その名は、「萬龍(まんりゅう)」。
人気を博した芸妓さんでした。「美人は人生が楽でいいよな~」と思うかもしれませんが、実は萬龍は波乱万丈な人生を送りました。
今回は、そんな彼女に迫ってみたいと思います。
なお、「まんりゅう」の表記については、文献によってさまざま(万竜、万龍、萬竜など)あるようですが、この記事では「萬龍」で統一します。
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■可愛すぎで小学校を退学!?萬龍の生い立ち
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萬龍の本名は田向静(たむかう しず)と言います。明治27(1894)年に東京・日本橋で生まれた彼女は、子どものころから困難に見舞われます。
運送屋の下請けをしていた父親が肺病となり、家庭は困窮。彼女が7歳のときに芸妓置屋・春本の蛭間そめの養女になり、蛭間静子(ひるま しずこ)となりました。
彼女は赤坂の小学校に入学しますが、美しく服装も華やかだったことから他の子どもに見せられない、という理由で、学校から通学を拒まれたこともあったそうです。
■芸妓として、絵葉書美人となる
明治40(1907)年、数えの14歳の時に、お披露目をした萬龍。当時は人々の絵葉書への関心も高まっており、なかでも人気だったのが「美人絵葉書」でした。
現代ではアイドルのブロマイドに近いものだった「美人絵葉書」、そのなかでも萬龍は大人気でした。
流行歌に「酒は正宗、芸者は萬龍」とうたわれるほどの評判でした。
■2度の結婚をするも……
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萬龍は、1910年に箱根で大洪水に遭い、貧血で逃げ遅れそうになったところを大学生の恒川陽一郎に助けられました。翌年再会した2人は恋に落ち、やがて結婚。
しかし、結婚4年目に恒川が病死してしまいます。このとき、萬龍が再び芸妓に戻るのかどうか、世間は注目したと言います。
しかし、翌年、恒川の友人で会った建築家の岡田信一郎と結婚。彼女は病弱だった夫の漢語や、設計事務所の手伝いをしたと言います。夫は1932年に逝去、彼女は再び未亡人となってしまいました。
その後は、茶道教授となり、多くの弟子に慕われたと言います。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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