朝ドラ「あんぱん」(NHK)では、やなせたかしをモデルとする嵩(北村匠海)がマルチに活動する。やなせの評伝を書いた青山誠さんは「昭和28年、三越を辞めたやなせは漫画家としては失業状態。
テレビの台本など、いろんな仕事を引き受けていた」という――。
※本稿は、青山誠『やなせたかし 子どもたちを魅了する永遠のヒーローの生みの親』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
■三越を退職し「本当の漫画家」を目指すが…
便利屋稼業の仕事は際限なく広がり、昭和36年(1961)には作詞家の仕事をやることになった。日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)で、宮城まり子が司会するワイドショー番組の構成に携わっていたのだが、この番組内の企画「今月の歌」に使う歌の作詞を頼まれる。
この頃のやなせは、精神状態がかなり悪かった。便利屋稼業で迷走するうちに、自分が何者なのか、何をやりたかったのか、この先、自分はどうなってしまうのだろうか。と、不安にさいなまれていた。それを考えると眠れなくなる。仕方がないので、起きて本を読もうかと電気スタンドのスイッチを入れる。この時に、なにげなく灯あかりに手をかざしてみたところ、血管が紅あかく鮮やかに映しだされた。それを見て、
「美しい」
なぜか、そう思って感動してしまう。
■いずみたくと組んだ「手のひらを太陽に」
電気スタンドにかざした自分の手に見惚とれて、しばし眺めつづけていた。
すると『手のひらを太陽に』の歌詞が頭に浮かんできたという。頭に浮かんだ歌詞を紙に書いてみると、それは自分を鼓舞する応援歌のように思えてきた。気に入った。すぐに曲をつけて聴いてみたくなり、
「たくチャン、歌詞あるから曲をつけてくれない? お金はないんだけどね~」
舞台の仕事で親交があった作曲家いずみ・たくに、友達のよしみで作曲をお願いした。こうして完成した曲を番組内で宮城まり子が歌ったのだが、当初、世間の反応は薄く話題にもならなかった。
しかし、昭和37年(1962)にNHK『みんなのうた』で放送され、さらに昭和40年(1965)の紅白歌合戦でそれをボニージャックスが歌ったところ大反響があり、レコードが大ヒット。その後は小学校の音楽教科書に掲載され、多くの歌手にカバーされてCMなどにも使われるようになった。世代を超えて歌い継がれ、現在は日本人なら誰もが知っている超有名な歌になっている。
昭和39年(1964)4月からは、NHK『まんが学校』にレギュラー出演するようにもなっていた。
■NHK「まんが学校」に出演し「漫画の先生」に
ディレクターが突然やなせの家を訪れて、出演を依頼してきたのだが、これも例によって“困った時のやなせさん”だったのだろう。出演を予定していた漫画家がドタキャンして代役が見つからず、困り果てて声をかけてきた。そんな感じだろうか。

番組では漫画の描き方を指導したり、漫画に関するクイズを出題する「漫画の先生」というのが役どころ。しかし、これといった代表作がない無名の漫画家だ。それどころか、最近はまったく漫画を描いていない。そんな自分が漫画の先生というのは、気恥ずかしい。
この番組は3年ほどつづいた。その間に『手のひらを太陽に』が大ヒットし、童謡の作詞を多く手がけるようになった。同じ局内の他番組で、やなせの作詞した歌が放送されることもある。作詞家としてちょっとは知られた存在になっている。だから、
「えっ、やなせさんって作詞家でしょ?」
漫画家として番組に出演しているのを観た者が、不思議そうな顔をして聞いてくる。
「いや……こちらが本業なんですよ」
そんな弁解をいちいちするのが情けない。この状況はマズい、このままではダメだ。そう思って一念発起。
もう一度、漫画と真剣に向きあうことにした。
■大人向けのナンセンス漫画を描きたかった
『まんが学校』が子どもたちに人気だったこともあり、子ども向けの学習雑誌から仕事のオファーがくるようになっている。大人向けの漫画に固執していたやなせは、当初、あまり気乗りがしなかったのだが、このままでは本当に漫画の仕事がなくなってしまう。好き嫌いを言っている場合ではなかった。
漫画家として世間に認知してもらうには、やっぱり、漫画を描かねば。と、幼児向けに交通標語を漫画にするとか、学年雑誌でクイズ漫画を描くなど、依頼された仕事はすべて受けた。
「嫌だなぁ、堕落しちゃったなぁ」
やりたくない仕事をやればやるほど、自己嫌悪に陥ってしまう。これならラジオの台本や作詞の仕事をしていたほうが、まだ精神衛生上は良さそうだ。自分が本当に描きたかった漫画はこんなんじゃない。漫画というだけではダメなんだ。自分が本当に描きたいものでなければ、心の満足は得られない。
終戦直後のクズ拾いの仕事で拾ったアメリカの雑誌、そこに載っていた漫画のことを思いだす。
あれはソール・スタインバーグの作品だった。皮肉と洒落の利いたナンセンス漫画に笑って感動して、こんな漫画を描きたいと思ったものだった。だから自分は漫画家になったのだ。あんな漫画を描きたい。
■「週刊朝日」の漫画賞に応募することを決意
そして、再度の一念発起。本当に描きたい漫画に挑戦してみようと、便利屋稼業の合間に睡眠時間を削り、自分が納得できる漫画を描くことに没頭する。出版社からの依頼などはなく、『週刊朝日』の漫画賞に応募することを目的にした作品だった。
作品が完成しても世にでることはないかもしれない。金が得られる保証はない。プロを自認する者が金にならないことに時間を費やすのはつらい。また、アマチュアと同列に扱われて競わされるのは、プロのプライドが許さないと考える者も多いだろう。
アマチュアに負けて受賞を逃せば、プライドも傷つく。

