「『いつでも夢を』が大ヒットしたのは、もう60年も前のこと。当時は吉永さんも橋幸夫さんも10代でした」(音楽関係者)

3月13日に、歌手デビュー60周年記念のCD5枚組BOXをリリースする吉永小百合(77)。

レコード大賞を受賞した代表曲『いつでも夢を』も収録されているが、同曲をデュエットした橋幸夫(79)は今年5月の80歳の誕生日をもって歌手活動から引退することを明らかにしている。

「吉永さんにとっても、橋さんのような同世代の引退は気がかりな話題なのです」(前出・音楽関係者)

’20年11月には、信頼を寄せていた映画プロデューサーで東映の会長だった岡田裕介さん(享年71)が逝去。吉永にとっては、これも映画仲間の哀しい“引退”だった。

「40年もタッグを組んできた盟友だけに吉永さんのショックは大きかったようです」(映画関係者)

周囲が去っていくなかで、吉永は自身の去就については、どう考えているのだろうか――。

’57年、小学生のときにラジオドラマでデビューした吉永は、’59年には銀幕デビューを果たす。『キューポラのある街』(’62年)、『愛と死をみつめて』(’64年)など映画を中心に人気を得て、サユリストと呼ばれる熱狂的なファンにも支えられ国民的女優に。

これまで122本の映画に出演してきた。

しかし、その60年以上のキャリアのなかで、引退の危機が2度あったようだ。1度目は、彼女が30代から40代にかけてのころ。

「当時は女優業への情熱が冷めてしまい、引退を考えたといいます。42歳で引退した往年の名女優・原節子さんのように、若いころのイメージを保ったまま身を引くのもいいんじゃないか、と。

でも気持ちが揺れていた34歳のときに『動乱』(’80年)で高倉健さんと共演し、演技に開眼したそう。

その後、晩年まで女優を全うした田中絹代さんの半生を描いた『映画女優』(’87年)に主演したことも女優を続ける要因になったそうです」(前出・映画関係者)

2度目に引退の文字が吉永の頭をよぎったのは、その30年後。

「’18年の『北の桜守』を最後に引退をしようとも考えたそうです。もともと吉永さんは『映画出演120作目までは撮りたい』と話していて、その120作目が同作だったので節目と感じていたのです。ただ、実際に撮影が始まると、やはり映画は楽しいと実感し、引退する気持ちはいつしか消えていたといいます」(前出・映画関係者)

■腹筋100回が日課…女優を続けるための体力づくり

以後、’19年に1本、’21年に1本、と近年もコンスタントに主演映画が公開。現在の吉永が引退をどう考えているかというと――。1月に公開された共同通信によるインタビューでこう話している。

《いつまで第一線にいられるのか、と思うこともありますが、できる限りのことはやろうと決めています。後ろ向きになれば、終わってしまう気がしますし、迷った時はいつも「やめるよりはトライしてみよう」と心がけてきたからです》

“生涯女優を!”という気概を感じさせる。今年9月にも123作目の出演映画の公開が控えている。

「山田洋次監督の『こんにちは、母さん』という作品です。主演の吉永さんは、息子役の大泉洋さん(49)とは初共演。大泉さんが明るいので現場で楽しそうにされていましたよ」(前出・映画関係者)

本誌は昨年11月、都内の下町エリアで、同作の撮影に臨む吉永の姿を目撃している。

撮影の合間、共演者やスタッフが大勢いるなか、スッと背筋を伸ばして立っていた吉永の凜としたたたずまいが印象的だった。

この現場では“年上の先輩”の姿から刺激を受けているようだ。前出のインタビューで、《山田監督は九十一歳ですよ。そうした方たちを見ると、私ももっとしっかりしなければと思います》と話しているのだ。

私生活は健康に気を使いながら、前向きな日々を送っているようだ。

「ラジオで、今年はピアノを練習したいとおっしゃっていました。

体力づくりとしては、水泳は長年続けられていますし、数年前からはジム通いも始め、腹筋100回を日課にしたり。コロナ禍以降は、マスク生活で口の動きが鈍ったため、口周りの表情筋を鍛える体操もやっていると聞きます。吉永さんが忙しいときは、15歳年上のご主人が料理を作ってくれるそうです」(前出・映画関係者)

喜寿を迎えてもさらに輝きを増す吉永は、“生涯女優”の道を突き進む――。