武澤忠[日本テレビ・チーフディレクター]

* * *

<遺体は撮るのか、撮らないのか?>

「1000年に一度の大災害」と言いながら、みんなもう忘れ去ってしまっているのでは・・・。時々、そう感じることがある。
自分自身マスコミの人間でありながら、「月日と共に記憶が風化していく」現実は否めない。だからこそ「誰かが伝え続けていかなければならない」とも思う。

東日本大震災当時、日本テレビの生情報番組の総合演出をしていた僕は、福島県相馬市の実家が被災。そしてその後、自らカメラを回し、「被災した実家の母」を撮り続けることとなる。

その中で感じた被災地のリアルな苦悩、葛藤・・・そして見つけた小さな希望。当時78歳で、一度は絶望のどん底にいた母が立ち上がっていく姿を見て感じたのは「ニッポン人の逞しさ」だった。

もうすぐ震災から5年。これは、テレビマンとして、被災者の息子として、これまで感じた事を綴った記録である。すべては「忘れずに伝え続ける」ために。

震災後に、民放連の会合で各社の記者やデスク、ディレクターが集まり「震災報道」の課題や問題点を共有するために話し合ったことがある。

 「『遺体』を撮るのか、撮らないのか!?」

甚大な被害を受けた海岸地域には遺体が累々と並び、とても正視できる状態ではなかった。それでもカメラマンは映像を撮り続けた。
いかにひどい出来事であっても、視聴者に伝えるためには、映像として記録しなければならない。

しかし、ある社のカメラマンは、「どうせ放送出来ないのだから」と、はなから遺体を避けて、撮影したという。

確かに今の日本のテレビが、遺体が累々と並ぶ光景を、そのまま放送するわけはない。しかしモザイク加工するにしても、もともと映っていなければ、放送しようがない。

この「はなから遺体は撮らない」という姿勢は、果たして正しいのだろうか?

どう放送するかはその時々の責任者にゆだねるにしても、映像財産として、「現実」を記録しておかなければ、次の世代にこの災害の真実を伝えられないのでは?

そんなことが議論された。結論は出ない。

今回の被害はそれだけ大きく、最前線で取材する記者やカメラマンも困惑していた。何をどうすれば良いのか、迷っていた。

かくいう僕自身も。

<未曾有の大災害「東日本大震災」の幕開け>

2011年3月11日2時46分。

当時担当していたお昼の生放送番組「DON!」の一週間の生放送を終え、ほっと一息つき、翌週分の打ち合わせがてら弁当をかきこんでいるときだった。

東京・汐留にある日本テレビのオフィスビルが突然大きく揺れる。
その時僕がいたのは29階の会議スペース。ただならぬ揺れに思わず箸をおき、咄嗟にテーブルを握った。

 「やばい・・・これはでかいぞ」

瞬間、背筋が凍りつくのを感じた。揺れは徐々に激しくなり、周囲からは女性スタッフの悲鳴が聞こえた。移動式ロッカーが右に左に激しくぶつかり、凄まじい音をたてていた。

打ち合わせをしていた普段クールなディレクターは、机の下にもぐりこんだ。涙がでそうなほどの恐怖を感じながら、僕はひたすら「早くおさまってくれ!」と神頼みするしかなかった。

ようやく揺れがおさまり、思わずテレビの画面を見る。

 「東北震度6強」

瞬間、福島県相馬市でひとり暮らす母・順子の顔が浮かぶ。すぐに携帯から電話をするがまったくつながらない。卓上電話を使ってもダメだった。

 「お台場が燃えているぞ!」

誰かの声に窓際に面した喫煙所へ駆けつける。
見れば、お台場のフジテレビの裏手から、黒い煙が立ち上っていた。正直、「この世の終わり」かと思った。

母は相変わらず連絡が取れない。そのとき耳に飛び込んできたアナウンサーの音声に、僕は思わず目の前が真っ暗になった。

 「福島県相馬市岩の子には7.3メートルの津波が押し寄せ、壊滅状態です!」

そこはまさに実家だった。78歳の母が、ひとり暮らしていた。

 「なに!? 壊滅って、なんだよ・・・」

言葉を失っている僕の目に、各地の凄まじい津波の映像が飛び込んできた。これが未曾有の大災害「東日本大震災」の幕開けだった。
<震災ニュースを放送するだけがテレビはない>

