「あまりにも突然の訃報に言葉を失いました。数年前にアメリカの和食レストランで偶然再会したとき、以前レコーディングでお会いしたころと違い、とてもリラックスしていました。
4月22日、中山美穂さん(享年54)のお別れの会が東京国際フォーラムで催され、約1万人が来場した。昨年末、入浴中の不慮の事故で54年の生涯に幕を閉じた彼女の人生は根性と愛情に溢れていた。
「美穂さんは幼少期にすごく苦労した分、芯の強さがありました。デビュー前から『この世界で生きていく』という覚悟を感じました」(所属レコード会社、キングレコードの中山美穂さん初代担当ディレクター・福住朗さん)
中山美穂さんは1970年3月1日、長野県で誕生。幼少期に両親が離婚し、3歳のときに母親、妹の忍と上京。その後も転居を繰り返し、伯父や伯母と住む時期もあった。小学4年のときに母が再婚し、翌々年に弟が生まれている。
「『ママを幸せにしてあげたい。私が妹と弟を守らなきゃ』と言ってました。今思うとね、目の奥に少しかげりがあるように感じますね。それが、彼女の奥ゆかしさを形作ったんでしょうね」(福住さん)
中学1年のとき、東京・原宿でスカウトされた彼女はモデルクラブに所属しながら、メジャーデビューの機会を模索していた。’84年秋、福住さんは中学3年の美穂さんに初めて会った。
「普通、スターの卵は大人に慣れていて、気安く話し掛ける人が多い。でも、中山さんは違いましたね。『自分は無口で……』と慎重な感じで、ほとんど話さない。すごく新鮮な印象を受けました」
福住さんが「誰が好きですか?」と聞くと、美穂さんは「杏里がすごく好きで」と呟いた。オーディションでは杏里(63)の『オリビアを聴きながら』、中森明菜の『スローモーション』など3曲を歌った。
「歌にパワーがあるとは言えなかったけど、目力を含め全身から出るエネルギーがすごかった。テープを聴いた上司たちには反対されましたが、『絶対に売れます!』と言い続けました。制作部長が幹部に『アイツは頭がおかしくなっているから、やらせてあげましょう』とお願いしてくれたそうです(笑)」
歌手デビューの時期を見極めているころ、美穂さんはドラマ『毎度おさわがせします』(TBS系)で突っ張り少女・森のどか役に抜擢される。共演者の木村一八(55)が彼女の逝去後、初めて取材を受けてくれた。
■『毎度おさわがせします』木村一八が語る「美穂とは中学校の同級生のような間柄」
「美穂は初めてのドラマだったから大変だったと思います。でも、根性があった。もうむちゃくちゃ、ありました。
性に開放的なのどかは「おまえさ~」などと乱暴な言葉も使っていた。この役柄に、美穂さんは不満をためていたという。
「彼女は、そんなしゃべり方をしない人でしたからね。たとえば、『こっちがいいよね』じゃなくて『こちらがいいですか?』と丁寧な言葉遣いをする。だから、『あのセリフが嫌だった』って、いつも口をとがらせていました」(福住さん)
’85年1月開始のドラマは大きな話題を呼び、最終回の視聴率は26.2%(ビデオリサーチ調べ/関東地区、以下同)を記録。社会現象を巻き起こした。
「『毎度~』の全体取材は毎週30本で、僕と美穂は別個でさらに15本ありました。あるとき、2人で手をつないで取材陣の前に登場したんですよ。でも、カメラマンは写真を撮らなかった。当時のマスコミには、スキャンダラスに取り上げず、芸能界を盛り上げようと考える人もいた」(木村)
当時、美穂さんとはプライベートでも交流があったのだろうか。
「友人付き合いはありましたよ。あのころは携帯がなかったから、彼女の家に電話をかけていました。
ドラマで人気を得た15歳の少女は、念願のレコードデビューが決まる。喜びに浸る間もなく、静かに闘志を燃やした。
「私、頑張りますから」
真っすぐなまなざしで呟いた一言はデビュー当時から宣伝担当を務めた元キングレコード常務取締役・竹中善郎さんの胸に刺さった。
