7月に行われた参議院選挙で自民党が大敗し、石破茂首相への退陣の声が強まっている。コラムニストの河崎環さんは「参院選直後に生まれたXの『#石破さん辞めないで』のハッシュタグは、石破氏の後釜に名前が挙がる“高市早苗首相”誕生を嫌がるものだった。
■勝ったのは「動画メディア」
7月参院選、与党大敗。勝ったのは何だったか。それは右寄りだ左寄りだの政治スタンスでもなければどこかの党でもない、YouTubeをはじめとする動画メディアだった。文字ベースのマスコミでもなければ、XなどのSNSですらなかった。
文字ベースのメディアなら、ユーザから反論コメントや反論投稿が生まれる。だが動画に対する「反論動画」を、一般のユーザがリスクやコストを負ってまで作成して投稿することは稀だ。
確信的に動画戦略を貫く相手との歴然としたスキル差。正誤ではなく「みんなが群がって見ていること」を最善と評価するアルゴリズムが情報の雨を降らす時代だ。動画の発信側が一方的かつ圧倒的に有利な時代に選挙というアナログなシステムが全くついていけなかった結果が、自民、公明両党の大敗、衆参ともに少数与党という前代未聞の事態である。
あの日、私たちが参加したのは、自分たちの利益を代表してくれる政治家を選び出す選挙だったのか、それとも動画プラットフォームを戦場とするインフルエンサーたちの人気投票だったのか。
■指摘しても憂えても届かない
参院選の間、文字ベースのSNSでは、「特定の党がドライブする論調に自分の知人が取られていく」とたくさんの人が悲しみ、胸を痛めていた。
だがそれは、いわば「動画」という別の大陸に向かって「文字と電波」という大陸から“別の言語で”叫ぶ声のようなもので、一向に届くわけがなかった。動画に熱心に付け込まれ、YouTubeやTikTokが世界のすべてになってしまった人たちに向かって、冷静な人たちが文字のSNSや新聞雑誌やウェブ記事や地上波テレビのニュースや情報番組で「それは間違っている」と指摘したり「そんなのばっかり見ててリテラシーは大丈夫か」と憂えてみたりしたところで、当人たちには読まれもしなきゃ、見てももらえないのである。
彼らはそもそも文字媒体や地上波テレビを「つまらない」「信じない」と拒否し、情報摂取の方法としておすすめ自動再生のネット動画を漫然と見る日常に賛成したのだから。
■石破首相の続投意思
さて、与党大敗。選挙で負けた総裁のすげ替え、新総裁待望論が持ちあがるのは通例通りだ。だが当の石破首相は、党内で高まる石破有責論に対して「あのような結果を招いたことに対して、心からおわびを申し上げる」と述べながらも、日米関税交渉合意、農業政策、防災分野での実績に触れ「引き続き、この日本国に責任をもってまいります」と続投の意思を堅持している。
それを「権力にすがるのか」と非難する向きも大いにあるようだけれど、自分の采配下で組織に損害が起こった時、トップの責任の取り方は辞任以外にもある。できていないことが多々あり地味さに失望があるのは承知だが、選挙戦法の変化に負けた今回こそまさにそれ(辞任以外の責任の果たし方)が適用されるべきケースである、という確信が、石破首相の据わった三白眼から滲み出ている。
■「石破では勝てない」のではない
参院選後、落選した自民議員たちから上がった怨嗟の中に「石破さんのせい」と断じる声はひときわ大きかった。勢いをつけた野党は少数与党国会での内閣不信任決議案提出を取り沙汰し(立民は秋へ見送り)、内外の風当たりは石破首相に厳しい。しかも石破首相が全幅の信頼を以て共に政権を歩んできた森山幹事長が「参院選の総括終了後に幹事長を辞任する」との意向発表は大打撃。
政界では「石破のせい」「石破では勝てない」で、石破おろし一色。だが不思議なことに、世論は「(地味なのは認めるけれど)石破さんにそんなに恨みがあるわけじゃない」のだ。