その後、実家の近所に嫁いだ姉からメールが入る。姉の一家と一緒に避難し、母も無事だという。ほっと胸をなでおろしたが、その後の一文に胸を押しつぶされた。

 「家はもう、住める状態ではありません」

3ヶ月前に父が亡くなったばかり。
母のショックは計り知れなかった。しかしそんな中でも、デイリーの情報番組の総合演出として、すぐに実家に帰るわけにはいかなかった。こんな時だからこそ、伝えるべきことがあるはず。

番組は既に3月いっぱいで終了が決まっていた。残り2週間のラインナップは既に決めてあり、ほとんどがロケも進んでいた。担当のディレクターたちにはこの番組で最後となる放送。

しかし彼らの渾身の作品は世に出ることなく、そこから全編「震災関連ニュース」で対応する日々が始まった。

CMは自粛、日本中から音楽が消え、笑い声が消えた。

最後まで自分の任務を果たすべきだと日々震災関係のニュースを伝えながらも、心の中では気になるのはやはり実家の事。その頃、地元の公民館に避難していた母は、幸いにも無事だった近所に住む姉夫婦の家に身を移し、お世話になっていた。

震災から1週間がたった頃から、番組に寄せられる被災地からのファックスに、こんな声が目立つようになった。

 「子供が毎日泣いています。
どうか地震のニュースだけでなく、アンパンマンも流してください。音楽を流してください」

そのファックスを見つめながら、今テレビがやれることは何なのだろう? と考えた。地震や津波の被害は、日々拡大している。それを伝えるのはもちろん大切なこと。しかし、テレビの役割は、他にもあるのではないか?

ほんの少しの時間、辛い現実を忘れるために、「笑う」ことも大切なのではないか?

翌週、「DON!」にとっては最後の1週間。これを震災ニュースだけでなく、あえて「通常放送」に切り替えたいと、上司と共に上層部に直訴した。

 「まだ早いのでは?」

そんな声がなかったわけではない。だが、「こんな時だからこそ元気を届ける!」のが、この番組の役割ではないかという我々の想いを、会社は理解してくれた。

3月21日の月曜日。番組冒頭で司会の中山秀征さんはこう言っている。

 「こんな時、僕たちに何が出来るのか、スタッフみんなと考えました。やっぱり僕たちは、お茶の間に元気を届けたい!そう思いました。
今日も明るく元気でまいります!よろしくお願いします」

かくしてスタジオには久しぶりに笑い声がはじけた。

終盤には「龍馬伝」の題字も書いた書家の紫舟(ししゅう)さんと世界的華人・赤井勝さんが生パフォーマンス! 華やかに彩られた花々に囲まれた中に、「日本一心」という大きな文字が浮かび上がった。

 「日本一心」

今こそ、日本をひとつに。心をひとつに。
そのメッセージは、ダイレクトに胸に伝わった。スタジオの出演者は、みんな涙ぐんでいた。

放送後、姉から携帯にメールが届く。

 「被災地へのメッセージ・・・確かに届きました。お母さんが言っていたよ。『がんばって』って百万回言われるよりも、勇気をもらったって」

その4日後、「DON!」は終了した。
<生きる希望を失った78歳の母が書いたチラシの裏の震災日記>

ようやく仕事に一区切りついて帰省したのが3月末。高速道はまだデコボコのままで、深夜の高速バスは、時折激しく跳ねながら、故郷へと向かった。

やがて目に飛び込んできた信じがたい光景に愕然とする。道路の脇に、数えきれないほどの流された車や破壊された家の残骸が散乱している。瞬間、自分の中で何かが音をたてて壊れた。

