2025年の夏、志を持って参院選に出馬したある芸能人の選挙戦に異変が起きていた。
SNS上で拡散された“本人のものではない発言”が、まるで事実であるかのように一部ネットメディアやテレビ報道にまで波及し、候補者自身がその“発言”を否定せざるを得ない状況に追い込まれていた。
真実ではない。だが、信じられてしまった。
そしてそれは、選挙戦という時間的・心理的に極めてセンシティブな場面において、有権者の判断と候補者の運命を静かに、しかし確実に揺さぶっていた。
こうした事例は、もはや例外ではない。今回の参議院選挙を通じて改めて浮かび上がったのは、私たちの民主主義が「正しい情報が届かない社会」のただ中にあるという現実である。選挙は、民主主義の最も大切な儀式だ。そこでは、事実に基づく判断がなされるべきであり、透明性と公平性が制度の正統性を支える。
しかし、いまこの根幹を静かに、だが確実に侵食しているのが「誤情報」と「信頼の崩壊」なのだ。拡散された内容が真実かどうかよりも、「どれだけ共感されたか」「どれだけ“信じたくなる内容だったか”」が影響力を持ってしまう。それは単なるネットトラブルではない。民主主義の制度的基盤の脆弱性に直結する、極めて本質的な問題である。
■なぜ「失言」でもノーダメージなのか
もはやこれは、ファクトとフェイクの戦いではない。
背景にあるのが、慢性的に広がる「政治不信」や「メディア不信」だ。人々は、制度や専門家の語る“論理的な真実”よりも、SNSで偶然目にした“直感的な真実”に強く引き寄せられる。特に誤情報が、「共感」や「怒り」と結びついたとき、その拡散力はファクトチェックを凌駕する。なぜならそれは、「納得」や「気持ちの居場所」といった感情の回路に直接届くからだ。
結果として、いくら事実を語っても信じてもらえず、“信じたい虚構”のほうが優位に立ってしまう。この構造の中では、真実が知性の問題ではなく、“信頼と感情”の問題として扱われるようになる。
日本社会は、どこまで「信じられる力」を取り戻せるのか──。その構造を読み解く作業を、ここから始めたい。
■丁寧な「ファクトチェック」が無視される理由
今回の参議院選挙で拡散されたSNS上の誤情報は、一候補への風評や誤解という次元を超えた深刻な問題である。単なる情報の誤りではなく、民主主義の根幹に関わる「公正な選挙」という制度の信頼性と、「公共言論空間」という民主社会のインフラの劣化が問われている。
特にSNSを通じて増幅された誤情報が、特定の候補者に与える心理的・実質的ダメージは、政治参加へのハードルを上げ、有権者の判断を歪める結果となっている。これが構造的な問題である理由は、いくつかの要素が制度的に交錯し、それが複合的に民主主義の機能不全を引き起こしている点にある。
まず、SNSの設計上、短く刺激的で断定的な言葉が極めて拡散されやすい。一方で、誤情報に対する訂正やファクトチェックは、丁寧であるがゆえに長文になり、注目されにくく、届きにくい。訂正は往々にして静かに語られ、怒りや恐怖を喚起しないが、まさにそれが理由で、関心を集めないのだ。
■XやYouTubeが「誤情報を放置」している
次に、誤情報の被害を受けた候補者が否定や反論を行うと、その反論自体が再び拡散されるというジレンマがある。これは「ストライサンド効果」(ある公開された情報を秘匿・除去しようと試みる行為が、かえってその情報を広い範囲に拡散させてしまう結果をもたらす現象)と呼ばれる現象であり、否定すればするほど、その誤情報の存在を知らなかった人々にまで広がってしまう。つまり、候補者は「反論すべきか否か」という時点で、すでに負けている構造に巻き込まれている。
さらに、プラットフォーム側の対応も深刻だ。X(旧Twitter)やYouTubeなどの大手SNSは、法的あるいは政治的な中立性を理由に、選挙期間中の誤情報に対して介入を極めて慎重に行う。中立であるという名のもとに、結果として「誤情報を放置する」構造が温存されている。これは“規制の不在”ではなく、“制度の曖昧さ”が引き起こす構造的不介入と言ってよい。
