住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代、夢中になったアイドルの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょう――。
「若いときにノリノリになって歌っていた『私がオバさんになっても』(’92年)を今も歌っていると、“とっくにオバさんになっているのに”と不思議な感覚になります。森高千里さんのファンになったきっかけは『17才』(’89年)。南沙織さんの曲のカバーですが、実は、私の“さおり”という名前は、南沙織さんにあやかってつけられたもの。だから勝手に親近感を抱いて森高ファンになったんです。スタイルもルックスも、まったく対照的ですけど(笑)」
こう語るのは、お笑いコンビ・北陽の伊藤さおりさん(48)。幼少期は男の兄弟に囲まれて育った。
「田舎町に育ったので、田んぼで泥遊びをしたり、ヘビを捕まえたり。お絵描きやお人形遊びよりも、男の子っぽい遊びばかりしていたと思います。漫画も『キン肉マン』(’79~’87年)や『北斗の拳』(’83~’88年)、『ハイスクール!奇面組』(’82~’87年・すべて集英社)が好き。日焼けしていたし、おしゃれにもまったく興味がありませんでした」
小学校時代の楽しみといえば、土曜夜8時のお笑い番組。『8時だョ!全員集合』(’69~’85年・TBS系)と『オレたちひょうきん族』(’81~’89年・フジテレビ系)を、CMのたびに切り替えて、兄弟ゲンカをしながら見比べていた。
「ドリフのコントで、ボットン便所から手が出てくる場面があったのですが、ウチもボットン便所だったので、夜、トイレに行くのが怖くなったことも」
中1のときの転校は、青春時代に大きな影を落とした。
「同時に3人の転校生がいたのですが、そのうちの1人が、ほかのクラスのコたちが見に来るほどのすごい美少女。やっぱり多感なときじゃないですか。まったく注目されなかった私は、それからコンプレックスの塊のような10代を送ることになりました」
高校生になるとソフトボール部に所属。のちに相方となる虻川美穂子さんと運命の出会いを果たす。
「虻ちゃんは中学生からソフトボールをやっていて、すごくうまかったのですが、私は運動音痴で下手。体重は75キロくらいまで増え、顔にもニキビが。ますますコンプレックスに拍車がかかりました」
当時は、『浪漫飛行』(’90年)や『君がいるだけで』(’92年)を大ヒットさせた米米CLUBの大ファンだった。
「大編成のバンドで、私もあの一員になりたいって。でも、自信がないから、メインなんておそれ多くて、バックダンサーになれればいいなって、とにかく控えめに考えていました」
“どうせ、相手にされない”と思い込み、異性に話しかけることもできなかった。
「高校3年間で男子としゃべったのは、5言くらい。早いコたちは彼氏、彼女がいたけど、私なんてとてもとても。合コン的な雰囲気とかは、『ねるとん紅鯨団』(’87~’94年・フジテレビ系)を見て、疑似体験していました」
■勇気をもらった森高千里の『非実力派宣言』
そんなとき、夢中になって聴いていたのが森高千里の曲だった。
「『17才』で森高さんの存在を知り、過去の作品を振り返って『ザ・ストレス』(’89年)に衝撃を受けました。ウエートレスのコスプレをしたCDジャケットの脚が本当にきれいで、もう別の生き物を見るよう。自分の脚がいちばんきれいに見えるように、ミリ単位でスカートの長さを調節しているという雑誌の記事を読んで、さらに感心しました」
ビジュアルばかりでなく、森高が手がけた詞の世界にもハマった。
「言葉選びがとてもユニークで、妙に心に刺さる。ストレスがすべてを台無しにするという『ザ・ストレス』の歌詞にも共感できたし、『非実力派宣言』(’89年)なんて、実力がなくて何が悪いのと開き直った歌。自分に自信が持てなかった私は、その言葉に勇気をもらいました」
『私がオバさんになっても』がリリースされたのは、高3のときだ。
「当時から口に出しづらい言葉だった“オバさん”を曲名にしてしまう感覚が斬新。非実力派と言いながらどんどんスターになっていく森高さんとは対照的に、私のほうはパッとせず……。最後まで進路が決まらなかった私と虻ちゃんは、先生に呼び出されてしまいました」
進学するにも、就職するにも、完全にタイミングを逃してしまった2人は、そろって合格がもらえた劇団に入ることに。
「着るものはオーバーオールとジャージ、食べるものはもやしと卵という絵に描いたような貧乏生活。友達とルームシェアしていたのですが、私は月1万6000円の家賃で、キッチンに布団を敷いて暮らしていました。『ザ・ストレス』で日々のストレスに耐え、『渡良瀬橋』(’93年)を歌っていい女気分に浸ったり、ビールのCMソングともなった『気分爽快』(’94年)に励まされたりしていました」
思うような活躍ができなかったとき、先に退団していた虻川さんからお笑いオーディションの誘いを受けた。
「なぜかこのときだけはすごくウケて、人生で初めて注目を浴びることに。プロダクションの社長にも『すぐにコンビを組むべきだ。今日、組んだらイタリアンに連れていってあげる』と言われて、21歳のときに虻ちゃんとお笑い芸人を目指すことになったんです」
ところが、ウケたのは最初だけで、その後、3年ほどは低迷。
「若い女性の大事な時期を、お金もない感じで暮らしていました」
『ASAYAN』(’95~’02年、テレビ東京系)の歌手オーディションに応募するなど、軸足がブレてしまうこともあった。
「同じ事務所にはアンタッチャブルさん、東京03さんたちがいて、ネタのクオリティが高いから、マネようとしても、頭が追いつきませんでした」
苦しんだ挙げ句、虻川さんと「実力派はもうあきらめよう。自分のできることをやろう」と、心機一転。カラフルなファッションと、オムニバス形式の短くポップなネタに切り替えた。
「すると、テレビの出演も増えていったんです。迷走していた私たちを救ってくれたのは『非実力派宣言』。背伸びするのをやめたからこそ、自分たちのスタイルを見つけられたのだと思っています」
【PROFILE】
伊藤さおり
’74年、埼玉県生まれ。高校のソフトボール部で出会った虻川美穂子と「北陽」を結成し’95年にデビュー、’01年にバラエティ番組『はねるのトびら』のレギュラーに抜てきされて一躍人気者となる。’14年に女児を出産、現在は静岡県に住み、子育てと仕事を両立している