■和泉式部に対する評価

【前編】では、紫式部が、同時代を生きた清少納言をどのように評価したのかを紹介しました。



清少納言・和泉式部・赤染衛門…紫式部は同時代の女性たちをどう評価したのか?【前編】
痛烈批判あれば大絶賛も…紫式部は、清少納言・和泉式部・赤染衛...の画像はこちら >>




当時の式部の同僚達には、文才のある魅力的な女性たちが多くいたとみえ、さらに宮廷内での男女関係もあいまって、彼女の周囲は艶っぽい空気感だったことが窺い知れます。


よって、式部は彼女たちの素行と文才をあわせて評価しています。

例えば、有名なのが和泉式部です。寛弘6(1009)年に彰子の女房となった、紫式部のいわば後輩にあたります。

痛烈批判あれば大絶賛も…紫式部は、清少納言・和泉式部・赤染衛門をどう評価したのか?【後編】


菊池容斎『前賢故実』より和泉式部(Wikipediaより))

和泉守・橘道貞の妻として娘をもうけながら、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王、続いてその弟・敦道親王との恋愛によって結婚生活を破綻させたとされています。

父親である大江雅致はついに娘を勘当し、藤原道長も彼女を浮かれ女と呼びました。

これだけでも彼女の評判が悪いのは想像がつきますが、実は紫式部は、彼女を次のように評しています。


和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと。
(和泉式部には感心できない面もありますが、ちょっとした走り書きの文中にも、その方面の才能のある人で、何気ない言葉遣いに色つやが見えるようです。和歌にはとても趣があります)

当時の和泉式部の評判は、おそらく散々だったと思われます。しかし紫式部は公平な視点から、彼女の文才を認めていました。

数々の男性との浮名を流し「恋多き女」として有名な和泉式部。
現在では、彼女は勅撰集に200首以上が選ばれるほどの歌人として有名で、また敦道親王との恋愛を綴った『和泉式部日記』の著者としても広く知られています。

痛烈批判あれば大絶賛も…紫式部は、清少納言・和泉式部・赤染衛門をどう評価したのか?【後編】


和泉式部の小倉百人一首56番(Wikipediaより)

おそらく和泉式部という女性は、多くの男性を虜にする魅力と文才に溢れていたのでしょう。



■赤染衛門に対する評価

次に、紫式部が評価した女性で有名なのが赤染衛門です。

赤染衛門もまた女房の一人で、貞元元(976)年に第38代宇多天皇の孫・源雅信邸に出仕し、長女・倫子に仕えたベテランです。

源倫子に仕えた女流歌人「赤染衛門」(演: 凰稀かなめ)、和歌の才能は百人一首にも選ばれるほど【光る君へ】
痛烈批判あれば大絶賛も…紫式部は、清少納言・和泉式部・赤染衛門をどう評価したのか?【後編】


倫子が藤原道長に嫁ぐと、その長女・彰子の女房となりました。紫式部の先輩にあたるわけです。


式部は、そんな先輩について、

ことにやむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌詠みとてよろづのことにつけて詠み散らさねと、聞こえたるかぎりは、はかなき折節のことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。
(特別な権威とは評価されていませんが、いかにも風格があり、歌人だからといっていろいろな場面で詠み散らかすこともなく、世に知られているものはみな、何気ない時節の歌にしても、私が恥ずかしくなるような詠みぶりです)

と絶賛しています。

彼女が評価した通り、赤染衛門は勅撰集に70首以上が選ばれ、歌集を残すほどの優れた歌人でもありました。

痛烈批判あれば大絶賛も…紫式部は、清少納言・和泉式部・赤染衛門をどう評価したのか?【後編】


小倉百人一首・赤染衛門(Wikipediaより)

また彼女は、夫・大江匡衡と、息子・挙周らを献身的に支えた良妻賢母としても知られます。その一方で、結婚前に恋人関係にあった匡衡の従兄弟・為基とも歌のやりとりを続けてもいました。

和泉式部といい赤染衛門といい、当時の女房たちの間には、男女関係についてはある種の大らかさのようなものがあったのでしょう。


紫式部や、【前編】で紹介した清少納言もまた、そうした男女関係と決して無縁ではいられませんでした。そうした空気感の中で、女性たちによる「平安文学」は生み出されていったのです。

参考資料:
歴史探求楽会・編『源氏物語と紫式部 ドラマが10倍楽しくなる本』(プレジデント社・2023年)

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan