住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、のめり込んだアーティストの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょう――。

「かなり有名な人もいるので、メンバーは明かせないんですが、私、『尾崎会』というものに入っていて、LINEのグループで毎日のようにやりとりしたり、コロナ禍前には月1回くらいのペースで食事会をしたり、命日にも集まったりしていたんです」

そう語るのは、王理恵さん(51)。これほどの尾崎豊ファンとなったのには、幼いころから“世界のホームラン王・王貞治氏の娘”として、特殊な環境に育ったことが関係しているという。

「私は父が30歳のときの子で、私が小学5年生のころまで、父は現役選手として活躍していました。父は、私が学校に行った後に起き、寝た後に帰ってくる生活。夏休みもシーズン真っ最中だし、キャンプや遠征もあるので、父親と一緒の時間を過ごした記憶も、家族旅行の思い出も、私にはほとんどありません」

父親を見るのは、テレビで野球観戦するときの、画面越しのユニホーム姿だった。

「野球の試合時間は長いじゃないですか。だからずっとは見ていられなくて、4~5回まわってくる父の打席のときだけ、姉妹3人でテレビの前に正座して応援していました。見たくて見るというよりも、母に見させられていたというのが正直なところです。当時、おもちゃメーカーが協賛している賞があって、ホームランを打つと父がおもちゃを持ち帰ってくれたんですが、それが楽しみだったくらい(笑)」

■姉妹でも同担拒否!推すアイドルは、姉から順番に決めていた

プロ野球はナイターが中心だったことも、理恵さんが不満だった原因の1つ。土曜の夜の『8時だョ!全員集合』(’69~’85年・TBS系)が見られないからだ。

「“全員集合”は週明けの学校での話題の中心になるのに、私は試合が台風などで中止のときか、シーズンオフの冬しか見られなかった。それが小学校時代、いちばん嫌だったこと。

その反動でいま、CS放送などで再放送があると、必ず見てしまうんです」

『ザ・ベストテン』(’78~’89年・TBS系)のような歌番組も大好きで、試合のない月曜に放送されていた『ザ・トップテン』(’81~’86年・日本テレビ系)は毎週欠かさなかったという。

「必ず姉妹3人そろって、見ていました。ただ、好きなアイドルが重ならないように、姉から優先というルールがあって、たのきんトリオがはやったときは、姉がトシちゃん、私はマッチで、妹はヨッちゃんしか選べませんでした。ピンク・レディーのときは、妹は誰のファンにもなれず、ちょっとかわいそうなことをしてしまったと反省しています(笑)」

そんな三姉妹の、父親とのいちばんの思い出は、夏休みに映画を見に行ったこと。

「父の引退(’80年)後のことでした。突然、『映画に行こうか、何を見たい?』と言ってくれたんです。なぜそうなったのかわからないのですが、そんなこと初めてで、かつその一度きりで……」

貴重な申し出を有益なものにするべく、姉妹で話し合って決めた映画が『セーラー服と機関銃』(’81年)だった。

「渋谷の映画館に行きました。父はじっと座っているのが苦手な人だから、2時間も映画を見るのはかなりつらかったと思います。しかも、ちょっと過激な内容じゃないですか。子ども心に“この映画でよかったのかな”と思いつつ、私としてはスカッと爽快感が得られて楽しかったです」

映画のあと、電器店に行き、8トラックのカラオケ機材を購入。

「父がテレビで渡哲也さんの『くちなしの花』(’73年)を歌う企画があったようで、その練習のためだったと思います。

映画にカラオケと、子どもにとっては夢のような一日でした」

■王貞治の娘として感じていた息苦しさ

一方で“王貞治の娘”として、厳しい家庭に育った息苦しさもあったという。

「『お父さんに迷惑がかかるようなことをしてはいけない』が母の口癖で、高校生になっても、友達とコンサートに行くなんて、とんでもないことでした。ただ、家に脅迫まがいの手紙が来ることもあったそうなので、娘たちを守るためという意味もあったのだと、いまとなってはわかるのですが、当時の私にはそんなことまで考えが及ばなくて」

さらに小学校から高校まで通った私立の一貫校は、お嬢さま学校として有名で、校則も厳しかった。

そんな境遇のなか、思春期を迎えた理恵さんには、自然と反抗心が芽生えてくる。

「複雑な気持ちを抱えながら過ごしていた高校生活で、いまでもよく覚えているのは、文化祭の準備に追われて、学校に遅くまで残っていたときのこと。最終下校時に放送される“追い出しソング”がなぜか、尾崎の『15の夜』(’83年)だったんです。薄暗くなった校舎で聴くと、まるで歌の世界に入ったかのような感覚になって、衝撃を受けました」

お嬢さま学校特有の雰囲気のなかで、「尾崎を聴いている」とは誰にも言えず、1人でレコードを集め、尾崎にのめり込んでいったという理恵さん。

「家にも学校にも反発する気持ちはあるけど、何にもできない自分がいて……。尾崎が歌う自由や愛や夢は、すごく共感できたんです。『ダンスホール』(’85年)という曲を聴いて“親が絶対に許してくれないダンスホールって、どんなところなんだろう? 華やかな女性がたくさんいるんだろうな”って、想像にふけったりすることもありました」

高校を卒業後は、青山学院大学に進学。

「尾崎が付属高校を中退していたので、同じ学校に通うことに、勝手に運命を感じていました」

社会に出て30年近くたった現在も、“尾崎愛”が色あせることはない。

「尾崎と出会った曲でもある『15の夜』はいまでも大好き。

『僕が僕であるために』(’83年のアルバム『十七歳の地図』に収録)は私の元気ソングで、ゴルフ場に行く車の中でかけたり、モヤッとしたとき、スッキリするために聴いたりしています。尾崎の曲のように、ちっちゃなことで傷ついたり、人間関係に悩んだりしたとき、心に寄り添い、バチッとハマる音楽が、’80年代にはたくさんありましたよね」

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