しかし、このまま何もしなければ、漫画家として本当に終わってしまう。プロのプライドなど気にしている場合ではなかった。背水の陣、これに賭けるしかない。
やなせが応募作品として描いた4コマ漫画『ボオ氏』にはセリフが一切なく、絵だけで読み手に話を理解させる手法を取っている。アメリカの雑誌に載っていた漫画もそうだった。英語が分からなくても話が理解できた。
■4コマ漫画「ボオ氏」で多額の賞金を獲得
「漫画はパントマイムであるべきだ」
というのが、昔から唱えていた持論。この作品ではそれを徹底させることにした。
主人公のボオ氏はいつも帽子を深く被かぶって顔が見えないが、微妙な動きや背景の描き方などでその心情を巧みに表現している。
ボオ氏の顔が見えないのは、世間に知られていない「顔の見えない漫画家」の自分の姿を投影したものだという。その後ろ姿には、あふれる悲哀が感じられる。それは、いつまで経っても努力が報われず、挫折(ざせつ)を繰り返してきた売れない漫画家の辛つらい心情を代弁するものだった。

漫画家人生の集大成。情熱を傾けペンをふるった『ボオ氏』は、昭和42年(1967)に週刊朝日漫画賞を受賞した。やなせには100万円の賞金が贈られている。ちなみに大卒初任給が2万8000円だった当時、100万円を現代の貨幣価値に換算すると1000万円くらいになるだろうか。大金だがそれよりも、漫画家として作品を評価されたことがうれしい。
■週刊誌で連載が始まったが、半年で打ち切り
同年7月1日の『朝日新聞』には、
「週刊朝日の『百万円懸賞連載マンガ』に入選したやなせ・たかし」
大きなスペースを割いた記事が掲載され、漫画家たちの間でも話題になった。前年の漫画集団の慰安旅行の際には声をかけてもらえず、存在を忘れられていたようだが、記事を目にした古い仲間たちが、久しぶりに連絡を取ってくるようになる。
『週刊朝日』で『ボオ氏』の連載も始まった。新聞やメジャーな雑誌で連載を持つことを、漫画家になってからずっと夢に見ていた。それがついに実現したのだが、しかし、これで“売れっ子漫画家”の仲間入り……とはならなかった。
読者からの反響はいまひとつで、『ボオ氏』の連載は半年で終了した。『週刊朝日』から次回作を打診されることはなく、他雑誌や新聞からも仕事の依頼はこない。また、忙しい漫画界の住人たちは、やなせの漫画賞受賞のことなどすっかり忘れている。
「これで本当のマンガ家になれるかもしれない」
漫画賞受賞の直後、雑誌のインタビューで語った言葉だが、こうなってしまうと虚しく響く。一念発起して頑張ってみたけれど、結局、何も変わらない。本当の漫画家にはなれなかった。

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青山 誠(あおやま・まこと)

作家

大阪芸術大学卒業。近・現代史を中心に歴史エッセイやルポルタージュを手がける。著書に『ウソみたいだけど本当にあった歴史雑学』(彩図社)、『牧野富太郎~雑草という草はない~日本植物学の父』(角川文庫)などがある。

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(作家 青山 誠)
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