【前編】浪曲に魅せられ、空襲を生き延び…99歳の曲師・玉川祐子の半生から続く
ニコニコと「みかん持っていきな」と食べ物を渡してくれる玉川祐子さん。だが、舞台に上がれば表情もキリリと締まる。
浪曲ーー。「浪花節」とも呼ばれる日本の伝統話芸だ。同じ話芸でも、それぞれ1人で舞台を務める講談や落語と違って、こちらは「語り」を担う「浪曲師」と、それを盛り上げる三味線の「曲師」、2人で芸を作り上げる。今回の主人公は曲師の祐子さん。なんと99歳で、現役最高齢の曲師なのだ。
戦前、一世を風靡した浪曲にあこがれた祐子さんは「1人死んだと思って」と父に頭を下げ、飛び込んだ東京で大人気に。2度の結婚、わが子の夭逝、空襲……あらゆる困難を、持ち前の行動力で乗り切った。
私は幸せ、と人生を振り返ってそう言い切った祐子師匠に、戦後の活躍を振り返ってもらった。
■1度目の結婚では、夫の暴力に耐え続けた
同じ師匠に師事していた男性・理一郎さんと結婚し、戦後には4人の子宝に恵まれた祐子さんだが、悩みの種が。それは、嫉妬深く気性の荒い夫の暴力だ。
「私も聞かないほうだから、口答えする。
さらに、50年代後半、浪曲人気に翳りが見え始めた。60年代も後半になると、人気衰退はますます顕著に。危機感を覚えた業界は70年、浅草に定席「浪曲木馬会(現在の木馬亭)」を設けた。
すると、一時廃業していた多くの浪曲師たちが戻ってきた。だが、相変わらず、曲師が足りない。戦後、安定した収入のために一時は三味線を置いた祐子さんだったが、ふたたび声が掛かる。
「一度手伝ったら『明日もお願い』『その次もお願い』って言われちゃって。私も三味線、好きですから。しまいには定期券を買って、通うようになったね」
懐かしい人にも再会した。
「20年ぶりぐらいだった。木馬亭で『姉さん、しばらく』って」
このとき、桃太郎さんは続けて不思議なことを言ったという。
「『いずれ姉さんに三味線、弾いてもらうことになるよ』って。あっちは何げなしに言ったんだろうけど。思えばそれが縁だったんだね」
桃太郎さんの言葉どおり、しばらくすると祐子さんは彼の三味線を弾くようになった。
■2人目の夫は穏やかそのもの。「桃太郎と一緒になって、本当に幸せだった」
「三味線、続けるなら出ていけ!」
祐子さんが曲師としてふたたび多忙になり始めると、嫉妬深い夫はこう怒鳴りつけたという。
「『三味線やめて家にいろ』と言うんだ。でも、私は三味線も浪曲も好きだから。
祐子さんは家を出て、4畳半一間のアパートで別居生活を始めた。
「桃太郎の三味線は弾いてたし、内職もやったけど。一人暮らしとなると家賃、生活費とぜんぜん足りない。だから、千住のやっちゃ場(市場)の喫茶店で働きました」
朝4時から喫茶店勤務。正午に仕事を終え、バスに飛び乗り浅草へ向かう。そんなダブルワークをしばらく続けた。
「やっぱり育ちがあんまりよくないんだね。借金取りが来たのを見て育ったから。貧乏性なんだ。いまも家でジッとはしていられない」
祐子さんの部屋に、あろうことか桃太郎さんが転がり込んでくる。
「三味線弾くようになると情が移っちゃうじゃん。
いま風に言えばダブル不倫。越えてはいけない一線を越えた、その理由は、桃太郎さんの穏やかさ、優しさに引かれたから。
「やっぱりね、優しい。一緒に暮らすようになっても、私に手をあげるなんて一切、なかった。私が口答えするでしょ。そうすっと穏やか~に『出てけよ』って言うんだ。
75年、ついに祐子さんの離婚が成立。晴れて2人は夫婦に。このとき、祐子さん53歳、桃太郎さん52歳だった。
「子どもたちにも相談したよ。娘は『お母さん、これまで苦労してきたんだから、自分の好きに生きたらいい』って言ってくれた」
その後は舞台でも、家庭でも、寄り添うように2人は過ごした。公私ともに支え合い、気づけば桃太郎さんとの生活は、前の結婚生活よりも、うんと長くなっていた。好きな浪曲の三味線を弾いて暮らしたい、それも、好きな人とーー。祐子さんのささやかな願いは、こうしてかなえられたのだった。
15年、桃太郎さんは慢性腎不全急性憎悪のため、帰らぬ人に。
「入院して、幾日もなく亡くなりましたけど。最後も『元気になって帰ろうね』って声掛けて。
しんみりと語る祐子さん。いまも自宅には、桃太郎さんの写真が飾られている。定期的に舞台に立つ木馬亭にも、夫との思い出が詰まっているはずだ。そこで記者は聞いてみた。「いまも近くに、桃太郎さんを感じますか?」と。すると祐子さん、照れ隠しなのか、破顔一笑、こう即答した。
「あ!? 何もないよ、そんなもの」
■芸能人のお気に入りは福山雅治と松陰寺。少女のように話す姿が印象的だった
2度目の取材日。記者は祐子さんが一人暮らしを続ける東京都北区の団地にお邪魔した。前出の小そめさん、それに祐子さんの弟子の杉山照子さんが同席し、ガールズトークの花が咲く。小そめさんが聞いた。
「師匠、芸能人は誰が好きなんでしたっけ?」
すると、祐子さん、「いっつもそればっかし聞かれんだな」と言いながら、どこかうれしそうにほほ笑む。
「まずはあれだ、福山、福山雅治。あの人はいいなぁ。あとは、最近だとほら、あれがいるじゃん、松陰寺(太勇)、ぺこぱの。私、ファンなの。あの人は面白いねぇ」
祐子さん、気持ちも若いが、体だってまだまだ元気だ。
「まずお勝手はぜんぶやるでしょ。お使いも行く。お総菜は決して買わない、ぜんぶ自分で作ります。掃除は……、このごろは、掃除機はかけずに、ひょいひょいっと箒で掃いてごまかしちゃうの(笑)」
祐子さんの住まいは2階。屋外での撮影をお願いすると、サンダル履きで団地の階段を軽やかに上り下り。足腰の衰えも見えない。
「あとはそうね、ボケ防止にこれ、してるの。両手一緒は誰でもできるけど、これはちょっと難しいよ」
祐子さんは左右の手をこちらに突き出すと、互い違いにグー、チョキ、パーを猛スピードで繰り返した。「すごいですね」と、記者が感嘆の声を上げると、うれしそうに笑ってこう続けた。
「頭使うのはいいこと、記憶力だっていいんだよ。山手線一周でしょ、それから京浜東北線、高崎線に常磐線……、ぜ~んぶの駅名、こん中に入ってっからね」
そう言って、自分の頭を指さして胸を張った祐子さん。そこで記者は山手線の駅名を諳んじることをリクエスト。
「よ~し、山手線だな。まず上野、次が御徒町、秋葉原、神田……」
興が乗ってきた祐子さん。どことなく浪曲の節のように駅名を並べ続けている。
「それから、東京、有楽町、浜松町、田町……」
あれ? 新橋が抜けた? 記者が口を挟むと祐子さん、「あ!」と声を出し、顔を赤らめ頭を抱えた。
「あーーー、ダメだ、ダメだ、あ~あ~、自慢になんねえね~(笑)」
少女のように恥ずかしがる、アラ100の祐子さん。かわいらしいその姿に、団地の6畳間は、大きな笑い声に包まれていた。