女優であり、映画プロデューサーであり、ベストセラー美容本の著者。一見華々しい彼女の肩書は、幾度も挫折を味わった末に、手に入れたものだった。

18歳、歌手を夢見て上京するも、芽が出ない日々。「何者かにならなきゃ」と必死につかんだグラビアタレントから、MEGUMIのキャリアは始まった。

「9割失敗で当たり前。考えるよりも行動して、“ダメなら次”と進み続ける」。令和に花咲く女性は、軽やかな発想を武器に、今日も球を投げる──。

土曜の昼下がり、東京は六本木蔦屋書店の2階フロアに女性たちが長蛇の列をなしていた。夏日の外気に増すほどの熱気で満ちているのは、トークイベントに加え、著者手ずからの「新刊お渡し会」が開かれるからである。

お目当ては、女優でプロデューサーのMEGUMI(42)だ。

’23年に出版した美容エッセイ『キレイはこれでつくれます』(ダイヤモンド社)は、幅広い世代から支持され、累計発行部数が60万部を突破する大ベストセラーになった。さらに、この5月に発売した新著『心に効く美容』(講談社)は12万部という異例の初版部数が話題となり、発売1カ月で発行部数が20万部を超えている。

一人、またひとりと、目を見て両手でしっかりと自著を手渡していくMEGUMI。頬を紅潮させて受け取る面々のなかに、神奈川県から来た50代の女性がいた。

「いまのMEGUMIさんは憧れです。芯が通って凜としたイメージで、私たち50代でもキレイになれると勇気をもらっています。私は、『好きな言葉は何ですか?』と聞きました」

して、MEGUMIの答えは?

「球を投げる!」

■「歌手になりたい」と18歳で上京。しかし書類審査で“不合格”の日々

「どんな子どもだったかといえば幼少のころからずっと『考える前に体が動く』子どもでした」MEGUMIは’81年9月25日、島根県松江市で生まれた。5歳で母とともに、岡山県倉敷市に引っ越している。

「女手ひとつで私を育ててくれた母は、大手運送会社の経理の仕事をしていたんです」瀬戸内の有数の工業都市である倉敷市は、白壁の街並みと、洋風建築を持つ美観地区でも知られる。「倉敷川では船頭さんが船をこぎ、商店街はアーティスティックな店も多かった。すこし離れれば田畑で“なんでもあり”な町でした」

ワーキングマザーの母の傍ら、「やりたいことをなんでもやってみる」好奇心旺盛な少女だった。「算盤や習字、バトントワリングとスケジュールをフルフルに詰め込んで、なんでも挑戦させてもらった。『あの塾がいいらしいよ』と、仕入れた情報を母の耳に入れて」

このように、いろいろとトライしながらも、できないことには、自分なりに折り合いをつけていた。そして高校1年時に「絶対になりたい!」ものを見つける。

忌野清志郎さんや、ジミ・ヘンドリックスを聴き、特にR&Bのローリン・ヒルに影響を受けました。

こんな田舎じゃなく、もっと楽しい場所、大きな世界があるはずだ、『歌手になりたい』と」

MEGUMIは留学を志願した。

「でも、何度言っても母はOKをくれませんでした。『女手ひとつ』という責任感と、生真面目な性格から、『大学を出て銀行員とか安定した職についてほしい』と、つねづね言っていた母でしたので」

ここでMEGUMIは動く。

「それまで遅刻ばかりだった高校に早起きして登校し、週3回だったバイトを週6回に増やし、とにかく3カ月間、フル稼働しました。態度で認めてもらおうと」母は根負けし「行っておいで」と30万円を手渡してくれたのだという。

「とにかく『考えるより動く』で、できないと思う暇があるなら、やってみようと」この性分は「もともと持っている性質で、私の中に内蔵されていた」というのが彼女の自己分析だ。

最初は高1で3カ月、高校時代に計4度、NYに渡っている。

「教会に通ってゴスペルを習い、充実していましたが、語学力不足や食事の違いからホームシックになったりと、ストレスや悩みもありました。『それでも、私がなりたいものは歌手なんだ』という結論にNYで達したんです」

