの『スーパーマリオ』が面白いと言っていた頃、PCエンジンが出たぐらいの時に、これからは3Dの時代になるので研究をさせてくれとその当時の社長に頼み込んだことですね。僕はもう海外は3Dの波が来ているので、日本も近いうちに3Dになっていくと思うので、研究をさせてほしいと。それをOKにしてもらいましたが、会社の中には誰も3Dが分かる人間がいなかったので、僕一人で研究していました。

――その時期というのは、業務用で3Dが出始めたくらいの時ですよね。

日野:業務用としてワイヤーフレームの戦闘機のゲームなどが出始めた頃です。

――セガでいうとMODEL1とかの基盤の頃ですね。

日野: まだ3D向けのマシンがほとんど無い時期に、高いスペックのパソコンで強引に3Dのプログラムを作っていました。当時は3D向けの回路とかも一部のパソコンにしかなかったので。会社はPCエンジンやファミコンをやり始めた頃で、やはりそちらのプログラムをきちんと作らないといけない時期でした。
僕も大規模なRPGに関わっていたのですが、途中から3Dの研究をさせてもらった形です。それが会社の中で僕が有利なポジションを取る一番の転機だったと思います。一人で勉強して、参考書も買いまくって、先輩たちも知らないことを自分が先に知れるということが、何よりもエキサイティングでした。それから、ついに3DOというゲーム機がでて、3Dの時代が来ましたからね。それで3DO向けのゲームを作ったのですが、あまり思わしい結果ではなくて。3DO自体があまり普及しなかったので厳しい状況でした。次にプレイステーションが登場して、そこでヒットできたので、会社の中での評価を大きく上げることができました。3Dのツールを自分で作ったりして、会社の中の立場はどんどん上の方になっていきました。。一人で3Dのことを把握している状況でしたので、当時はプロジェクトリーダーになったりして、3Dのゲームを会社の中でまとめていましたね。

――その当時に苦労したことはあったのでしょうか。

日野: 世の中に申し訳ないくらいなのですが(笑)、僕は苦労をしたと感じないんですよ。レベルファイブを始めたときも、仲間たちと一緒に楽しくやっていましたし。もちろん、喧嘩したりもめたりしましたが、それを苦労という風には全然感じなかったですね。喧嘩してムカつく、みたいな、そんな学生レベルのものは日々あったにしても、毎日毎日楽しく過ごしていたらなんとなく結果がついてきた感じです。ただ、ゲームを作ることだけは真剣にやってました。会社もお金が無限にあるわけではないので、開発会社としてもらったギリギリの資金でやりくりしていました。本当にギリギリで開発していたので会社の資金がショートしたりするんですよ。そうすると自己資金を会社に入れることもありましたね。

■ゲーム作りに必要なのは自分の気持ちに正直になること

――その結果、PS2タイトル『ダーククロニクル』で成功されて、『ドラゴンクエストVIII』の開発会社として指名を受けるわけですが、初めて3Dになったタイトルということで逆風だったのではないでしょうか。

日野: どちらかと言うと賛同意見のほうが多かったですね。もちろん出来上がったあとに前のほうが良かったとかはあると思いますが、ドラクエチームとか、作る側に関しては評判はすごく良かったです。そういうこともあり、僕らは逆風として感じたことはないですね。今でこそプロデューサーとしてこういう風に作ればいいというノウハウもありますが、『ドラクエVIII』の時は1からなんでもやっていたので細心の注意を払いながらやっていました。プロモーションビデオ(PV)も自分で編集して作っていましたし、絵コンテも自分で描いていたりと、ディレクターとして細かい作業もしていました。

――空間やディテールには神様がいるという観念が美術の世界にはありますが、一つ一つの作品に対して、日野さん自身の気持ちをこめたものを常に作りたいという思いはありますか。

日野: それはありますね。自分が何か認められないものだと、やる気も起きませんし。

――よくゲームを作っている会社に聞くと、たくさんの開発チームがあって、その中でクオリティ的に良くないものを一度クラッシュさせて、それを他のプロジェクトに投入するみたいな考えがあります。日野さん自身は常にミリオン超えるような作品を生み出しているわけですが、そういう考えでは作ってないのでしょうか。タイトル一本一本に対して日野さんが本当に作りたいものを徹底して作りこんでいくという考え方ということでしょうか。

日野: 作るときは全部そうです。ですが、他の会社と同じように、自分で作った企画でも途中でこれはものにならないかなと感じることがあるんですよ。その時はなくしてしまいますね。

――それは意外でしたね。『スナックワールド』もそうですが、一本一本のタイトルすべての世界観やディテールが細かく作りこまれていますし、さまざまなPVも事前に用意されていますよね。