朝日新聞社が7月に実施した世論調査で自民大敗の要因を問われ、「首相個人に問題がある」とした人は10%。一方で「自民全体に問題がある」は81%だった。自民は「石破のせい」にしている自分たちの姿がそもそもオワコンなのに、その現実と目を合わせていない、とも言える。
「石破では勝てない」んじゃない、「あなたがもう勝てないのだ」と。
■「#石破さん辞めないで」の真意
石破おろしの風が荒れた参院選直後、Xでは特に女性ユーザの間で「石破さん辞めないで」とするハッシュタグが生まれていた。
ところがその真意は、積極的な石破首相支持というよりも、その後釜に自民が担ぎ上げようと動いていた“高市早苗首相”の誕生を嫌がるものだったことに留意したい。
自民はどこまでしっかりと感知しているのか疑問だが、都会、特に東京に住んで仕事を持つ女性たちに、高市早苗氏はすこぶる評判が悪い。というよりも根本は自民支持でありながら「高市さんだけは本当にいやだ」というレベルで嫌悪感を示す人も少なくない。
それはなぜか。
■「それは高市さんじゃない」
遡って2021年、菅義偉元首相の任期満了を目の前にした自民党総裁選で、岸田文雄氏、河野太郎氏、高市早苗氏、野田聖子氏が立候補したとき、私は2人の女性政治家が自民党総裁を争う戦いに参加する歴史的状況を感慨深く受け止めつつ、このようなコラムを書いた。
細田派陣営から「日本の記念すべき100代目の総理大臣に初の女性総理を」とのフレーズが出た時、私は「いや、それは高市さんじゃない」と強く思った。明確に反発心と呼んでいい感情だった。「女だったら誰でも喜ぶと思うなよ?」。初の女性総理、という祭りのハリボテが欲しいんじゃないのだ。事実、子育てもしながら働き続けるキャリア女性の中には「高市早苗が“全女性の代表”の顔をするのはイヤだ」との声もある。
安倍政権は、女性活躍の名の下にそういう「コレジャナイ」女性登用を続けては、女性の有権者を執拗にがっかりさせ続けてきた。なんかもう嫌がらせなんじゃないか、いやきっと嫌がらせだ、絶対それが目的だ、と思うほどに。その真骨頂が第3次安倍第2次改造内閣での稲田朋美の防衛大臣登用と失言引責辞任だ。「女性」×「防衛」という絵面を提供してくれるメガネっ娘で網タイツの「ともみたん」に年配のネット右傾ピープル(おじさんとかおじいちゃんたち)が沸きに沸く傍で、同じ女性有権者は「これが安倍政権のいう女性活躍なのか?」と首を捻っていた。
女性防衛大臣という名前と姿に満足しているのは男性ばかり。大奥みたいな寵愛型の女性登用、つまり「年長の男性が、自分が見たい女を自分の裁量で引き上げてやっている」風景しか見えず、女性の共感はまるで置いてきぼりで、当の女性たちには活躍して輝ける未来なんて見えなかった。むしろ「なんだ、やっぱり結局それなのか」と失望しかなかったのだ。
稲田朋美や高市早苗は、そういう登用を受けてきた、当時アベガールズと言われた人たち。「ほら、女の人ですよ。どうです、新しいでしょう」「うわーすごい、女の人だー」。「目新しい形」をした政治家に、何か知らんが中身のない期待をさせられては失望するのは、安倍政権時代で十分やった。政治家としての価値の筆頭にまず「女であること」が出てくる女性政治家の能力や資質に疑ってかかれるようになったのは、安倍政権時代の学習効果なのだろう。
(ダイヤモンド・オンライン『野田聖子「総裁は私以外の誰かだろうと思う」早々の白旗でも彼女に期待する理由』 2021年9月26日)
現代の働く女性たちは、女性政治家の登用や活躍に対して複雑な感情を抱いている。過去の女性閣僚登用を見守ってきた結果、形だけの女性活躍への警戒感すら生まれている。特に子育てと仕事を両立しながらキャリアを築く女性たちにとって、自分たちが表面的な「女性活躍」の象徴として扱われることへの違和感は経験的にも大きいのだ。
■働く女性が求める政治家像
