住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代、憧れていたアイドルの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょう――。
「かつての所属事務所の先輩だった中森明菜さんからは、デビュー当時(’86年)、お食事に誘っていただいたことがあるんです。たしか六本木のレストランで、駐車場から入口までのわずかな距離を歩くときさえ、明菜さんのファンが気づいて、人だかりができるほど。明菜さんからは『私のことを“あきなっちゃん”と呼んでね』と言われたのですが、同じ年でもデビューはずっと早い、雲の上の大先輩。さすがに『大変申し訳ないですけど、それは無理です』と、丁重にお断りしました(笑)」
こう振り返るのは『男女7人夏物語』(’86年・TBS系)の主題歌『CHA-CHA-CHA』(’86年)で一世を風靡した、歌手の石井明美さん(56)。歌番組にバラエティ、ドラマなどテレビ全盛期を過ごした中学時代、打ち込んだのは部活動だったという。
「小4のときに、新しくできたばかりの水泳部に入ったんです。プールサイドでコーチが、デッキブラシを片手に声を張り上げるような厳しい部活で、中学まで毎日1万メートルは泳いでいました」
中学時代は県大会で優勝。予選落ちしたものの関東大会にも出場した。そのころデビューを飾ったのが、松田聖子だ。
「聖子ちゃんのデビュー曲『裸足の季節』(’80年)がCMソングだった資生堂の『エクボ洗顔フォーム』は、ライバル会社に勤める父から『ちょっと使ってみてよ』と言われ、初めて使った化粧品っぽいものでした」
中3になり、深夜まで受験勉強に励む傍ら、ずっと耳にしていたのはラジオだった。
「毎日『オールナイトニッポン』(’67年~・ニッポン放送)や『走れ!歌謡曲』(’68~’21年・文化放送)を聴きながら、明け方まで起きていました」
一方、水泳には限界を――。
「思春期に入って体つきが変わり、身長が思うように伸びなかったこともあって、指導者から『これ以上、タイムを縮めることは無理じゃないか』と言われてしまい……。
■過酷だった美容室勤務…電車のつり革を握ると血がにじんだ
“帰宅部”として過ごした高校時代、将来を考えて始めたのが、美容師になるための通信講座だった。
「高3の夏の1カ月間だけ、東京の寮に入って実技を勉強すれば、高校卒業後に美容室で、インターンとして働けるシステムでした」
努力が実り、銀座にある大手美容室に就職がかなった石井さん。
「バブルのころはスタイリストのような“カタカナ”の、おしゃれな職業を夢みる人が多かった時代。新人の私は制服でしたが、入社5年目からOKになる私服を着て、髪をワンレンにしている先輩の姿がまぶしかったです」
だが、セット台が30台、シャンプー台が10台もある大型店だったことで、腕を磨くチャンスはなかなか訪れなかった。
「一日中、シャンプーをしていたから手が荒れてしまい、電車のつり革をにぎると、血がにじんでついてしまうほどでした」
そんな毎日のなかで“何か違うな”と感じてしまい、1年ほどで美容室を退社。友人に紹介された六本木のカラオケスナックで、夜7時から深夜3時までのアルバイト生活を送ることに。ここで人生の大きな転機を迎えた。
「お客さんから『何か歌ってよ』と頼まれるんですが、それまで歌番組などをそれほど熱心には見ていなかったので、歌本を見て、演歌や歌謡曲、ポップスなどを覚えました」
スナックには、中森明菜の形態模写が上手な仕事仲間もいた。
「ただ、歌が得意じゃなくて、私が歌だけ担当することになったんです。『十戒(1984)』(’84年)や『DESIRE-情熱-』(’86年)で、その人が体をのけぞらせたりして踊る横で、しゃがんで、動きに合わせながら歌いました」
常連客にテレビ局や芸能事務所の関係者が多いスナックで、石井さんの歌声に将来性を感じ、『一度、カメラの前で歌ってみないか』と声をかけられることも。
「でも私はお金をためて、いずれ美容師の仕事に復帰すると決めていたので、そのたびに『興味ありません』と断っていたんです」
■所属後4ヵ月での爆速デビューの理由
そんなある日、週に1度は顔を見せる、中森明菜が所属する大手事務所のスタッフから、「そろそろどうだ」と改めて誘われたという。
「かなり熱心でしたし、そのころはすっかり信頼関係もできていたので、お受けしました。
スナックを辞め、事務所に所属したのが’86年4月。すぐにボイストレーニングを始めると、6月にはレコーディングと、とんとん拍子で決まっていった。
「7月に始まる『男女7人夏物語』に合わせ、8月にレコードを出すことになりました」
所属後わずか4カ月のデビューのため、「会長の愛人なのでは」などと揶揄する人もいたようだが、実情はまったく違う。
「芸人さん(明石家さんま)が主役という新しいタイプのドラマの主題歌で、しかも海外の曲のカバー。ほかの所属タレントに挑戦させ、失敗させるわけにはいかないということで、私に白羽の矢が立ったのかもしれません(笑)」
ところがドラマは高視聴率をマークし、石井さんのデビュー曲も大ヒットすることに。
「ドラマでは毎回、ラストの盛り上がるシーンに差し掛かると私の曲が流れ始めるという、当時としては画期的な演出だったので、見る人にとって印象的で、インパクトも大きかったのでしょうね」
歌手として大きく成長する機会を得られたのも、中森明菜という先輩がいたからこそ。
「私のデビュー前後、明菜さんはちょうど『ライト&シェード』ツアー中で、勉強のために、埼玉のコンサートホールで、明菜さんの“ゲネプロのゲネプロ”を私が担当することになったんです。ファンタスティックスという明菜さんのバンドの生演奏で、ライブ本番と同じセットと照明のなか、舞台に立って歌わせてもらった経験は、歌手としての私の血となり骨となりました」
『DESIRE-情熱-』は明菜にとっても、’86年の「日本レコード大賞」に輝いた特別な曲。
「同じ年に私も最優秀新人賞にノミネートされたので、会場で明菜さんにご挨拶することができたんです。明菜さんは私の曲を『よく口ずさんでいるの。いい曲ね』と褒めてくださいました。それなのに私は、ものすごく緊張してしまっていて、何と返事したのかさえ覚えていなくて……。
【PROFILE】
石井明美
’65年、千葉県生まれ。’86年、デビュー曲であるドラマ『男女7人夏物語』の主題歌『CHA-CHA-CHA』がオリコン年間シングルチャート1位を獲得。現在は音楽番組、バラエティ、カラオケ特番、ラジオなどにゲスト出演し、幅広く芸能活動を行っている