「言葉どおり、本当にひたむきで一生懸命やる。口数の少ない子だから、自分から頑張っているなんて言わないけど、伝わってくるんです。そんな彼女の姿に引かれて、スタッフも一丸になれました」
福住さんの机の上には、《燃焼しはじめたみほ。これからも頑張ります。みほ》という直筆のメッセージカードが置かれていた。
■育ての親が振り返るミポリンの凄さ「お客さんの半分は女性だった」
’85年、アイドル界では中森明菜、小泉今日子、岡田有希子、菊池桃子などが覇権を争い、おニャン子クラブが旋風を巻き起こしていた。群雄割拠の時代に、中山美穂は勇敢に闘いを挑んでいった。
「どこに行っても、女性がお客さんの半分を占めたんです。アイドルの宣伝では男性誌での水着グラビアなどを考えるんですが、彼女の場合は女性をターゲットにした雑誌に売り込みました」
なぜ、同性から人気を得たのか。
「当時、自我を出す少女って、ほとんどいなかった。『女の子はこうしなければならない』と社会に抑圧されていた。『毎度~』の役柄は、その風潮に反発する同世代の女性に支持を受けた。時代の気運にうまく乗れたと思います」(福住さん)
覚悟を決めて嫌な仕事を乗り切ったため、幸運が舞い降りたのだ。突っ張りキャラでスタートした彼女は、’86年2月発売の『色・ホワイトブレンド』で可憐な姿を見せ、新たなイメージを創出した。杏里は「美穂さんの魅力は、多様性だと思います」と語る。
「物静かな一面、内に秘めた情熱的な一面、時折見せるおちゃめな一面。彼女の瞳の奥には、さまざまな感情が込められていました。歌声も、透明感のなかに力強さがあり、聴く人の心を引きつけました。
息の長い歌手になってほしいと願う福住さんは、デビュー当時から美穂さんに作詞の課題を与えた。
「多忙なのに頑張って書いていました。彼女はドラマの撮影が終わって深夜にレコーディングに来るときも『ごめんね、遅くなって』と謝る。そのうえ、一人ひとりにお茶を注いでくれた。すごく気を使ってくれるから、スタッフも『美穂さんのために頑張ろう』と気持ちを強くした。双方に思いやりがあって、いい雰囲気の現場でした」
当時、アイドルの寿命は短く、人気が3年も続けば大成功。以降は方向転換を余儀なくされた。しかし、中山美穂は3年目に主演ドラマ『ママはアイドル!』(TBS系)で最高視聴率28.6%を獲得。小室哲哉作曲の『50/50』では『ザ・ベストテン』(TBS系)に9週もランクインし、自己最高の2位を記録した。同番組の3代目司会者・松下賢次(72)が話す。
「一度、TBSの屋上で花火を打ち上げながら歌ってもらったら、煙だらけになって、ぜんぜん前が見えなくなった。それでも、嫌がらずに最後までやり抜いてくれました。
同時期に発売されたアルバム『ONE AND ONLY』では初めて作詞した曲が「北山瑞穂」名義で収録され、次作のシングル『CATCH ME』(作詞、作曲・角松敏生)は初のオリコン1位に輝く。だが、あまりの仕事量に体が悲鳴を上げる。溶連菌感染症を患い、10日間活動休止を余儀なくされた。
「入院する直前も、熱があるのに出演してくれました。プロ根性があった。『ベストテン』出演拒否の歌手が続出したころでしたけど、彼女はランクインすれば、ほぼ出てくれました。どうしてもダメなときでも、ドラマのロケ先からトークをしてくれた。本当に助かりました。忙しい歌手は本番のみになりがちですけど、美穂さんはリハーサルから参加してくれて、うれしそうに歌ってましたね」(松下)
デビュー4年目の’88年、代表曲となる『You,re My Only Shinin, Star』が2作連続オリコン1位、『人魚姫』が『ザ・ベストテン』で初の1位に――。
いっぽうで美穂さんは同年2月、田原俊彦(64)とのデート現場を『FRIDAY』に撮られていた。トップアイドル同士の恋愛は一筋縄ではいかない時代。恋人が発覚すると人気が下がるため、周囲は猛反対した。彼女の頭には疑問が渦巻いた。
