瀬戸内寂聴さん。《書いた 愛した 祈った》、墓石に刻まれた言葉のように、小説家として、女性として、そして僧侶として命を燃やし尽くした寂聴さんが旅立ったことに喪失感を覚えている人も多い。

今回は三回忌を機に、交流のあった6人が、忘れられない思い出と、「いま寂聴さんといっしょにしたいこと」「いま寂聴さんにお願いしたいこと」を語った――。

■「いまこそ、平和の尊さを訴えてください」歌手、俳優・美輪明宏さん(88)

「時が経つのは早いですね。瀬戸内さんと初めてお会いしたのはもう50年以上前になります。雑誌のインタビュアーとして、私が当時住んでいた新宿のマンションまでお見えになったのです。

まだ瀬戸内さんが人気作家になる前でしたが、私はその数年前に小説『女徳』を読んでおりまして、「面白い文章を書く方だな」という印象を受けていました。瀬戸内さんは、私より13歳年上でしたが、誕生日が同じ5月15日だったこともあり、『私たち双子じゃないの』なんて、言い合ったこともあります」

三島由紀夫氏が脚本を手がけた舞台『黒蜥蜴』で美輪さんは主演しているが、三島氏は寂聴さんの少女小説家時代のペンネームをつけてくれた人物でもある。

「私は三島由紀夫さんをはじめ、多くの小説家とお付き合いしました。皆さんに共通するのが記憶力の凄さです。初対面から数年後に再会したとき、瀬戸内さんがリビングに置いてあった家具や、壁紙にはビロードが張ってあったことなどを記憶していたことに驚かされました。また寂庵の本棚には、たくさんの本がぎっしり詰まっていたのですが、どの本に何が書かれているのか、スラスラ話せるほどだったのです」

2015年7月、原爆投下から70年を目前にした長崎市で、2人はトークショーに臨んだ。

「トークショーのテーマの1つが反戦でした。私も実家のカフェで働いていた青年が出征することになり、見送りに行ったときのことなどを話しています。

汽車が出る瞬間、駅に来ていた青年のお母さんが、彼の足にしがみついたのです。『死ぬなよ。どげんなっても、生きて帰ってこいよ』と。

すると憲兵が『この戦時下になんだ!』と、お母さんの襟首をつかんで突き飛ばして、彼女は鉄骨に額をぶつけて、血を流していました……。

いまは、そうした時代に逆戻りしてきているように思います。瀬戸内さんも、『戦争に、いい戦争とか、国民の幸せのための戦争なんていうのはないんですよ。

集団人殺しですからね。自衛隊員にもそれをさせてはいけない』、そうおっしゃっていました。あの方は同じ思想や価値観を持っている、そう感じてきたのです。

現在、ロシアとウクライナ、そしてイスラエルとハマスが戦争をしています。人間はいずれ死にます。ただし、罪なき市民を殺したり、虐殺をしたり、略奪を繰り返した人間は、死んだ後も、その犯した罪は消えません。

瀬戸内さんもご存命であれば、世界で戦争が続いている状況にイライラなさっているのではないでしょうか。もしかしたら現地に駆けつけていたかもしれません。いまこそ“反戦”と“平和の尊さ”について、訴えていきたかったんだと思います」

■「先生は観音様みたい。あのやわらかくてあたたかいハグを」詩人・伊藤比呂美さん(68)

「コロナ禍以前は、2~3カ月に1回ほど、寂聴先生に会いたくなって、寂庵を訪れていました。私はアメリカでの生活が長かったこともあり、寂聴先生とお会いするときは、いつもハグをさせてもらうんですね。やわらかくて、あたたかくて、小さくて、まるで観音様を抱いているようなんです。

叶うことなら、また先生にハグをさせてもらいたいです」

こう語るのは詩人の伊藤比呂美さん。’08年、紫式部文学賞を受賞した後、雑誌の対談企画をきっかけに、寂聴さんとの交流が始まった。初対面で伊藤さんが「ブラジャーをつけ忘れちゃった」と、気づいて慌てたが、寂聴さんも法衣の下からブラジャーを脱ぎとり、お互いノーブラで対談に臨んだという。

「私は何度か結婚・離婚を繰り返し、20年間アメリカに住んでいましたが、親の介護のために日本と行き来したりしていました。そんな私の経歴も面白く感じてくださったのかもしれません」

