東京・銀座のギャラリー「AKIO NAGASAWA GALLERY GINZA」のバックヤード。4歳の娘を愛おしそうに見つめるのは、アーティストの片山真理さん(34)。
片山さんはまだ高校2年生だった05年、若手芸術家の登竜門「群馬青年ビエンナーレ」で奨励賞を受賞し、現代アート作家としてデビュー。以後、数多くの個展を開催し、「あいちトリエンナーレ」「ヴェネチア・ビエンナーレ」などなど、国内外の大規模な芸術祭にも多数出展。さらに一昨年には“写真界の芥川賞”「木村伊兵衛写真賞」も獲得と、いま世界的に注目されているアーティストの1人だ。
だが、彼女がメディアで紹介されるとき、必ずと言っていいほど、ある枕ことばがついて回った。
それは「義足のアーティスト」。
四肢疾患を抱え生まれた片山さん。両足の脛骨(けいこつ)がなくて、左手の指は、生まれつき2本しかない。長年、義足での生活を続けている。
「小学生のころは“スーパーいじめられっ子”だった」と振り返る。
アーティストとして歩み始めるまでの人生を、片山さんに語ってもらった。
■母を恨めしく思ったことはない。
片山さんは1987年7月、埼玉県で生まれ、群馬県で育った。先述のとおり、生まれてきたときから彼女の四肢には疾患があった。
「正式な病名は、先天性脛骨欠損症。健康な人の足は、膝下に脛骨と腓骨と2本ずつ骨がありますよね。でも、私は太いほうの骨、脛骨がない状態で生まれて」
母は未婚のシングルマザー。片山さんいわく「母はとても強い人」。娘が物心つくころから病気や体のことについて、しっかり教え諭していたという。
「母もすごく勉強したみたいで。自分が読んだ本を私にも読み聞かせてくれた。『こういう障害がある人がいる』とか、『こんな病気がある』と。そして『それは誰が悪いわけでもないのよ』とも」
だから、自分の体のことで、母を恨めしく思ったことはない。
「だって『なんでこんな体に産んだのよ!』なんて文句を言ったところで、なんにもならない。
幼いころの片山さんは足に補装具を装着、なんとか歩行もできた。
「でも、成長してくると細い腓骨だけでは体を支えきれなくなって。医師は『この先、車いすにするか、足を切断し義足をつけるか。どうしますか?』と。おそらく母がそう聞かれて、私に『どうする?』って聞いたんだと思うけど。あんまりはっきり覚えてないんです」
当時、片山さんは学校でいじめにあっていた。クラスの子供たちは「バイキンがうつる」「気持ち悪い」と心ない言葉を浴びせてきた。
「あれは7歳だったかな。家でひとりで遊んでいたとき、たまたま鏡で自分の姿を見たんです。まだ足があるころ、初めて客観的に補装具なしの自分の素足を。私、ゾッとしちゃって。『ああ、こんなに皆と違ってたんだ』と。
9歳。片山さんは自ら、両足を切断し義足となる決断を下した。
「義足になれば、皆と同じ靴が履ける、そう思ったんですよね。でも、いざ手術を受けて、初めて義足を装着してみたら、なんか棒みたいな、ロボットの足みたいなのがくっついていて。『え、義足ってこういうことだったの!?』って。義足に、皆と同じ靴は履けるようにはなったけど、結局いじめは中学卒業まで終わらなくて。私の性格のせいかな、って思った(苦笑)」
母に似て、片山さんも強かった。決して、泣き寝入りはしなかった。
「いじめた子たちが、いちばんいやがることしてやろうと。それで、先生に『全員の親に連絡して』って言ったんです。『してくれないと、私は二度と学校に来ません』と交渉して。その後、それが伝わったのか、いじめはしばらくおさまりました。
気丈な片山母娘だったが、いまも、目に焼き付いた母の顔がある。
「ひとり親で家計も、私の面倒見るのも大変だったはずなのに、母は弱音を吐いたことがない。でも、1回だけ、彼女が泣いた顔を見たことがあって。あれは、私が小学校4年生ぐらい。学校に迎えに来てくれた母が、泣きはらしたような目をしてた。『どうしたの?』って私、聞いたかな。母はたしか『ママ友と話してた』と。それ聞いて『あ、私のいじめのこと、相談してたんだ』って、すぐピンときた。『私のせいでママを傷つけちゃった、ママ、ごめんなさい』って心の中で謝りましたよ」
中学卒業後は地元の商業高校に。
「幼いころから母に言われてたんです。『いざとなっても肉体労働なんてできないんだから。
入学式当日、片山さんはある誓いを立てたという。
「友達を作らない、と決めたんです。小、中学校時代の私は、それでも、やっぱり誰かと関わりたいと思っちゃったから失敗したんだと。距離が近くなって刺激し合って、それがいじめの原因になったんだと思ったんです。だから、高校の3年間は絶対、友達を作らない、そう決めて。でも、波風立てずに友達を作らないって、けっこうたいへんで。クラスのヒエラルキーを把握して、自分の立ち位置を決めたりしながら、本当に卒業まで作らなかったんです、すごくないですか(笑)」