そして最も厄介なのは、こうした誤情報がどれほどの影響を及ぼしたのかを「可視化できない」点である。誰が何を信じ、どのような投票行動に結びついたのか。それを後から評価する手段は事実上存在しない。つまり、誤情報が選挙結果に関与していたとしても、その証明も是正もできない。制度としてブラックボックス化が進行しているのだ。
■選挙が「極めて脆弱な制度」となりつつある
こうした環境の中で唯一機能しているように見えるのがファクトチェックである。しかし、その実効性には限界がある。ファクトチェックには時間がかかる。誤情報は数分で数万リーチを獲得する一方、ファクトチェックの結果が届く頃にはすでに状況は動いている。加えて、訂正情報を見たとしても「信じたい人は信じ続ける」。人間の心理は、合理性よりも信念を守る方向に働くため、誤情報は容易には修復されない。
これらの構造を総合的に捉えると、我々が直面しているのは「制度上の一時的トラブル」ではなく、民主主義そのものの設計限界であることが明らかになる。
いったん広がった誤情報は、たとえ後で訂正されても、その訂正は有権者の投票行動に反映されにくい。つまり、選挙において誤情報は不可逆的な効果をもつ。投票後に「やっぱり間違いだった」と気づいても、その一票は戻らない。その意味で、選挙は極めて脆弱な制度となりつつある。
SNSによる誤情報問題は、ネット空間だけの問題ではない。民主主義の土台を揺るがす構造変化である。私たちは今、その土台の設計そのものを問い直さなければならない。
■誤情報のほうに「整合性」を感じてしまう構造
現代の選挙は、政策や論点だけで勝負されているわけではない。むしろ、有権者の「感情」「信念」「不安」といった見えない心理領域こそが、その意思決定を根底から揺さぶっている。SNS上で拡散される誤情報が、ファクトよりも力を持ってしまうのは、人々が非合理だからではない。それは、社会心理と認知の構造が、誤情報のほうに“整合性”を感じてしまうように設計されているからである。
ここからは、その構造を6つの観点から分析していきたい。
感情が理性を上書きする情報空間
SNSの世界では、「正しいかどうか」より「気持ちが動いたかどうか」が優先される。怒り、共感、驚き、憤り──そうした感情を揺さぶるコンテンツほど、拡散されやすくなる。
その瞬間、人は「これは事実か?」と冷静に問う前に、「これは自分の思っていることに近い」と感じる。この“感情の解釈枠”が、真偽の判断よりも先に脳内に立ち上がる。
信念に合致した誤情報のほうが、冷静な事実より“納得感”をもって受け入れられてしまうのだ。
■なぜ専門家より「匿名の発信者」が信頼されるのか
見たいものだけが“真実”になる──確証バイアス
人間の脳は、既に持っている考えや価値観に合う情報を好み、それに反する情報は意識的・無意識的に排除する傾向を持つ。これを心理学では「確証バイアス」と呼ぶ。
たとえば、有権者が「ある候補を信頼していない」という前提を持っていれば、その候補に不利な誤情報が流れたとき、「やっぱりそうだったのか」と感じやすい。
この「やっぱり」の直感こそが、誤情報を“心理的に用意された正解”にしてしまう。誤情報は、事実としての正確性ではなく、“感情的な整合性”によって受け入れられてしまうのである。
「正しさ」より「近しさ」を信じる時代
近年、私たちはメディア、政府、専門家といった“公的な情報源”への信頼を失いつつある。
その結果、たとえ発言者が匿名でも、「自分と似た立場の人」が発した言葉のほうが信じられる構造が形成されている。
正しさより、近しさ。
肩書きより、共感。
その変化こそが、今の情報空間を“信頼の迷子状態”にしている要因のひとつだ。
嘘は1秒で拡がり、真実は3日かけても届かない
誤情報の拡散力は圧倒的である。インパクトのある断定的な言葉は、1秒で何万人に届き、リツイートされ、拡散される。
一方で、ファクトチェックや事実確認は時間がかかり、内容も地味で、長文になりやすい。そのため、届いた頃にはすでに「空気」は形成され、印象は定着している。
「嘘は靴を履く前に、真実は半周走っている」
この逆説が、今の選挙環境ではリアルな現実として展開されている。
“信じられていること”が、“信じる根拠”になるという錯覚