日野: どうしても途中で底が見えてくるというか、この先に行っても展開が広がらなさそうだとかわかってくると、会社のプロジェクトとしてビジネスにならないので閉めようという感じではなくて、自然とやる気が落ちてしまうんです。

――クリエイターとしてのテンションが下がると。

日野: 僕のテンションが一つのパロメーターだと思っています。自分のやる気が落ちてきたプロジェクトに関しては、これにはワクワクする要素が少ないんだろうなと感じて、そこで進行をやめることはありますね。

――まさに帝王判断ですね。実績を拝見すると常にミリオンセラーを達成されていますし、ダブルやトリプル以上のミリオンもたくさんあります。そのコンテンツに関して、日野さんが一本一本を見ている結果としてあるのでしょうね。そして、先ほど言われたような帝王判断も働いていると。

日野: そうですね。社長の判断としては理屈ではなく直感でNGを出しているので、まさにそういうことですね。多数決で決めるものではありません。

――そういう点では、日野さんはクリエイターと経営者が一体化していると言えますが、そのバランスというのはどのようにお考えでしょうか。例えば3億円かけてプロトタイプを作って、でも気持ちが動かない、先が見えないという時にプロジェクトをクラッシュしますよね。その一方では経営という側面があるわけですが、その辺りはクリエイターとしての感性が先行しますか?

日野: 僕は経営者の判断だと思っているんですよ。結局、自分の感覚的にこれは駄目だなと思うこと、つまり、やる気を失っていること自体がクリエイティブを評価する経営者判断だとは思っていますので。それも含めて、直感的にこれのプロジェクトはやばいなとなったら静かにフェードアウトさせていくような、そういう判断をとることはありますね。

――日野さんが手掛けられてきたプロジェクトは、ジブリとかガンダムも含めて、ご自身が過去に影響を受けたり、憧れだった会社と仕事をされたい気持ちが強いように見えるのですが、それはいかがでしょうか。

日野: その通りです。自分が興味を持ってやることが一番大事だと思っています。興味とやる気を持っていれば、普通以上の力が出ますのでそこは大事にしています。ジブリやガンダムもそうですが、『レイトン』で監修をお願いした多湖先生(心理学者・作家の多湖 輝氏)の本もベストセラーになる前から買っていましたし。

――カッパ・ブックスの「頭の体操」シリーズですよね。私も読んでいました。そういう自分がインスパイアを受けたものに対して、今風のアレンジを施したいということでしょうか。

日野: DSの『脳を鍛える大人のDSトレーニング』が流行るのであれば、自分が好きだった多湖先生の「頭の体操」もゲームになるはずだというところがありました。

――それが『レイトン教授』につながったんですね。日野さんのプロジェクトを見ていると、かつて自分や日野さんが見てきた昭和のアニメや昭和のテイストのオマージュの要素が感じられます。インスパイアを受けた上で、日野さんの感性と今風のアレンジでコンテンツを作っていくという。

日野: 僕は、一番信頼できるものは自分の過去の経験だと思っています。子供向けのものを作ろうとして今の子供たちを研究しても、どう頑張っても今の子供たちにはなれません。世の中が違いますし、学校で起こってることも全然違います。ただ、子供たちが持っている知識とか感性の中で楽しいと感じることは今も昔もそう大きく違わないと思うんですよ。強いロボットが出てきて悪いやつを倒すような熱さは、映像のクオリティは変わったとしても、本質は今と変わらないですよね。熱血スポーツものも形は変わりますが、今でも通用する要素がありますし。でも、昔のアニメを今そのまま見ても、周りの環境や世界観が違いすぎて子供たちが感情移入できないですよね。もちろん、今の世の中にあったものだけでも一つ作品にはなるとは思っていますが、坂本龍一さんが自身の音楽性の95%は過去の人たちのクリエイティブな遺産によるものだと言われていますが、自分も同じなんです。科学と同じで、過去の人たちが築き上げてきた科学に今の科学者たちが上乗せして最先端なものを作っています。それはゲーム作品にも言えることですし、映像作品にも言えることです。子供たちを喜ばせるために開発された過去の様々な手法やシチュエーションは今ももちろん使えますが、最先端の技術と手法を取り入れたものにしなければいけません。例えば昭和のサッカー漫画と『イナズマイレブン』の関係もそういうことが言えます。『イナズマイレブン』の技は過激さが相当アップしていますが、「ドラゴンボール」を経て進化してきている作品を見てきている子供たちには、技を使うということの度合いはこのくらいの映像で見せないと技とは思わないんです。ただスピードが速いというエフェクトが出るだけでは、観念が変わっているので技とは言えないかもしれないんです。そこに必殺技として名前がつくレベルの技にするためには、今の技術を使ったすごいと思える映像にしないといけません。昔ながらの神髄みたいなものを、人を楽しませる根本的な部分では使いつつ、今の感性やセンスを取り入れた新しい作品を作るというのが、一つの必勝法なのだと考えています。