なぜ歌手なのか? と問うても、「根拠のない自信があったとしか言いようがない」と彼女は答える。

18歳で、今度は上京。しかし、バイトしながらボーカルのオーディションを受けても、書類審査の段階で「不合格」の日々が続くことになる。

「安室ちゃんのように細くて踊れるコが求められていたのに、ぽっちゃり体形で食べまくっていた。

そりゃ受からないですよね……」当時の音楽シーンは安室奈美恵やglobeなど“小室サウンド”全盛でポップがウケるなか、彼女の志向は骨太なソウルやR&B。

毎週毎週オーディションを受け、連戦連敗の結果も、悩みを相談できる相手もいなかった。悶々と「一人考える」月日にも、東京に踏みとどまらせたものは。

「このまま何者にもなれないのでは、と不安に押しつぶされそうな日々でした。なにもつかめないまま地元に帰るのは、カッコ悪すぎるという思いで、ギリギリ持ちこたえていた。でも、やみくもでしたよね」

そこに救いの手が伸べられた。バイト先のオーナーが、知り合いの芸能事務所・イエローキャブの野田義治社長(現・サンズエンタテインメント会長)に連絡を取ってくれたのだ。

「イエローキャブといえばグラビアで、歌手とは真逆のイメージでした。でももう19歳。デビューには遅いと思っていたので、チャンスがあるならグラビアでもいいと」赤坂の喫茶店での面談で、野田社長は「来週からサイパンに行ってもらうから」。即採用だった。

「一筋の光が差したようでした。

なにも持っていない自分から、これで抜け出せると」

その初の写真集を「母は買ってくれていました」と振り返る。「男性向けの水着写真集ですから『怒るかなあ』とちょっと気掛かりでしたが、電話で母は『キレイに撮れてる。どんどんやりなさい!』と。世に出たことを喜んでくれました」

■グラビアで軌道に乗りCDデビューも「まったく売れなかった」

グラビアを続けていくうちに、研究の大切さを感じ、やがて仕事としても面白くなっていった。

「掲載誌を見ると私は表情が硬く、むくんでいるように見える。『ゴマンといるタレントのなかで簡単にすたれちゃう』と思い、ほかのタレントさんの写真集を買いあさって表情やポーズを研究しました」その購入数は200冊を超えた。

「そのうちスタッフがかけてくれる言葉が変わってきました。『そのポーズMEGUMIっぽいね』と。みんなでロケに行って作品を作り上げる“チーム戦”にも魅力を感じるようになって」思いがけず始めたグラビアが、好きで楽しい仕事になり、写真集を10冊以上出す人気グラドルに。

そしてテレビタレントとしてのチャンスも得る。バラエティ番組『明石家マンション物語』に出演したときのこと。

「水着を着て立ってるだけの設定でしたが、さんまさんがトーク中、私に目を向け『おね~ちゃん、胸大きいな~』と振ってくれました。

でも返しを用意してなかった私はとっさに『うるせ~な』って言っちゃったんです」内心「やばい、終わった」と思ったがスタッフは大ウケ、さんまも手をたたいて笑い「なんやお前!?」。

このリアクションを機にバラエティへのオファーが増えた。そして’03年、念願の歌手デビュー。

「完成したCDを手に取ったとき、NYや東京行きの新幹線の窓から見た風景……いろんなことが思い出されました」しかし、坂本九さんの名曲をレゲエ調にアレンジしたデビュー曲『見上げてごらん夜の星を』は、オリコン最高130位と振るわず。

その後もシングル2枚、アルバム2枚を出したが「まったく売れなかった。出せば売れると思っていたのに」たった1年間の歌手生活だったが「歌の才能はない」と痛感したMEGUMIは、大きな挫折を感じていた。

だがここでもつぶれず芸能活動を続けていく。

「グラビアとバラエティという場があったからです。『ダメなら次で』と思える選択肢と、タフさが身についていたんだと思う」考えるより動いて得た仕事が、MEGUMIを生かしたのだ。

【後編】「息子を思うと感情がコントロールできなくて」MEGUMI 出産後、仕事がゼロになりうつ状態に…たどり着いた子育て論へ続く

(取材・文:鈴木利宗/ヘアメーク:KIKKU/スタイリング:ミク)

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