■「賃上げ5%」でも「実際は2%」のなぜ
労働組合の中央組織である連合の調査では2025年度の賃上げ率は5162組合の加重平均で1万6356円、率にして5.25%と1991年(5.66%)以来の5%超えということです。300人未満の中小組合(3677組合)でも1万2361円、4.65%の賃上げです。
これは「平均賃金方式」と言われる計算方式によるもので、組合員の平均賃金をいくら引き上げるか、ということで計算されています。
こうした報道を見ていると、いかにも賃金が上昇しているように思えますが、違います。厚生労働省が発表している「現金給与総額」の最近の動きを見ると、とても4%や5%も賃金が上昇しているようには思えません。
図表1にあるように、今年に入ってからもその数字は2%前後の伸びで、5月にいたってはたった1.4%です。賃上げで騒がれている額とはかなり大きな差があるのです。こうした事実は大手メディアではほとんど報じられません。
連合と厚労省では調査対象が少し違うのですが、よりリアルな数字は厚労省のものです。なぜなら「現金給与総額」は、基本給などの所定内賃金、残業代などの所定外賃金、そして、賞与などが含まれた一人あたりのトータルの賃金を指しているから。
図表1の所定外労働時間を見てほしいのですが、ずっと前年比マイナスの状態が続いています。
残業が減っている背景には、ひとつはトラック運転手や建設現場、医師などの「2024年問題」があります。働き方改革関連法での残業規制が行われたのです。
さらには、生成系AIの普及の影響があります。多くの企業は今、AI活用を促進して、社員一人あたりの生産性を向上させています。インプット時間を抑制して、全体の賃金を抑えながら、アウトプット(一人あたりの生み出す付加価値額)を維持・向上させようとしています。社員からすれば、効率よく働けて、無駄な労働時間が減るのは歓迎すべきことですが、給料に関係するとなると、いたしかゆしというところでしょうか。
■物価上昇に勝てない賃上げ
大手メディアはこぞって「賃上げ」と報じましたが、実際はずいぶん低い数字に沈んでいる。そして、大して懐があたたかくなったわけではない上に、働く人の生活を苦しめ続けているのが物価高です。
図表1に記載したインフレ率(生鮮除く総合)の数字を見てください。今年に入ってからは、現金給与総額の伸びがインフレ率を超えた月はありません。
タクシーの運転手やホテルのフロントマン、小売店の店頭に立っている人など経済の最前線にいて景気に敏感な人たちの景況感を表す「街角景気」(内閣府調査)も景況感が良いか悪いかの境目である「50」を切った状態が長く続いています。
■株主からの強いプレッシャーで企業は…
なぜ、国民はこのような逆境に直面しているのでしょうか。実は企業も同じです。株価は日経平均の最高値を抜くほどに好調ですが、株主からのプレッシャーが強い上に、この先の警戒感がとても高いのです。
トランプ関税は、何とか決着を見ましたが、それでもトランプ政権前よりは、米国向けの輸出に関しては15%程度関税が上がった業種は少なくありません。下がった業種はなく、それもこの先に何が起こるか分かりません。
また、トランプ関税のせいで、世界景気も減速気味です。さらには、日本経済に大きな影響を及ぼす中国経済も、EVをはじめとする供給過剰や長期化する不動産不況の影響で低迷しています。トランプ関税と中国経済減速のせいで、アジア経済も調子が落ちています。
そうした中で、企業としては、コロナ明けなどから顕著となった人手不足に対応するためにも、他企業との対抗上の賃上げを行わざるを得なかった一方、株主のプレッシャーが増大する中で利益の確保は絶対命題です。その結果、全体的な賃金を抑制することにしたという顛末です。
利益確保のため、企業は中小を含めて生産性向上しようと、営業での企画や提案書の作成、社内の報告書、作図などの作業をAIに補助させています。前述したように、一人あたりのアウトプットを増やせば勤務時間を減らすことが可能になります。
経営的に考えれば、基本給を5%程度上昇させても、AIなどの導入で残業が減れば、これまでと同様、またはこれまで以上のアウトプットが出せる上に、トータルでの人件費はある程度抑制されます。
■企業は今後さらに生産性の向上を求められる
今後、企業は株主からの圧力が高く、さらなる利益の増額を要求されるのは必至です。株主評価は「ROE(自己資本利益率)8%程度」であれば、以前は“合格”でしたが、今や“普通”で10%以上でないとあまり喜ばれません。その他、配当や自社株買いなど、株主還元への対応に四苦八苦しています。
また、セブン&アイホールディングスの例を見るまでもなく、海外の同業他社からの買収提案やアクティビスト(物言う株主)からなどの要求も増えており、企業価値の向上を図らなければなりません。
そうした中、生産性の向上が上場企業だけではなくどの企業にとっても急務なのです。上場企業と取引のある中堅・中小企業にも、仕入れなどの観点からコスト削減の圧力は強く、大企業同様に生産性の向上を図らなければなりません。従業員はAIを使いこなすといったスキルなしには生き残れなくなっています。
■金利を上昇させてインフレを抑える
こうした国民が八方ふさがりのピンチの時こそ助けてほしいのが政府でしょう。実質賃金が上がらないのですから、それを上げるための選択肢は「名目賃金を上げる」か「インフレを抑える」しかありません。
先日、最低賃金が47都道府県すべて1000円以上になることが決まりました。これは賃金上昇に関するいいニュースですが、最低賃金を上げると、企業はその賃金に近い給与で働く人たちの給与も上げなければならず、中小・零細にはかなりの打撃です。多くの企業にとって賃金上昇には限界があり、大盤振る舞いはできません。
では、「インフレ抑制」はどうでしょうか。それを実践するために、日銀は現状0.5%の政策金利を上昇させることが必要です。次回の政策決定会合は9月18日から始まりますが、現状の高いインフレ率の状況を考えれば、政策金利を上昇させることが適切であることは言うまでもありません。
同時期に行われる米国の中央銀行(FRB)の金融政策を決定するFOMC(連邦公開市場委員会)では、政策金利(現状、4.25%~4.50%)は、米労働市場のこのところの悪化を受けて高い確率で下げられると考えられます。
仮に、この9月に日銀が政策金利を上げ、米国が下げるとなると、円高に振れる可能性があり、それは輸入物価を下げ、日本のインフレ抑制にも寄与するはずです。
金利上昇は借入れの多い企業には不利に働きますが、「ゾンビ企業」が淘汰されることにより、一時的な痛みは生じますが、ゾンビ企業で働く人がより良い企業へ転職できるチャンスとも言えます。そういった点でも、働く人はAIに適切なプロンプト(指示や質問)を出せるなどの技術を身につけておくことが転職にも有利に働くことは間違いありません。
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小宮 一慶(こみや・かずよし)
小宮コンサルタンツ会長CEO
京都大学法学部卒業。米国ダートマス大学タック経営大学院留学、東京銀行などを経て独立。
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(小宮コンサルタンツ会長CEO 小宮 一慶)