――『妖怪ウォッチ』を例にとると、元々のインスパイアを受けたものはあったのでしょうか。例えば藤子不二雄的な世界観など。

日野: 僕は藤子不二雄の世界観は大好きで、まさに『妖怪ウォッチ』もそうなんです。『ドラえもん』みたいな30年続く作品を作りたいと考えたときに、やはり主人公はのび太君みたいなほうがいいのかと考えると、今は補修授業があったりしてあそこまでの落ちこぼれを生まない社会になりつつあります。そこで、一番残念に表現できるのは「無個性」だと考えました。主人公が馬鹿にされる要素があって、そこを笑いにしていくのであれば、現代の主人公像というのは、何もできない落ちこぼれではなくて特徴がない「普通」と呼ばれてしまうような子のほうが、現在ののび太君なんじゃないかと。『妖怪ウォッチ』は現代を反映した『ドラえもん』のような作品なんです。

■人との繋がりが築き上げていったクロスメディア展開

――そういった作品の中でクロスメディア戦略というのをお考えになっていますよね。ご自身でトータルで作りたいという考えが元からあったのでしょうか。

日野: クロスメディアでは、『スナックワールド』が第4弾、『メガトン級ムサシ』が第5弾がとなっています。もともと『イナズマイレブン』が最初のクロスメディアとしてアニメ・ゲーム・漫画で展開していて、そこに玩具も入ってきた形です。でも、『イナズマイレブン』を最初にやり始めたころは、玩具はクロスメディアのプランに入ってなかったんです。次の『ダンボール戦機』ではプラモデルを扱う仕組みだったので、そこでクロスメディアの戦略の中に玩具が組み込まれるようになりました。そうやって、いろいろなクリエイティブ関連の人たちと知り合う中で、彼らとビジネスできるようなものを取り入れた企画を考えるようになりました。そして『妖怪ウォッチ』では、玩具のことも含めて全方位の商品展開を考えた上でのプロジェクトとなりました。

――それを考えると、クリエイターと経営者両方の側面からすごいことをされていますよね。トータルでそこまでされている方は日本では非常に少ないと思います。

日野: 幸せなことに自由にやらせてもらっています。僕もプランナーによく言うのですが、ものを作るプランナーの最大の敵は恥ずかしさというか、自分が考えたものを人の前に出して「何それ全然面白くないね」と言われるのを怖がることなんです。だから、どうしても過去に流行ったものを踏襲したり、発想として守りに入ってしまうんですね。僕は、過去に自分の企画がNGにされた経験がほとんどなかったので、自分の企画を出したときに批判されるのを全然恐れていませんでした。恥ずかしげもなく恥ずかしいことを書けていました。例えばそれを誰かから批判されたとしても「それはお前のほうが間違ってるんじゃないか」みたいな気持ちでしたね(笑)。もし本当に自分が間違っていたとしても、そのくらいの気持ちで周りとやりとりできるとプランナーとして発想が自由になると思うんですよね。だから、最初の企画立案の部分を強く立ち回れるのだと思います。僕が先輩たちから教えられながらステップアップ型で育ったプランナーだったら、たぶん現在のようにはできていないですね。何も下積みがないままプロジェクトリーダーをやったり、メインプログラマーをやったりと、僕はほとんど飛び級でやってきていましたから。誰にも制限されないところで発想できるということが一番大事なことだと思います。最終的には周りの評価を得られなければクロスメディアもできませんでしたし。例えば、自分の恋愛をひけらかすような企画を持ってくると、恥ずかしいなとか否定されるのではとか、いろいろなバイアスが働くじゃないですか。しかし、結局のところ人間の深いところに刺さるものは、恥ずかしいものと瀬戸際のところにあると思うんです。その恥ずかしさの瀬戸際のところで起こるものを作らなければ、今日ではヒットできません。その一歩手前でやめてしまうと、振り切ったものにならないんです。そういう意味では、僕にはどこまでの才能があるかはまだ謎ですが、自分が持っているものを100%使う土壌を持っているという部分が、おそらく他よりも有利なのだと思います。