以降、たびたび寂聴さんのもとを訪れ、さまざまな相談をしたり、話を聞いたりした。

「先生の前では、自白剤を飲んだかのように、なんでも話すことができるんです」

寂庵の近くにある料亭で会食をしたときは、偶然、政治家の野中広務氏と顔を合わせた。

自民党幹事長や内閣官房長官として強面のイメージが強い野中氏だが、

「寂聴さんとお会いしたときは、すごくニコニコした笑顔。先生の前では、誰もが鎧を脱いでしまうんでしょうね」

寂聴さんは伊藤さんとの話が盛り上がってくると、スタッフに「赤ワインを持ってきて」と、お酒を楽しむことも多かったという。

「血の滴るようなお肉をごちそうしてくれたことも。法衣ではなくて、派手な柄がプリントされたトレーナー姿で、ワイングラスをくるくると回す所作がすごくかっこよかったのが印象的です」

伊藤さんが新聞紙上で人生相談をしていることも、寂聴さんは自身との共通点と感じていたのかもしれない。

「寂庵で法話を見学していたら、寂聴先生が『今日はゲストがいます。人生相談がお上手なので、今日はこの人に任せます』って、いきなり登壇させられたこともありました(笑)」

思い出は尽きないが、なにより心を惹きつけられたのは寂聴さんが生み出す文学だ。2019年には、高橋源一郎氏、平野啓一郎氏、尾崎真理子氏らを招き「寂聴サミット」を企画したこともあったほど。

「『比叡』や『女人源氏物語』、70代でお書きになった『場所』など、素晴らしい作品ばかりです。ちょうどいまは先生が現代語訳した『源氏物語』を読んでいます。作品にふれることで、先生といっしょにいられます。ただ、ハグをしたときのぬくもりを感じることができないのは……、やっぱり寂しいですね。まだ私の手に残る寂聴先生の感触が頼りです」

■「夢に出てきて、思いっきり私のグチを聞いて!」秘書・瀬尾まなほさん(35)

「瀬戸内先生の写真のそばに置いてある『日めくり暦』をめくって、お香を焚くことから、私の1日は始まります」

寂聴さんが逝去するまで約10年間、スタッフや秘書を務めた瀬尾まなほさん。

「いまさらですが先生の言葉は説得力があり、素直に納得するものばかりです。先生が亡くなってしまってから、より先生が残した言葉が胸に響くようになりました」

特に最近、印象に残った言葉は次のようなもの。

《骨身に沁みてつらいと思う経験も、歳月が経って振り返ってみると、あの時、ああいう目に遭ったからこそ、今の自分があるのだと思えるようなことがあります》

自宅や職場、いたるところに寂聴さんの写真が飾ってあるという。

「寝室には大きなパネルもあるのです。2022年に私が『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に出演したのですが、スタジオで先生の写真をパネルにして使っていて、それを後で送ってくださったのです。朝起きたら、『先生、おはようございます』と挨拶をしています。

そこは“瀬戸内先生コーナー”のようになっていて、写真や先生が作ったかわいらしい土仏や、少し分けていただいた遺骨も置いているのです。だから先生を思い出さない日はありませんね。

それなのに、先生は夢に出てきてくれません。ずっと強く思い続けているのに……。私が育児で悩んだとき、人間関係に疲れたとき、いつもグチを聞いてくれていました。そして『何言ってるの!』と明るく笑い飛ばしてくれたのです。そのおかげで、私も自分の悩みなんて、たいしたことではないのだと思えるようになりました。夢の中で、もう一度先生に思いっきりグチを聞いてほしいと思います」

瀬尾さんは3歳と1歳、2人の男の子の母でもある。

「先生は教育の悩みを聞いたときには『いいところを見つけて伸ばしてあげなさい』と、おっしゃっていました。私も子供たちの“長所”を見つけてあげたいです」

天台寺がある岩手県は寂聴さんのゆかりの地でもある。11月3日から「たくさんの愛をありがとう追悼 瀬戸内寂聴展」が盛岡市民文化ホール・展示ホールで開催されており、初日には瀬尾さんが講演を行った。

「テーマは『寂聴先生との10年間』。私が大学を卒業してすぐに寂庵に就職することになってから、先生と過ごした日々をお話ししました。1時間というと長いようですが、先生との思い出を話しているとあっという間。話している途中、涙が出てしまうことも。

私が最初に講演をしたのは母校でした。先生に『うまく話せるかどうか不安です。いっしょに来てください』とお願いしたら、『大丈夫、まなほならできるから、1人で行きなさい』と、背中を押してくれました。私が大勢の人の前で話すようになるなんて、先生と出会う前は想像もしませんでした。人生を変えてくれた先生は、いまも私の“いちばんの味方”なのです」