これに対し、幕府は長州藩を討つ命令を出し、外国の艦隊も加わりました(四国連合艦隊下関砲撃事件)。これを受けて、長州藩のリーダーである桂小五郎は、外国を追い出すのは難しいと感じていました。
桂小五郎(後の木戸孝允) wikipediaより
一方、薩摩藩の新しいリーダーである西郷隆盛も、幕府が長州藩と戦うのは無駄だと思っていました。そんな西郷に、土佐藩を脱藩していた中岡慎太郎らが紹介されました。
そこで、それまで江戸や大阪で頑張っていた龍馬も加わり、薩摩藩と長州藩を仲直りさせる動きが始まりました。
最初は仲直りが目標だったのですが、龍馬がいろいろな人と話しているうちに、その動きが大きくなり、同盟が結ばれることになりました。
軍服姿の西郷隆盛 床次正精作
1866年1月21日、桂と西郷、そして龍馬が会って薩長同盟が結ばれました。その詳しい内容は、桂が龍馬に宛てて送った手紙で今に伝わっています。
その日に話した内容が口約束だったため、慎重派の桂が、龍馬に翌日になってから内容の確認を依頼したのです。
その内容とは、
- 「もし戦いが始まったら、薩摩藩は3000の兵士で京都と大阪を守る」
- 「長州藩が勝ちそうになったら、薩摩藩は朝廷に長州藩を許すよう頼む」
- 「もし長州藩が負けそうになっても、武器の調達と朝廷への働きかけを続ける」
- 「幕府が戦いを仕掛けなかった場合でも、薩摩は朝廷に長州藩の許しを申請する」
これは、桂が龍馬に確認を求めた文書だからこそ、長州藩の要求が多く含まれていたのです。
坂本龍馬 wikipediaより
このようにして、幕府と対立していた長州藩と、開国に前向きだった薩摩藩は、龍馬の長い説得によって同盟を結びました。
長州藩と龍馬の強い願いが、「和解」から「盟約」へ、そして最終的に「同盟」へと変わりました。そして幕府の第二次長州征伐に対して具体的に行動し、薩摩は3000の兵を出しました。
ここにおいて、曖昧だった「盟約」は、はっきりとした軍事同盟になり、この同盟が幕府を倒す原動力となっていったのです。
参考:
- 日本史事典.com
- 3分でわかる坂本龍馬
- 坂本龍馬人物伝
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
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