――一方で、組織的なところでは、やはり日野さんの存在が絶対的過ぎて、現場から企画などが出にくいものになっていたりはしないのでしょうか。

日野: 出させようとはしてますが、普通に出にくいと思いますね。先ほど述べたことの逆パターンではありますが、この企画を出したら日野さんが何か言うんじゃないか、となってしまうでしょうし、僕はもちろん言うと思うんです。でも、それはしょうがない部分で、それを乗り越えてくるか、乗り越えられないなら僕の手の中でやってもらうしかなくなるわけですよね。そこを乗り越えてくるような人間が出てくる土壌は、作っておきたいと思っています。

――実現はされていますか。

日野: いくつかは良い企画はでてきています。実現するために、ここから少しずつやっていきたいですね。

――レベルファイブがベンチマークとされている会社はあるのでしょうか。

日野: 今はディズニーのようにIPを適切に扱える会社になりたいと思っています。自分たちが育ててきたIPをしっかりと守って、きちんとそれを商品にしていく。ゲームや映画でも、それを長く維持していくことをやっていきたいですね。

――もう一つお聞きしたかったのは、わりと早い段階から九州におけるクリエイティブの会社と連携していることについてです。10月22日には九州でCEDECがありましたが、積極的に地方の産業を活用、もしくは促進されるようなことをされていますが、そこは九州に対して思い入れがあるからなのでしょうか。

日野: 僕が育ってきた場所ですし、会社も最初に福岡に作っていますから、そこに対して思いいれはもちろんものすごくあります。ただ、僕にはあまり地方を盛り上げようという意識はありません。福岡には隠れた良いものがあるというか、元からパフォーマンスがあるんですよ。クリエイティブが育ちやすい環境ですね。僕がたまたま福岡にいて、福岡にはそういった潜在能力があったので育てたいと。もし全く潜在能力がないところで育っていたら、地元愛だけでそういったアクションを起こさないでしょうね。

――福岡という街自体がそういったポテンシャルを持っていて、育てればさらに伸びると。確かに、松山さん(サイバーコネクトツー代表 松山洋氏)も福岡で活躍されてますね。

日野: たまたま近くに才能のある人材がいた、みたいな感じに近いと思います。

――『スナックワールド』ではスマホ版が先行されると伺っていますが、その意図について教えてください。

日野: はい、今のところはスマホ版を先行して、玩具との連携の実験をしていこうと思っています。

――コンテンツの作り方に関しては、スマホと従来型のゲームでは別々の考え方をされているのでしょうか。

日野: いえ、『スナックワールド』に関しては、スマホに合ったものを作るとかいう意識はありません。プロジェクトとしてどのような仕掛けがいるかという判断の上で作っています。あまりスマホであることは意識してないですね。

■レベルファイブが見据えるゲームの未来

――今、世の中の流れとして、『ポケモンGO』に代表されるようにゲームの遊び方が変わっている感じがします。そういったアプローチに対し、レベルファイブとして何か考えを持っていたりはするのでしょうか。

日野: 確かに、ゲームの遊ぶスタイルというのはかなり変わってきていますので、それにあったゲームデザインを意識することは普通にやっていくと思います。ただ、レベルファイブに関しては、世間のスマホへの移行についていけていない部分があります。子供たちをターゲットにしたコンシューマー向けのゲームの仕掛けに比重を置いてきていますので、スタッフのゲームを作るスキルもどちらかというとコンシューマーよりになっています。スマホに関してはもっと勉強していかないといけないところです。

――今のレベルファイブのゲームのファンというのは、日野社長も言われたようにお子さんがターゲットですが、その彼らがあと10数年したら、その子ども達が大人になって新たな顧客となっていきます。その頃にはスマホではないインターフェースの世代になっているかもしれませんが、未来の顧客を今作りだされている気がします。

日野: 『イナズマイレブン』は来年復活する作品ですが、初代から8年経過していますので、当時の小学生たちが大人になりつつあります。ある意味ちょっと上の層に向けたコンテンツも作れるかもしれません。

――先ほど家庭用のゲーム機の話が出ましたが、現在はパッケージ市場が少し厳しくなっている状況です。家庭用ゲームに関して、今後の展望は何かありますか。

日野: VRや任天堂さんを含めた新ハードは、基本的には力をいれていこうとは思っています。完全にスマホだけをターゲットにしていくことはなく、従来通り家庭用ゲームもやっていきます。

――アメリカでも『妖怪ウォッチ』をリリースされていますが、海外展開はいかがでしょうか。特に新興国のアジアについて。

日野: 中国に関しては市場が大きいということもありすごく重要視しています。『妖怪ウォッチ』は中国のみ展開していませんし、そこは慎重に準備して展開しようと考えています。北米・欧州に関してはもちろん、アジア圏の様々な国々や巨大な市場としての中国は今後も重要視していきます。

――現地に向けたタイトルを作るような計画はあるのでしょうか。

日野: 今、現地に向けて作っているものはあります。日本でも展開するかもしれませんが、海外優先のものです。

――先ほど家庭用ゲームが厳しいというお話をしましたが、ARやVRによって転換期はあるとお考えでしょうか。

日野: 僕は、プレイステーション4はエンターテインメントとしてお客さんに届ける形が、オンラインも含めしっかりとできていると思います。展望は明るいのではないでしょうか。

――いろいろな会社とコラボを行っていますが、それは日野社長がお声がけしているのでしょうか。それとも会社として面白そうだからと提案しているのでしょうか。

日野: いろんなパターンがありますね。コラボを持ちかけられることもあるし、こちらから提案することもあります。ゲームクリエイター同士の繋がりもありますし。

――吉田さん(スクウェア・エニックスFF14』ディレクター吉田直樹氏)ともお親しいですし『FF14』ともコラボもされてますよね。

日野: 他のコラボはお断りすることが多いのですが、吉田さんのお子さんも『妖怪ウォッチ』の大ファンということもあります。そういったクリエイター同氏の繋がりの部分でのコラボですね。

――先ほども話にありましたが、『ポケモンGO』で最近の子供たちのゲームの遊び方が変わってきているともいます。将来的には子供たちの遊びはどう変化していくと思われますか。

日野: 『妖怪ウォッチ』を作りながら感じたのですが、昔は『ドラクエ』のように一人で遊ぶものがゲームの主軸で、攻略すべきはゲーム自体でした。最近では対戦型のような人と競い合ったり、人と一緒に協力して何かをするような、マルチプレイのほうが断然エキサイティングであるという感じになっています。逆に対戦要素が少ないと、面白いと感じてもらえないようになっています。その人と一緒に遊ぶ仕掛けが、より重要視される状況になっていると思います。大人の世界でもそうですし、特に子供の世界では。

――そういった子供の目線を維持できるのはなぜなのでしょうか。

日野: それは僕もゲーマーだからではないでしょうか。ゲームにものすごくお金を使っていますし(笑)。

――最後に、レベルファイブのゲームファンに対してメッセージをお願いします。

日野: レベルファイブは新しいことを皆さんに届けたいと思っていますし、もしかすると失敗もあるかもしれません。でも、常に見たことがない新しいもの、本当に新しい体験ができるものに対して力を注いでいきます。過去のものを長く続けていくことも大事だと考えていますが、それ以上に新しいIPを立ち上げて、新しい作品を世の中に出して業界を盛り上げていきたいですね。もちろんお客様を楽しませることをモットーにしているので、そういう点にも注目してもらいつつ、これからも僕らの作品で楽しんでいただきたいと思います。

――どうもありがとうございました。

※<B>次ページ: 取材インタビュー後記</B>

■取材インタビュー後記

日野さんのインタビューをさせていただくまでには随分と時間がかかりました。最初のご提案は1年ほど前に遡るものと記憶しています。日野さんがご自身で話題作を企画開発し、数多くの関連グッズなどすべてのプロデュースの目を向けていることは従前より存じ上げており、取材のタイミングが合うこと自体が奇跡のような出来事でした。

この取材をご提案した経緯はたくさんありますが、ひとつは東京ゲームショウ2015における基調講演がとても心に残りました。

プレゼンテーションの面白さ、わかり易さはもちろんのこと、「帝王判断」(強引なワンマン判断が可能)という日野さん独自の判断基準、そしてクリエイターへのアドバイスとして「理解してもらう努力を忘れるな」、経営者へのアドバイスとして「クリエイターを過保護にするな」というものでした。

さらには「経営陣とクリエティブ人の視点が全く同じ」というレベルファイブの体制です。
また自身が原作者でありながら出資者でもある強み」を活かしたクロスメディア展開のコンテンツ開発の成功事例など学ぶべきポイントが多々あると思ったからです。

インタビューをお読みいただければお分かり頂けると思いますが、日野さん自身も言葉を選びつつも、積極的な発言をいただきました。それらは「過去の慣習にとらわれない判断」だったと思います。

経営そのものをゲームに例えてレベルアップすることを真剣に考えること、自由な発想のもとに自身の体験に裏打ちされたエンタテインメントを追求するマインド、日本のゲーム産業の経営者のなかでも若く、そしてオーナー企業であるレベルファイブを率いる日野さんのビジョンがこのインタビュー取材を通じて読者の皆さまに伝われば幸いです。

2017年のレベルファイブ社、日野さんのさらなるご活躍を楽しみにしています。
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