以来しばらく、何を見ても涙はでなかった。涙を出す機能すら、破壊されていたのかもしれない。

実家に帰ると、母は思いのほか元気そうだった。随分と気を張っていたのかもしれない。一緒に家の様子を見に行くが、床上まで津波が押し寄せ、濁流で畳は見えなくなり物が散乱、壁は崩れかけ、確かにとても住める状態ではなかった。

震災のわずか3ヶ月前に事故で亡くなった父が大好きだった「昼寝用」のソファーも、無残に泥だらけとなっていた。

 「お父さんはこんな姿見ないまま逝ってよかったね。大好きだったこの家のこんな無残な姿、見たらさぞかしショックだったでしょ・・・」

力なく母がつぶやく。今回の津波で辺り一面は瓦礫にまみれ、親戚がひとり流されて死んだ。そのお婆さんの娘さんも、行方不明のままだった。(のちに死亡が確認された)

 「命助かっただけ良かったね・・・」

とりあえずかける言葉が見つからず、僕がそうつぶやくと、母は否定するようにこう言った。

 「命助かって良かったんだか、どうだか・・・この年で(当時78歳)家がこんな風になってしまって・・・これからの苦労考えたら、いっそ一気に逝った方が楽だったんじゃないか、って思うときあるよ。お父さんを見送る役目は終えたんだから、いま余震が来てつぶれたって・・・もうどうなったっていいよ。命なくした人たちには申し訳ないけどね・・・」

50年連れ添った夫に先立たれ、意気消沈していた矢先の今回の震災。母は、明らかに生きる希望を失っていた。

 「このままではまずい」

長男として何とかしなければならないが、今の自分に何が出来るのか。その時、答えは見つからなかった。

その夜、近所に住む姉夫婦の家に僕も泊まらせてもらった。救援物資や水のタンクなどが散乱する中、ふと足元にあるスーパーのチラシに目をやった。
その裏には、母が何かを書き綴っていた。

 「3月11日・・・
 あの時猛り狂い 咆哮し 大地を襲った海は 本当にこの海だったのか
今は静かに潮騒の中に 白い小さな波頭が見えるだけ
悠々と流れていく雲よ お前は何を見ていたの
小さな蟻のように 人々がもがき苦しむさまを 黙って見ていたの?」

見た瞬間、頭をハンマーで叩かれたような衝撃をおぼえた。そこには、誰にもぶつけようのない憤りや苦悩が、赤裸々に綴られていた。

チラシの裏にとどまらず、孫の学習ノートの余白などにも、母は誰に読ますためでもなく、自分の想いを綴っていた。

(以下、母の震災日記の抜粋)

 「きょうも廊下のキャビネットから写真を出して ヤクルト時代(パート時代)の思い出の写真を見ないで捨てた 私の半生の思い出が いっぱい詰まっていたのに。一枚ずつ見れば あれもこれも想い出してしまうから 思い切ってゴミの中へ どうせ私が死んでしまったら唯のゴミに過ぎないのだから」「相変わらずの放射能騒ぎ 福島県産 野菜 牛乳 不買決定。泣くに泣けない四次災害ではないか。牛乳が飲めないでどんどん捨てられていく 胸が痛む」「腰は痛いけど 薬もなくなってきた どうしよう 」

その震災日記を読みながら、自分の中で沸き立つ何かを感じた。
<ディレクターとして78歳の母にカメラを向けた意味>

今回の震災に遭い、テレビカメラの前でインタビューに答えられる人たちは、全体から見ればほんの一握り。多くの人が、それどころじゃなかったり、「うちなんか、他所に比べて被害は浅いから」と嫌がったり。

そしてマスコミは、(自分を含めて)どうしても「被害の大きい」所ばかりに目が向いてしまう。しかし、一見被害が小さい一軒一軒それぞれに、それぞれの苦悩があることを見過ごしては来なかったか?

「被害の大きな」ところにばかり目を奪われ、大切な何かを見過ごしては来なかったか?世にでない「声なき声」の中にこそ、「被災地の本当のリアルな本音」があるのではないか!?