《「どうして一緒に街を歩いちゃダメなの?」「当たり前だ。そんなのダメに決まってるだろ」。でも、どうしてもその意味はわからなかったな。ごく身近にいた人たちは応援してくれたんですよ。けど、応援すると、そのひとまわり外にいる人たちに責められるの。なんだかややこしいでしょ》(『月刊カドカワ』’93年11月号)
芸能界での成功と引き換えに、私生活は縛られた。スターゆえの苦悩を抱えながらも、美穂さんは邁進する。’89年7月発売の『VIRGIN EYES』では、憧れの杏里に作曲を手掛けてもらった。
「彼女の物静かな面と内に秘めた情熱をダンスミュージックに乗せて表現し、新しい世界観を生み出したいと考えました。そして、美穂さんは見事にこの曲を自分のモノにしてくれました」
このころ、芸能界は大きく変わり始めていた。’89年秋に『ザ・ベストテン』、’90年春に『歌のトップテン』(日本テレビ系)、秋に『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)と昭和を彩った歌番組が次々と終了。“アイドル冬の時代”が訪れ、美穂さんのシングルは’90年には売り上げ10万枚台と半減してしまう。
すると、彼女はまたしても新たな一面を見せ、難局を打開した。10月開始の月9ドラマ『すてきな片想い』(フジテレビ系)で野茂俊平(柳葉敏郎)をいちずに想う与田圭子を演じ、最高視聴率26%を獲得。主題歌『愛してるっていわない!』も36万枚を突破した。
■「息子さんのことは、いつも気に掛けていました。『会いたい』とも……」(福住さん)
「彼女はとにかく詞を読み込む。『この人はどんな気持ちなんだろう?』と行間を読んで、熟考する。表現の引き出しが多いから、さまざまな歌や役柄に対応できたのだと思います」(福住さん)
多忙な日々を送りながら、家族への愛情も欠かさなかった。同年、東京・三鷹に念願の一軒家を新築。義父、母、妹、弟と5人暮らしを始めた。
「仕事終わりに、何げなく『家、見に来る?』と誘われて、伺いました。2階建てで洋風のモダンなおうちでした。『お母さんを幸せにしたい』という夢をかなえた。うれしかったはずだけど、雄弁には語らない。彼女らしいです」(福住さん)
妹・中山忍の日本青年館での初コンサートには竹中さんを誘い、ステージにライトを当てる調光室から見守った。
「真剣な表情で、心配そうに観ていました。『大丈夫かな』と口には出さないんです。だから、余計に家族を想う気持ちが伝わりました」
幼少期の経験から、彼女は温かい家庭に憧れを抱いていた。
《結婚願望? それはすっごいある。願望だけはね。24ぐらいで結婚したいな。そしたら子供は3人》(『JUNON』’88年12月号)
’91年1月3日夜、美穂さんは恋人の田原とハワイに飛び立つ。彼のマンション前に張り込む大勢のカメラマンを見た田原が「どうする?」と聞くと、彼女は「行く」と覚悟を決めた。“婚前旅行”と大きな話題を呼んだが、2人は結ばれなかった。8月30日、トシちゃんがコンサート中に「この前、フラれちゃったから」と発言。’92年1月に破局した。自ら別れを切り出した美穂さんは、こう振り返っている。
《一年後には結婚できないと思ったことも、言葉にした理由のひとつだった。(中略)何かが胸に引っ掛かっていた。その何かは“仕事”だったんですけどね》 《その時は、結婚したら仕事はやめると決めつけていて、そのことが自分で自分を苦しめていたんです》(前出『月刊カドカワ』)
大恋愛を経て、彼女は一回りも二回りも成長した。’91年10月開始の月9ドラマ『逢いたい時にあなたはいない…』(フジテレビ系)は最高視聴率26.3%を記録。’92年10月発売の『世界中の誰よりきっと』ではWANDSの上杉昇と作詞を手掛け、183万枚を売り上げた。’95年には映画『Love Letter』で、一人二役を演じ主演女優賞を総ナメにした。そして、32歳の2002年6月に作家の辻仁成と結婚。パリに移住し、’04年1月に長男を出産した。