SNSの「いいね」や「リツイート」、コメントの多さは、あたかもその情報が“真実である”かのような印象を与える。多数の人が賛同している、あるいは話題にしている。それだけで、その情報には「信頼に足る何かがある」と感じてしまう。誤情報であっても、「みんなが信じているように見える」ことで、“信じられていること”が“信じる理由”になってしまう。
ここに、ソーシャルメディア時代の認識の罠がある。
■誤情報とは「安心」「確信」の感情パッケージ
誤情報は“情報”ではなく、“安心”を提供する
そして最後に最も深い心理的背景がある。
人は、複雑で不確かな世界に生きることに、不安を感じている。事実がグレーであったり、判断が難しかったりする局面において、人は「明快で、わかりやすく、誰かを悪者にできる物語」を求める。誤情報は、その“わかりやすさ”を提供する。「これが真実だ」「あれが敵だ」と明言してくれることで、心に“居場所”を与える。
つまり、誤情報とは「事実」ではなく、“安心”や“確信”の感情パッケージなのである。
誤情報は、知性の不足によって信じられるのではない。むしろ、感情的ニーズに的確に応える“構造化された慰め”であり、「心の中の正しさ」にすり寄る巧妙な情報設計なのである。この社会心理の構造を変えなければ、どれほど正しい情報を用意しても、人々には届かない。
ではその構造に対して、私たちはどう向き合えばいいのか、信頼をどう再設計すべきかという問いを考えたい。
■なぜ「正しい情報」では届かないのか
これまで述べてきたように、SNS時代においては、誤情報の拡散は単なる技術的問題ではなく、社会心理や制度設計そのものの課題である。だが、ここで改めて問うべき根本的な問いがある。それは、「なぜ正しい情報が届かないのか?」という問いだ。
私たちはつい、「もっと正確に伝えればいい」「ファクトチェックを徹底すればよい」と考えてしまう。しかし現実には、どれだけ情報が正しくても、それが人々の意識や行動に届かない場面は数えきれないほどある。それはなぜか。
「正しさ」は、もはや情報そのものには宿っていない
かつて、情報の正しさとは知識の質であり、新聞や学者、専門家がその象徴だった。誰が言うかではなく、何を言うかが問われた時代である。しかし現代では、その構図は完全に反転している。重要なのは「誰が言ったか」であり、さらに言えば「その人を自分が信じているかどうか」である。
つまり、情報は“真偽”によって受け取られるのではなく、“帰属感”によって選ばれる。どんなに正確で客観的な情報でも、送り手と受け手の関係性が希薄であれば、それは「自分に関係のないノイズ」として処理されてしまう。
■必要なのは、「説明」から「信頼」への転換
「正しすぎる情報」は、拒絶される
ここにもう一つの重要なパラドックスがある。情報があまりに「正しすぎる」場合、人はむしろそれを拒絶するという事実である。
心理学では、これを「認知的不協和」と呼ぶ。人は、自分の信念や価値観を脅かす情報に対して、防御的な態度をとる。たとえそれが事実であっても、「それを認めてしまったら、自分が間違っていたことになる」。この心理的ハードルは想像以上に高い。
特にSNSの文脈では、訂正の言葉はしばしば“攻撃”として受け取られる。「あなたの考えは間違っている」と告げることは、「あなたという存在を否定している」と受け止められかねない。
その結果、人々は自分の世界観を守るために、“誤情報の沼”にとどまろうとする。つまり、真実は鋭すぎると刃物になり、対話の扉を閉ざしてしまうのだ。
情報は「意味」を持たなければ、ただのノイズになる
情報が届くとは、単に内容が伝わることではない。人は「正しいかどうか」を判断する以前に、無意識にこう問いかけている。
「これは自分に関係があるのか?」
「なぜ、今、自分がそれを知る必要があるのか?」
この“意味”の回路が開いていなければ、どれだけ正確な情報もスルーされる。つまり、情報が届くためには、事実性だけでなく、「文脈」と「感情」の設計が必要なのだ。
事実を提示することは重要である。しかし、それが「なぜ必要なのか」「誰にとってどんな意味があるのか」が伴わなければ、ただの情報の断片で終わってしまう。
正しさとは、“説明”ではなく“設計”の問題である