女が働いているのは、(自分もそうだし)当たり前、したがって、女性政治家を見る時のおじさんたちのように「女の人だ」という表層的な属性だけでは政治家を評価しない。
プロフェッショナルとしてポジションや決裁権も持ち、自分の稼ぎから納税している、いまや多くの働く女性たちが求めているのは、表面的な話題性よりも具体的な政策提案や過去の実績。体感できる実質的な政策の変化をもたらし、自分たちの現実に即した問題解決能力を持つ政治家だ。
これは決して女性政治家全般への否定的評価ではなく、より現実的かつ厳しい目で「本当に仕事ができる政治家か?」と政治家を評価するようになったということ。政治における女性の活躍についてこれまでよりも高い基準を持っているのだ。
■女たちの“見る目”は変わっている
この変化は、日本の政治における女性人材の層の薄さという課題を浮き彫りにする一方で、質の高い女性政治家の登場への期待も高めている。働く女性たちの政治意識は、より成熟した段階に入っていると言えるだろう。女たちの「見る目」が変わっていることに、自民党のおじさんたちは理屈じゃなく、どれだけ体感的に気づけているのか。
政界は特殊な「政治オタク」たちの狭い狭い閉鎖空間。そこにいる女性たちは、競争に勝てている人ほど「これまでの(頑固な男性社会たる)日本の政治に醸成されてきた特殊な感覚」と戦いながらも染まっていった特殊な価値観の女たちであり、世間の有権者の感覚からは大いに乖離(かいり)している。
「同じ女でありながらタカ派で夫婦別姓議論を鼻で笑う」イメージの高市早苗氏に対しては、まさにこの「同じ女でありながら」の部分が一層の裏切りに思えるほどの失望と嫌悪感を生んでいるのだ。
政界の女性観は、シンプルにおかしい。
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河崎 環(かわさき・たまき)
コラムニスト
1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。
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(コラムニスト 河崎 環)
女たちの『政治を見る目』が変わっていることに、自民党はどれだけ気づけているのか」という――。
■勝ったのは「動画メディア」
7月参院選、与党大敗。勝ったのは何だったか。それは右寄りだ左寄りだの政治スタンスでもなければどこかの党でもない、YouTubeをはじめとする動画メディアだった。文字ベースのマスコミでもなければ、XなどのSNSですらなかった。
文字ベースのメディアなら、ユーザから反論コメントや反論投稿が生まれる。だが動画に対する「反論動画」を、一般のユーザがリスクやコストを負ってまで作成して投稿することは稀だ。
確信的に動画戦略を貫く相手との歴然としたスキル差。正誤ではなく「みんなが群がって見ていること」を最善と評価するアルゴリズムが情報の雨を降らす時代だ。動画の発信側が一方的かつ圧倒的に有利な時代に選挙というアナログなシステムが全くついていけなかった結果が、自民、公明両党の大敗、衆参ともに少数与党という前代未聞の事態である。
あの日、私たちが参加したのは、自分たちの利益を代表してくれる政治家を選び出す選挙だったのか、それとも動画プラットフォームを戦場とするインフルエンサーたちの人気投票だったのか。
■指摘しても憂えても届かない
参院選の間、文字ベースのSNSでは、「特定の党がドライブする論調に自分の知人が取られていく」とたくさんの人が悲しみ、胸を痛めていた。
知識や哲学や思いのある人たちは統計を示して「ファクトチェックが大切だ」と警鐘を鳴らした。