この未曾有の災害の当事者を、「母と息子」という距離感で記録し、その真実を伝えることが、いまの自分に課せられた使命なのでは?

番組になるかどうかはわからないが、とりあえず僕は「記録」としてカメラを回すことを決意した。震災の記憶を語り継ぐためにも、風化させないためにも、それが、実家が被災したテレビディレクターの務めであるような気もした。

そして筆者は一本の企画書を書く。タイトルは「ディレクター被災地へ帰る」。

カメラを回し始めた当初、母はとても嫌がっていた。

 「他にもっとひどい被害の人たちがいっぱいいるのに、被災者ぶって画面にでるなんておこがましい」

と固辞した。しかし、

 「被害が大きい所だけ目を向けてたら真実は伝わらない!」

と僕も食い下がった。震災から2ヶ月が過ぎたころ、母を伴って母が育った新地町へ車で行った。海から延々流木や瓦礫が流されて、畑は埋め尽くされていた。美しかった田園風景は凄まじいまでに一変していた。

満州で生まれ、この福島の地へ引き揚げてきたのは母が13歳の頃。故郷の無残なまでの変貌に、母はぽつりとこうつぶやいた。

 「ある意味、戦争より怖いよ。戦争は憎むべき相手があったけれど・・・天のしたこと、憎みようがないじゃない」

そのとき、返す言葉は見つからなかった。
その頃、母は津波で半壊した実家を、毎日片付け続けていた。玄関には市役所職員によって「立ち入り注意」の黄色い紙が貼られていたが、泥に埋もれた部屋を少しずつ片付け、捨てるものと使えるものをより分けたりするのが、唯一の母の生きがいでもあった。

 「何とかお父さんのご位牌を置けるようにしなきゃ。それがお母さんの務めだもの」

築50年。家族の思い出がしみついたこの家を、このままにしてはおけない。母は東京に来ることも拒否し、「この家に嫁いだんだから、ここで死ぬよ」と口癖のように言いながら、来る日も来る日も片付け続けていた。

そんな母の姿にカメラを向けながら僕は、なんとか早く元気になってほしい、と願わざるを得なかった。しかし、そんな生活にも終止符がうたれる。「半壊状態」だった我が家は「放置していては危険」という行政の判断から、「解体」が決まった。

震災から7か月。2011年10月のことだった。

<実家の解体工事に涙した「失格ディレクター」>

実家の解体当日。この日のことは生涯忘れることはないだろう。

築50年の思い出が染みついた我が家がなくなる。老朽化ではなく、津波のせいで。父の遺影を手に持ちながら、母は崩れゆく家を見守っていた。

ユンボが、丁寧に服を一枚一枚脱がせるように壁を剥ぎ取り、柱を引き抜いていく。しかし、父がお気に入りだった「茶の間」の柱は、最後のあがきのようにビクともしない。震度6にも耐え抜いた屋敷が、最後の意地を見せているようだった。

 「家が泣いてるよ・・・負けるもんかって泣いてる。お父さんの死にざまと一緒だ。
こんだけ踏ん張って・・・あっぱれだ」

父の遺影を胸に抱えながら、誇らしげに母が言う。
このとき、筆者はカメラを回しているのが辛くなった。

テレビマンとして、記録しなければ、という気持ちと、長男として、家がなくなる瞬間くらい感傷にひたりたいという気持ちが交錯する。

しかしカメラを回し続けた。「俺はディレクターだ」と、自分に言い聞かせながら。

やがて、茶の間の柱も大きく揺れる。瞬間、父の生前の笑顔が脳裏をよぎった。この部屋は、父にとって「小さなお城」だった。その茶の間がなくなる・・・。ついに力尽きたように柱が倒れ、壁が崩れた瞬間母が目を伏せた。