■きっかけは若手作家の登竜門。就職希望だったが、次第に責任感が生まれた
幼いころから、いじめが原因で学校を休みがちだった片山さん。家でひとり、絵を描いたり、裁縫をして過ごす時間が好きだった。
「うちは貧乏で『欲しいものは自分で作りなさい』というのが母の教え。母はよく、自分の服をリメークし私の服を作ってくれました。それを見て育ったから、私も自然と針と糸を持つようになって」
中学生になると、片山さんは自分のホームページを立ち上げ、SNSにも登録した。
「ちょうどそのころ、母が現在の父と交際を始めて。システムエンジニアだった父にパソコンのこと、教えてもらったんです。自分の文章やイラスト、義足に描いた絵の写真なんかをアップしてました」
だから高校時代、学校に友達はいなくても寂しくなかった。
「友達はネットの世界に大勢いました。しかも、世界中に。彼らと毎日、ネットを通じておしゃべりできたから、満たされてましたよ」
幼少期から続けた針仕事、それにインターネットが、彼女をアートの世界にも導くことになる。
「高校では就職試験に向けた小論文の授業があって。毎回、時事問題が提示され『これについて述べよ』と。そこには『こう書かないとだめ』ってルールもある。でも、私は『自分の思いを書かないと意味がない』って思ってた。ただ、授業の時間内に自分の思いを言葉にすることが、なかなかできなくて。仕方なく毎回、白紙で出してたら『これでは単位はあげられない』ってことになってしまって」
すると、ある教師が手を差し伸べてくれた。
「私、絵を描いた義足で学校にも通っていて。美術部の顧問もしている進路指導の先生も、そのことを気にかけてくれていたみたいで。『義足の絵のことなら書けるんじゃない? 小論文の練習と思って書いてみたら』と助言してくれたんです。それで、思い切って書いてみると、たまたま先生のもとに来ていた公募展の募集要項に、その文章がちょうどいいということになって、応募することになって」
公募展というのが「群馬青年ビエンナーレ」だった。彼女の綴った文章は見事、書類審査をパス。
「次は『作品を提出してください』と。作品なんて作ったことないのに。慌てて近くのホームセンターで材料買ってきて作りましたよ。そしたら、その二次審査も通ってしまって、最終的には奨励賞までいただけることになって」
審査員の1人は「今日からきみはアーティストだ」と、背中を強く押してくれた。でも、押された当人は依然、就職希望だった。
「就職したかったんですけど、私の場合、障害者手帳一級を持っていて。それを伝えると、どこも雇ってくれないんですよね」
当時、地元の中小企業の多くは、片山さんを雇うためのバリアフリー対応ができていなかったのだ。
そこで、片山さんは公募展受賞をたよりに美学美術史学科のある群馬県立女子大学に進学。さらに、東京藝術大学大学院へと進んだ。
「学生時代は作品制作のほかに音楽活動や、頼まれてモデルの仕事をすることもありました。それで、藝大大学院まで行ったんですけど。そのころも私、アーティストになる気はさらさらなくて。それで食べていけるとは到底思えなかったから。ハローワークに通って就活。エレベーターがあって洋式トイレがある会社がいいなぁ、なんて思いながらね。でも、やっぱりことごとく落ちちゃって。皮肉なことに、お声がかかるのはアート方面ばっかりだったんですよね」
就職活動を継続しようとリクルートスーツ2着を持参し、東京で一人暮らしを始めたところに舞い込んだのが「あいちトリエンナーレ」への出展オファーだった。
「すごい大規模な展示をさせてもらって。その後も、六本木の森美術館や東京都写真美術館、群馬県立近代美術館などでグループ展をする機会をいただいて。19年にはヴェネチアにも。だから、こんな言い方は、ほかのアーティストの人に失礼なんですけど、私の場合はなりたくてなったというより、気づいたらアーティストになっていた。作品が人前で発表されたり、誰かの手に渡ったりした瞬間『作品に責任取らなきゃ、きちんとアーティストと名乗らなくちゃ』って」
それから結婚し、出産も経て、現在はまた少し違った感覚で作品作りに取り組めているという。
「自分ではそこまでこだわってきたわけじゃないんです。義足が主役なんて思ったことないし、特別扱いされるのもいや。ただ、もしかしたら私自身、呪縛に囚われていたのかも。ずっと追い求めていた“正しい体”という呪縛に」
こう自らを分析した片山さんは「でも」と続け、笑みを浮かべる。
「5年前、娘の陽毬(ひまり)が生まれて、ちょっと変わったんですよ。彼女の目線で自分の体を見られるようになったというか……最近は、自分の体を素直に楽しめるようになってきたんです」
「ママの足とか手、どう思う?」片山さんがそう尋ねると、娘は「いちばん好き!」と元気いっぱいに答えた。夫と愛娘とともに歩み、アーティスト、そして母として、人生に新風を吹き込んでいくーー。