Snow ManやKing&Prince安室奈美恵らに加え、BTS、NiziUなど、グローバルな活躍が続いている。そんな彼女は中学卒業後、15歳にして音楽業界に飛び込んだ。

バンド活動を通し、自らが歌うことを夢としてきたが、作詞の仕事をするうちに天職だと悟り、今も作詞作曲道を驀進中だ。

’17年、作詞作曲を手がけた三浦大知の『EXCITE』で日本レコード大賞優秀作品賞受賞、同じくBTS『Crystal Snow』が17カ国で1位に。翌’18年にはボーカルディレクションを担当した安室奈美恵のベストアルバム『Finally』がダブルミリオンヒット。そして’20年、CDが売れないと嘆かれるなか、作詞したSnow Manの『KISSIN’ MY LIPS』がミリオンセラーに。

多忙な毎日となっていたが、20代の間は、私生活で結婚や子供を持つことへの願望はまったくなかったとふり返る。

■ただ生きていてくれるだけでいい。子供たちのおかげで初めてそう思えた

「家族を持って幸せな人生は私には無理だし、似合わないと思って、世間に牙を?いているような状態で過ごしてきました。プライベートという言葉はなく、スタジオで息を引き取る覚悟でいました」

そんな岡嶋さんが33歳のときに出会ったのが、澤田さんだった。

「コピーライティングの勉強会を通じて参加した飲み会に、彼がいたんです。2人とも旅行好きで、付き合い始めてすぐに黒部峡谷へ行きました。それが現地に着いた途端の大雨や大雪で、普通ならテンションもダダ下がりの状況でも、彼といると何もかもが笑いに変わって、最後は『めちゃ、楽しかったね』で帰宅できた。そんなことが何度もあり、彼と一緒なら、この先の人生のどんなしんどいことも楽しく乗り越えていけるだろうなと思えたんです」

’18年7月に結婚し、翌年に妊娠がわかったときには、改めてキャリアについて考えた。

「この業界にも、子供を産んだことで第一線をゆるやかに離れていく先輩方もいました。ただ、私に母親になったら仕事を減らすという選択肢は絶対になかったんです。お産のときもギリギリまで仕事の納品をしてから産院へ向かい、分娩台の上から仕事仲間に、『出産はしますが、すぐに戻りますので』とラインしてました」

36歳になる直前に、長男のルイ君(2)を出産。その2週間後には、職場復帰を果たしていた。

「最初は出産ハイといいますか、育児と仕事をどちらも100パーセントで両方合わせて200パーセントでやろう、できると奮闘していました」

しかし、そうした生活が3カ月ほど続いたある夜、子供の寝かしつけの合間に歌詞を書いている自分にハタと気づく。

「私、何やってるんだろう、って。それからですね、母親になったことで人に甘えることも初めて覚えて、受けられない仕事もあると納得もできて。そんなことのすべてが勉強になるんだと知るんです」

保育園の送り迎えも、なるべく母親の自分がと意気込んでいたが、

「今は、ほとんど夫に任せきり(笑)。代わりに日曜は、家族の日に決めて、絶対に仕事は入れないし、携帯も見ません」

夫の澤田さんは、長男の誕生をきっかけに、PR会社役員の職を辞してフリーランスに。

「僕自身、妻の妊娠中から、子育てが女性だけのものとは思っていなくて。料理もまったくしませんでしたが、離乳食などもかな多に教わって作るようになりました。そもそも、今の世の中から必要とされている彼女の活躍を、特等席で見たいと思ってプロポーズしていたわけですから」

’21年4月には、澤田さんの発案で、キャンピングカーによる“移動型子育て”がスタート。

「彼女は今後、子供の世話で、家庭と保育園というふうに、どんどん行動範囲が狭まるのではないかと感じて。もともと旅好き、新しいもの好きですから、それではクリエーターとして圧倒的にインプットが不足すると思ったんです。だったら家が動けばいいじゃん、って(笑)。実際に3週間かけ家族で北海道一周などもしましたが、そのうちに第2子の妊娠がわかって、一時中断が続いてます」

次男のルカ君(0)の誕生は、’22年4月。岡嶋さんは、

「『子供ができて作品は変わりましたか』と、よく質問されます。私はアーティストの方たちが描きたい世界観を形にしているので、私自身がそこに100パーセント投影されることはないです。ただ、子供を持って新しく見えてきた世界は確実にあるし、これまでにない覚悟もできました」

自分でも、思いがけない変化だったという。 「とてもシンプルに、すべてのものに対して、愛おしさを覚えるようになりました。愛が、より深まったように感じます。

『ただ生きていてくれるだけでいい』と、そう思えたのは子供たちのおかげです」

■どこかで誰かが喜んでくれるから私は仕事を続けられる。チャレンジは終わらない

「朝6時には子供たちに起こされて、朝食を取りつつ遊び相手もしてたら、もう保育園の時間。その間も、ずっと息子たちはママの取り合いをしてて(笑)。

9時半ごろ仕事開始で、作詞や曲のテーマを考えるなどクリエーティブな作業に没頭します。午後はレコーディングなどで人と会ってると、すぐに保育園のお迎え。22時までは家族の時間を過ごして、0時過ぎまでディレクターさんらと電話やメールでやりとりしたり……」

その後も夜泣きの対応で、冒頭のスタジオでの発言のとおり、ここ数年「毎日寝不足」という慌ただしさが続いている。だが、家庭といういつでも戻れる場所を得て、岡嶋さんの音楽の夢はさらに広がっている。

「コロナ禍も落ち着いてきて、今後はヨーロッパでの活動を広げたい。ユーロビジョン・ソング・コンテストってご存じですか。今年からは、そこへ作家としてチャレンジしていきたいと考えています」

アバや最近ではマネスキンなどが優勝者として知られる同コンテストは、アーティストにとっては世界的飛躍の登竜門ともなるだけに、岡嶋さんのさらなる国境を超えた活躍に期待がかかる。

もちろん、その活動を最も近くで見守るのは家族だ。

「ルイは、このスタジオへ連れてきたこともあります。少しずつ私の仕事もわかってきたみたいで、『またママのおしごといきたい』とか、テレビを見て『ママがいる』と喜んだりで、それは素直にうれしいですね」

音楽には、涙を笑顔にする力があることを、誰よりも岡嶋さん自身が知っている。

「私の仕事は、どこかで喜んでいる人がいるから頑張れるんだと思うんです。無人島に一人いたら、きっと私は曲を作っていません」

この2月には、キャンピングカーでの移動型子育てを再開するプランもあると、インタビューの最後にもまた、夫婦で顔を見合わせて笑った。

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