そして今まで、父の葬儀のときも気丈に泣かなかった母が、その瞬間から慟哭をはじめた。
慟哭。それはまさに慟哭だった。母の泣き顔を見るのは、何よりも辛かった。

カメラを回しながら、その顔を見ていられず後ろに回り込む。再び土煙をあげて壁が倒れこんだが、何度ピントを合わせてもうまく合わない。気が付けば、自分の涙で、ファインダーがよく見えなかった。

 「ディレクター失格だ。」

その取り壊しの日の日記に、母はこう綴っている。

 「まるで・・・自分の手足が切り刻まれているのを見るようで、辛く、苦しい・・・抜けるような青空だったのに、白い雲が寄ってきた。『孫悟空』みたいにお父さんが雲に乗って、家の最期を見届けにきたのかな・・・家の形が何もかもなくなって・・・未練と悔しさと悲しさを、同時に持ち去ってくれるなら・・・それも良しとしよう・・・」

解体の直後、瓦礫の中から意外なものが見つかる。赤い筒に入れられたそれは、津波被害以来どこへいったかわからなくなっていた「金婚式のお祝い証書」だった。

家が崩れ去り、何もかもが無くなった瞬間、その中から出てきた「金婚式」の証書。それはあまりに出来過ぎたタイミングであり、父からのメッセージだと感じざるを得なかった。
証書を握りしめながら目に涙を滲ませて母が言う。

 「私は生きてなきゃ、駄目なんだね。生きて、ちゃんと後始末しなきゃ駄目なんだね・・・この証書見たら、元気にならなくちゃね」

母の見上げた視線の先には、青い空に白い大きな雲が浮かんでいた。

<1時間のドキュメンタリー番組になった我が家の記録>

翌日、母を伴い再び母が育った新地町へ。5月に来た時、瓦礫に埋め尽くされていた大地には、今は雑草が生い茂っていた。

まばゆく輝く緑に目を細め、母はつぶやく。

 「雑草は踏まれても踏まれても立ち上がる。それが雑草の運命・・・人間だって立ち上がらなきゃね。」

久しぶりに聞いた母の前向きな言葉に、カメラを回しながら思わず涙があふれそうになった。そしてその日の母の日記にはこう書かれている。

 「おーい、雲よ・・・あの日の雲ではないだろうけど、あの日の私でもないんだよ。あれから・・・しっかり、生きてきたんだよ。塩水にも負けずに雑草が生き延びた。虫も生きている。ならば、人も生きなければ・・・」

震災から1年。撮り続けた我が家の1年間の記録は、1時間のドキュメンタリー番組になった。

「リアル×ワールド ディレクター被災地へ帰る 母と僕の震災365日」(2012年3月放送・番組審議委員会推薦作品・平成24年度文化庁芸術祭参加)

テレビディレクターである息子が、震災で被災した母を撮り続けながら「家族とは何か」を自らに問いかけるセルフドキュメンタリー。原発による風評被害や親との確執など、すべてをさらけだしてつくった。

この番組は、こんなナレーションで始まる。

 「これは震災のドキュメンタリーではない。震災でも壊れなかった、家族の絆の物語」

そして番組の最後は、母のこんな言葉で終わる。

 「生きなきゃいけない運命なら生きなきゃね。だけど生きるってことは、辛いこともあるよ・・・死んだ方が楽だと思うこともあった。でも、いま、生きる方向へ向かうのよ。生きてやろうじゃないの!」

ある種、極めて特殊なこのドキュメンタリーは大きな反響をよんだが、中でも注目されたのが番組で引用した母・順子の「震災日記」だった。誰に読ますためでもなく、赤裸々に綴られた78歳の被災者の心情が、多くの視聴者の共感を呼び、やがて出版社から書籍化の依頼がくる。

そして2012年7月、「生きてやろうじゃないの!79歳 母と息子の震災日記」(武澤順子・忠、青志社)が上梓された。

<「生きてやろうじゃないの!」が生んだ思わぬ運命の波紋>

その後も筆者はカメラを回し続けた。母は次第に生きる気力を取り戻し、日に日に力強くなっていった。

でも本当は母は、必死に「元気になる自分」を演じていたのかもしれない。息子である僕に、心配をかけないように。

そして本「生きてやろうじゃないの!」の出版により、思わぬ出会いが生まれる。「生きてやろうじゃないの!」を読んだ静岡の中学1年生が書いてくれた読書感想文が青少年読書感想文コンクールで賞をとり、その表彰式に母も招待されたのだ。

