■100人以上が亡くなった「五大事故」

皆さんは、100人以上が亡くなった大規模な鉄道事故と聞くとどのような事例を思い浮かべるでしょうか。

比較的新しいものとして、2005年に発生したJR福知山線脱線事故を真っ先にイメージする人も多いかも知れませんね。
この事故は、福知山線塚口駅と尼崎駅間で起きた脱線事故で、107名が死亡しています。

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阪急電車から見た塚口駅の急カーブ

しかし実は、歴史を紐解いてみると、100名以上が亡くなる鉄道事故というのは決して少なくありません。このうち、特に、日本国有鉄道(旧国鉄)が日本の国有鉄道を運営していた時代に発生したもののうち代表的なものは国鉄戦後五大事故と呼ばれるカテゴリーに含まれます。

この、国鉄戦後五大事故とはどのようなものだったのでしょうか?



■桜木町火災・洞爺丸事故・紫雲丸事故

旧国鉄が存在したのは1949(昭和24)年~1987(昭和62)年で、時系列で追っていくとこの間に発生した「国鉄戦後五大事故」は以下の通りになります。

①桜木町火災(1951年)
②洞爺丸事故(1954年)
③紫雲丸事故(1955年)
④三河島事故(1962年)
⑤鶴見事故(1963年)

まず桜木町火災ですが、これは東海道本線(現・根岸線)の桜木町駅構内で発生した事故です。

工事作業中のミスで、垂れ下がった架線に列車が接触。
ショートを起こしたことから車両火災が発生し、106人が亡くなりました。

死者が100人を超える犠牲を生み出した昭和時代の「国鉄戦後五大事故」はなぜ起きてしまったのか?


桜木町駅

当時の鉄道車両が、乗客が外に脱出しにくい構造だったことから「非常用ドアコック」が設けられるなどの影響をもたらしています。

次に洞爺丸事故ですが、これは青函連絡船・函館沖で連絡船が台風にあおられて沈没、なんと1,430人という世界史的にも屈指の被害者数が出た船舶事故です。

旧国鉄は船舶の運航も管理していたことから、次にご紹介する紫雲丸事故とあわせて、こうした事故も「国鉄」五大事故に入れられています。

次に宇高連絡船・女木島沖で発生した紫雲丸事故です。これは紫雲丸という船舶が貨物船と衝突し沈没したもので、166人が死亡。
そのほとんどが修学旅行中の少年少女だったという大変痛ましい事故でした。



■社会システムの機能不全

さて、紫雲丸事故が起きた1955年頃から、日本は経済成長率(実質)が年平均10パーセント前後の高い水準で続きます。高度経済成長期です。

そんな中、1962年に常磐線の三河島駅構内で起きた三河島事故は、比較的軽度な脱線・停止事故を起こした貨物列車に上り電車が突っ込み、160人が死亡する大惨事となりました。

死者が100人を超える犠牲を生み出した昭和時代の「国鉄戦後五大事故」はなぜ起きてしまったのか?


三河島駅の駅看板

また翌年の鶴見事故は、東海道本線の鶴見駅 ~新子安駅間で発生したもので、これも軽度な脱線事故を起こした貨物列車に横須賀線の電車が衝突、さらにその先頭車が、並行していた下り横須賀線電車と衝突して大惨事となった二重衝突事故です。161人が死亡しました。


いずれも、高度経済成長に伴う人や物品の輸送量の増加に安全対策が追い付かなかった結果発生したと言われています。線路上で異常事態が起きても緊急停止措置が間に合わないほど列車の運行ダイヤが過密状態にあったことから、過密ダイヤという言葉も流行しました。

こうした事故・災害は、社会システムが耐用年数を過ぎたり、機能不全を起こすことで発生します。すると不思議なことに、そうした機能不全状態を象徴するかのように、似たような事故が立て続けに起きることがあります。

上述の三河島事故・鶴見事故がまさにそうですし(両者は二年間で立て続けに起きています)、また先に紹介した洞爺丸事故・紫雲丸事故もそうです。

また、さらに時代が下ると航空機事故が連続して起きた時期もありましたし、1970年代には千日デパート火災・太洋デパート火災と、やはり100人以上が亡くなる大火災が連続発生しています。


そうした視点から、ご紹介したような国鉄五大事故やその他の事故・災害事例を調べてみると、それまで社会を支えてきたシステムが何だったのかが見えてくるかも知れません。

参考資料
事故災害研究室

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan