住民の4人に1人が犠牲となった沖縄戦。県民を戦場に駆り出す「根こそぎ動員」へ、かつて新聞も加担した。

 情報を正しく伝えるべきメディアが、大本営発表を垂れ流すようになったのはなぜか。背景の一つに政府の情報統制がある。
 1940年11月、内閣情報委員会が情報局に格上げされると新聞や雑誌の整理統合が進められた。「琉球新報」「沖縄朝日新聞」「沖縄日報」の3紙だった県内は12月にいち早く統合され、本島は「沖縄新報」のみとなった。
 いわゆる「一県一紙体制」だ。同紙は45年5月25日に解散するまで沖縄戦のさなかも発行を続けた。

 太平洋戦争開戦の3日前、内閣情報局は放送の一元化を強化する「国内放送非常態勢要綱」も通達。以降、新聞、ラジオはこぞって大本営発表を報じる。
 「戦意高揚」報道の最たるものが、与那国町出身の大舛松市陸軍中尉の戦死だ。43年1月に激戦地のガダルカナル島で戦没。9カ月後の「大詔奉戴日」に合わせ軍部は、大舛中尉の武功が「上聞」(天皇の耳に入ること)に達したと公表した。
 各紙は一面トップで報じ、県内では官民挙げた顕彰運動が繰り広げられた。
そうした運動が再び紙面で取り上げられる相乗効果により「大舛に続け」との熱気が全県を覆うことになったのである。
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 沖縄新報は「大舛大尉伝」(死後に昇進)を計136回掲載。「大舛精神」を説き県民に死の覚悟を迫る45年1月14日付社説へと帰結した。
 「戦場においては勇敢奮闘し、最後に死を選ばなければならない場合には死ぬことによって不滅の勝利を確信する精神であり、銃後においては自らの実践が前線に直接結びついていることを自覚し、一切を君国にささげて不退転の努力を続ける精神である」
 こうした報道は新聞が進んで情報統制の「共犯関係」となることで生まれたものだ。
 当時、朝日新聞那覇支局の記者だった上間正諭元沖縄タイムス社長は戦後、大尉の妹清子さんへの取材をこう振り返る。「兄の戦功を(中略)書いてくれないほうがいいという感じだった。
しかし言葉を曲げて、彼女の本心でないことを記事にしたと思っています」(保坂廣志著「戦争動員とジャーナリズム」)
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 それまで軍部に批判的な論調もあった新聞が姿勢を転換したのは満州事変が契機とされる。軍部と一体化し部数を拡大する中、日中戦争、太平洋戦争へ国民をあおった。
 現在の多くの新聞は、こうした戦前の反省の元に再出発を果たしてきた経緯がある。
 あれから1世紀近くたち「新たな戦前」が言われる今、新聞はどう戦争を防ぐのか。今こそ、メディアとしての役割が問われている。
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 社説企画「沖縄戦80年」は来年9月まで、実際の経過に即し随時、掲載します。