現代において、正しさは知識や内容の問題ではない。それはむしろ、関係性の問題であり、設計の問題である。誰が、どのような立場から、どんな感情とともに語るか。それによって、まったく同じ内容の情報でも届き方が変わる。また、人々のリテラシーに責任を転嫁する発想もまた、容易に押し付けに変わる。
だからこそ、いま求められているのは、「説明力」よりも「信頼設計力」なのだ。
ではこの信頼をどう再設計していけばいいのか。社会全体として何ができるのかを探っていく。
■「信じたくなる真実」を設計していくために
誤情報が溢れる時代において、私たちに必要なのは、ただ正しい情報を出すことではない。いま問われているのは、「正しさをどう届けるか」「どう信じてもらえるか」という、情報の“構造設計”そのものである。
これまで私たちは、誤情報に対抗するには「訂正すればよい」「正確さで上書きすればよい」と信じてきた。だが、その戦略は、今の情報環境では限界を迎えている。
誤情報は、理性の崩壊によって広がるのではない。むしろそれは、信頼が失われた社会の中で生まれた、“自己防衛の知恵”なのである。だからこそ、その“解毒”には、信頼の再設計が欠かせない。私たちがこれからすべきことは、単なる情報提供の強化ではない。
それは、以下の3つの構造転換である。
第一に、「届け方」の設計である。
情報は、内容の正しさ以上に、「どう届けるか」によって受け取られ方が変わる。その文脈は誰からか、どんな関係性の中でなのか、どのタイミングでなのか。これは“説明力”ではなく、“信頼のデザイン力”である。説明は論理であるが、信頼は物語である。
第二に、「誤情報を潰す」よりも、「信頼の場を育てる」ことである。
SNSで流れる誤情報を1件ずつ否定しても、根本的な解決にはならない。むしろ、人々が「安心して真実にアクセスできる場」「異なる立場と接続できる場」を日常的に持てることのほうが、誤情報を信じる前提そのものを削ぐ力を持つ。
信頼は、否定では生まれない。それは、日々の対話と関係の中で、じわじわと育まれていくものだ。
第三に、「正しさ」を軸とするのではなく、「関係性」を軸とした情報コミュニケーションに転換すること。
どんなに正しい言葉であっても、“誰がどの立場からどんな文脈で”伝えたかによって、受け取る側の反応はまったく異なる。今、私たちは「事実を伝える」社会から、「信じてもらう仕組みを設計する」社会へと発想を転換すべき局面にある。
■情報の時代から「信頼の時代」へ
「信じたくなる真実」とは何か。この問いに、シンプルな答えはない。
だが確かなのは、「信じたい嘘」が強いのではなく、「信じたくなる真実」が十分に育っていない、という事実だろう。
つまり、それは偶発ではなく、設計されうるものだ。信じたい嘘に立ち向かうには、それを超える“意味”と“共感”を備えた真実が必要である。それはただの事実の列挙ではない。人々の不安に寄り添い、希望を語り、世界とのつながりを感じさせる、語るに値する真実でなければならない。
「信じたくなる社会」をつくるのは、国家でもAIでもない。私たちの側だ。
陰謀論が社会をのみこみ、政治家を呑みこみ、民主主義そのものを揺さぶる時代。もはや「何が正しいか」よりも、「どう信頼されるか」が問われている。信頼は与えられるものではなく、社会全体で丁寧に設計し直すべき“公共の技術”である。情報の時代から、信頼の時代へ──。私たちは今、正義の戦いではなく、信頼の構築という、新しい情報戦に入っている。
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田中 道昭(たなか・みちあき)
日本工業大学大学院技術経営研究科教授、戦略コンサルタント
専門は企業・産業・技術・金融・経済・国際関係等の戦略分析。日米欧の金融機関にも長年勤務。主な著作に『GAFA×BATH』『2025年のデジタル資本主義』など。シカゴ大学MBA。テレビ東京WBSコメンテーター。テレビ朝日ワイドスクランブル月曜レギュラーコメンテーター。公正取引委員会独禁法懇話会メンバーなども兼務している。
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(日本工業大学大学院技術経営研究科教授、戦略コンサルタント 田中 道昭)