だがそれは、いわば「動画」という別の大陸に向かって「文字と電波」という大陸から“別の言語で”叫ぶ声のようなもので、一向に届くわけがなかった。動画に熱心に付け込まれ、YouTubeやTikTokが世界のすべてになってしまった人たちに向かって、冷静な人たちが文字のSNSや新聞雑誌やウェブ記事や地上波テレビのニュースや情報番組で「それは間違っている」と指摘したり「そんなのばっかり見ててリテラシーは大丈夫か」と憂えてみたりしたところで、当人たちには読まれもしなきゃ、見てももらえないのである。
彼らはそもそも文字媒体や地上波テレビを「つまらない」「信じない」と拒否し、情報摂取の方法としておすすめ自動再生のネット動画を漫然と見る日常に賛成したのだから。
■石破首相の続投意思
さて、与党大敗。選挙で負けた総裁のすげ替え、新総裁待望論が持ちあがるのは通例通りだ。だが当の石破首相は、党内で高まる石破有責論に対して「あのような結果を招いたことに対して、心からおわびを申し上げる」と述べながらも、日米関税交渉合意、農業政策、防災分野での実績に触れ「引き続き、この日本国に責任をもってまいります」と続投の意思を堅持している。
それを「権力にすがるのか」と非難する向きも大いにあるようだけれど、自分の采配下で組織に損害が起こった時、トップの責任の取り方は辞任以外にもある。できていないことが多々あり地味さに失望があるのは承知だが、選挙戦法の変化に負けた今回こそまさにそれ(辞任以外の責任の果たし方)が適用されるべきケースである、という確信が、石破首相の据わった三白眼から滲み出ている。
■「石破では勝てない」のではない
参院選後、落選した自民議員たちから上がった怨嗟の中に「石破さんのせい」と断じる声はひときわ大きかった。勢いをつけた野党は少数与党国会での内閣不信任決議案提出を取り沙汰し(立民は秋へ見送り)、内外の風当たりは石破首相に厳しい。しかも石破首相が全幅の信頼を以て共に政権を歩んできた森山幹事長が「参院選の総括終了後に幹事長を辞任する」との意向発表は大打撃。
詰んでいるとしか見えないこの状況で、なぜ頑なに続投の意思を握りしめるのかと首を傾げる人もいる。
政界では「石破のせい」「石破では勝てない」で、石破おろし一色。だが不思議なことに、世論は「(地味なのは認めるけれど)石破さんにそんなに恨みがあるわけじゃない」のだ。
朝日新聞社が7月に実施した世論調査で自民大敗の要因を問われ、「首相個人に問題がある」とした人は10%。一方で「自民全体に問題がある」は81%だった。自民は「石破のせい」にしている自分たちの姿がそもそもオワコンなのに、その現実と目を合わせていない、とも言える。
「石破では勝てない」んじゃない、「あなたがもう勝てないのだ」と。
■「#石破さん辞めないで」の真意
石破おろしの風が荒れた参院選直後、Xでは特に女性ユーザの間で「石破さん辞めないで」とするハッシュタグが生まれていた。
ところがその真意は、積極的な石破首相支持というよりも、その後釜に自民が担ぎ上げようと動いていた“高市早苗首相”の誕生を嫌がるものだったことに留意したい。
自民はどこまでしっかりと感知しているのか疑問だが、都会、特に東京に住んで仕事を持つ女性たちに、高市早苗氏はすこぶる評判が悪い。というよりも根本は自民支持でありながら「高市さんだけは本当にいやだ」というレベルで嫌悪感を示す人も少なくない。
それはなぜか。
「成功する女に対する女同士の嫉妬だろ」などと頭から決め込んでこの女性有権者心理を軽んじているおじさん政治家は、現代の女を全く知らない、理解できていない。見当違いもいいところ、それが「あなたがもう勝てない」理由である。
■「それは高市さんじゃない」
遡って2021年、菅義偉元首相の任期満了を目の前にした自民党総裁選で、岸田文雄氏、河野太郎氏、高市早苗氏、野田聖子氏が立候補したとき、私は2人の女性政治家が自民党総裁を争う戦いに参加する歴史的状況を感慨深く受け止めつつ、このようなコラムを書いた。