《子供がまだ赤ん坊のころ、泣いてもすぐに抱いてはだめだといろんな方から言われました。いくつかの育児書にもそう書いてありました。ですが私は、3歳まではいつでも抱きしめてあげようと自分のスタイルを守りました。
抱き癖と言われるようなことはなかったし、泣くことは多かったですが、それは赤ん坊の仕事です。今では息子に抱きしめられたりするので、やはり温かくやわらかくありたいです》(著書『なぜなら やさしいまちが あったから』より)
異国の地で幸せな生活を送っているかに見えたが、’14年7月に離婚。帰国後、音楽家との交際が発覚。親権が辻側に渡ったこともあり、世間の抱く彼女のイメージは変わった。だが、夫婦間のことは2人にしかわからない。
「息子さんのことは、いつも気に掛けていました。『会いたい』とも考えていた。だけど、お父さんと一緒にパリに住むほうが幸せだと判断したと思います。有名人の子供となると、日本では暮らしにくい面がありますから」(福住さん)
無口な美穂さんは決して言い訳せず、現実を受け入れながら、仕事に没頭した。苦い経験も、歌手や俳優としての肥やしにした。
「『息子に頑張っている背中を見せたい』と必死に仕事をしていたんじゃないかな。実のお父さんに会った記憶もほとんどないと言っていたし、息子さんとも離れ離れになってしまった。孤独を感じていたと思います。芸能界ですべてを掌中に収めたようでいて、私生活では手に入れられないものもあったんですね……」(竹中さん)
何もかも、自分の思いどおりになる人生など存在しないのかもしれない。まだまだ歌いたかった。まだまだ演じたかった。息子にも会いたかった―。そんな想いを抱えたまま、中山美穂は星になってしまった。
■「美穂はすごく努力していた。だから、みんなが力になりたくなった」(木村)
「LINEではやり取りしていたけど、私は岡山に住んでいるので、なかなか会えなかった。去年、広島でのライブに誘ってくれて、数年ぶりに顔を見ました。1本のステージに完全燃焼していた。終わった後、『頑張ってるね!』と声を掛けると、満面の笑みを浮かべていた。あの表情が忘れられません。『今度、ご飯食べようね』と言ったら、『そうしよう!』って……。あれが、この世で最後の会話でした」
歌手・中山美穂の育ての親である福住さんは涙声になった。
「彼女は、本当にファンの人たちを大切にしていました。『勇気を与えたい』なんて絶対に言わない。『みなさんが喜んでくれたら、私も幸せです』という順番で話す。『私が幸せだから、みなさんも幸せでしょ』じゃないんだわ。おこがましいと思うんだろうね」
盟友の木村一八も、いまだに戸惑いを隠せない。
「美穂が亡くなったと聞いて、『毎度~』で彼女の兄貴役だった高橋和也と電話で2時間くらい話しましたよ。僕にとっては幼なじみが死んだようなものだから……。彼女は、アイドルっぽく振る舞えるような子じゃない。野性味に溢れ、負けん気が強い性格なんです。だから、大人の要求に応えられない自分が嫌で、頑張ったんだと思う。芸能人って求められることを肌で感じて、表現できる感性が必要。美穂はそれを持っていた。そして、すごく努力していた。だから、みんなが力になりたくなった」
数々の大ヒット作は、美穂さんの根性と愛情、類いまれな感性が引き寄せたのだ。杏里は言う。
「美穂さんの歌声と笑顔は、多くの人の心に深く刻まれています。あなたの作品は、これからも愛され続けるでしょう。どうぞ安らかに眠ってください」
唐突な別れだった。さよならと一言だけでも告げたかった。でも目をつぶれば、いつだってシャイニングスター・美穂さんはほほ笑んでくれる。数え切れないほどの記憶とともに――。
(取材:シリーズ人間班、岡野誠/文:岡野誠)