そこで感想文を書いてくれた13歳の少女と出会い、今でも学校ぐるみの付き合いが続いている。

そして母の言葉に感動したという福島県いわき市在住の歌手・箱崎幸子さんが「お母さんが書いた言葉を是非歌にしたい」と作詞を依頼。本当にCDとして完成し(「生きてやろうじゃないの」作詞・武澤順子 歌・箱崎幸子 キングレコード)、地元いわき市でそのお披露目コンサートが行われ、母も招待された。

夫の死。

震災の被害。

家の解体。

・・・様々な日々の中で母が綴った言葉は、被災地の人々にどう響くのか。心配しながらカメラを回したが、客席のなかで涙を浮かべながら聴いている人々の姿に、ほっと胸をなでおろした。

客席にいた女性が、インタビューにこう答えてくれた。

 「生きてやろうじゃないの!って言葉・・・聞けばそうか、って思うのに、なんでその言葉が自分の頭の中に思い浮かばなかったかなあ、ってことを感じました。素晴らしい言葉ですよね」

<日本人女性の逞、転んでもタダでは起きない東北人魂>

2013年3月。

3年間撮り続けた記録を「リアル×ワールド 3YEARS 母と僕の震災日記」として放送した。その番組を編集しながら気づいたのは、母の表情が、震災直後と比べてみるみる逞しくなっていくことだった。

そして感じたのは、「日本人女性の逞しさ」であり、「転んでもタダでは起きない東北人魂」だった。

放送後、「お母さんの笑顔に勇気をもらった」「自分も被災者だが、番組を見てとても励まされた」など、多くの反響をいただいた。そして息子として嬉しいのは、そうした多くのメッセージをいただき、母がより元気になり、生きがいをもって生きているという事実である。

あるとき、会社のとても偉い方から直接電話をいただいた。

 「番組素晴らしかったですよ。ただ、あの日記は本当にお母様が書かれていたんですか?」
 「本当ですよ!僕にはあんな文章書けません!」

苦笑いしながらそう言うと、その方はこう言ってくれた。

 「素晴らしい文才ですね。お母様は国語の先生か何かされてたの?」
 「いえ・・・普通の主婦です」

そう答えたが、本当はこのとき、こう言いたかった。

 「僕の母は、日本一のヤクルトおばさんです!」

<被災者としての「誇り」>

 「もうすぐ震災から5年・・・」
 「風化させずに伝えたい・・・」

そんな思いからカメラを手に撮影をはじめて、もうすぐ5年が経つ。震災1年半後の夏には、タレントの間寛平さんが岩手・宮城・福島の被災3県を、9日間かけて縦断する「復興支援マラソン」に密着取材。

462キロを走り続けた寛平さんとともに、被災地の様々な表情を目の当たりにした。

 「自分が手を離してしまったから妻が津波にのまれ死んだ」

と悔い続ける80歳の男性。

自分が止めるのも聞かずに人を助けに行って亡くなった夫を恨み続ける未亡人。

消防士の父親にあこがれ、自分も将来人を助ける仕事がしたいと語った少年。

原発事故で故郷を追われた一家・・・等々。

あの人たちはいま、どうしているだろうか・・・。普段はまったく違うジャンルの番組をつくっているが、メディアに生きるものとして、少しでも被災地のことを風化させずに伝えられればと、今回寄稿させていただいた。

戦争と震災・・・ふたつの大きな災いを経て、もうすぐ82歳となる母・武澤順子は、最近日記にこう綴っている。

「今度は『被災者』としてではなく、自分自身が、誰かのお役にたてるよう立ち上がらなければいけないと思う。それが震災で受けた多くの御恩に報いる道であり、『被災者としての誇り』でもある」

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