細田派陣営から「日本の記念すべき100代目の総理大臣に初の女性総理を」とのフレーズが出た時、私は「いや、それは高市さんじゃない」と強く思った。明確に反発心と呼んでいい感情だった。「女だったら誰でも喜ぶと思うなよ?」。初の女性総理、という祭りのハリボテが欲しいんじゃないのだ。事実、子育てもしながら働き続けるキャリア女性の中には「高市早苗が“全女性の代表”の顔をするのはイヤだ」との声もある。
安倍政権は、女性活躍の名の下にそういう「コレジャナイ」女性登用を続けては、女性の有権者を執拗にがっかりさせ続けてきた。なんかもう嫌がらせなんじゃないか、いやきっと嫌がらせだ、絶対それが目的だ、と思うほどに。その真骨頂が第3次安倍第2次改造内閣での稲田朋美の防衛大臣登用と失言引責辞任だ。「女性」×「防衛」という絵面を提供してくれるメガネっ娘で網タイツの「ともみたん」に年配のネット右傾ピープル(おじさんとかおじいちゃんたち)が沸きに沸く傍で、同じ女性有権者は「これが安倍政権のいう女性活躍なのか?」と首を捻っていた。
女性防衛大臣という名前と姿に満足しているのは男性ばかり。大奥みたいな寵愛型の女性登用、つまり「年長の男性が、自分が見たい女を自分の裁量で引き上げてやっている」風景しか見えず、女性の共感はまるで置いてきぼりで、当の女性たちには活躍して輝ける未来なんて見えなかった。むしろ「なんだ、やっぱり結局それなのか」と失望しかなかったのだ。
稲田朋美や高市早苗は、そういう登用を受けてきた、当時アベガールズと言われた人たち。「ほら、女の人ですよ。どうです、新しいでしょう」「うわーすごい、女の人だー」。「目新しい形」をした政治家に、何か知らんが中身のない期待をさせられては失望するのは、安倍政権時代で十分やった。政治家としての価値の筆頭にまず「女であること」が出てくる女性政治家の能力や資質に疑ってかかれるようになったのは、安倍政権時代の学習効果なのだろう。
(ダイヤモンド・オンライン『野田聖子「総裁は私以外の誰かだろうと思う」早々の白旗でも彼女に期待する理由』 2021年9月26日)
現代の働く女性たちは、女性政治家の登用や活躍に対して複雑な感情を抱いている。過去の女性閣僚登用を見守ってきた結果、形だけの女性活躍への警戒感すら生まれている。特に子育てと仕事を両立しながらキャリアを築く女性たちにとって、自分たちが表面的な「女性活躍」の象徴として扱われることへの違和感は経験的にも大きいのだ。
■働く女性が求める政治家像
女が働いているのは、(自分もそうだし)当たり前、したがって、女性政治家を見る時のおじさんたちのように「女の人だ」という表層的な属性だけでは政治家を評価しない。
単に女性だからと政治家を好意的に見たりせず、その政策内容や政治姿勢を重視するし、キャリアのある職業人としてそれを吟味する経験知識がある。
プロフェッショナルとしてポジションや決裁権も持ち、自分の稼ぎから納税している、いまや多くの働く女性たちが求めているのは、表面的な話題性よりも具体的な政策提案や過去の実績。体感できる実質的な政策の変化をもたらし、自分たちの現実に即した問題解決能力を持つ政治家だ。
これは決して女性政治家全般への否定的評価ではなく、より現実的かつ厳しい目で「本当に仕事ができる政治家か?」と政治家を評価するようになったということ。政治における女性の活躍についてこれまでよりも高い基準を持っているのだ。
■女たちの“見る目”は変わっている
この変化は、日本の政治における女性人材の層の薄さという課題を浮き彫りにする一方で、質の高い女性政治家の登場への期待も高めている。働く女性たちの政治意識は、より成熟した段階に入っていると言えるだろう。女たちの「見る目」が変わっていることに、自民党のおじさんたちは理屈じゃなく、どれだけ体感的に気づけているのか。
政界は特殊な「政治オタク」たちの狭い狭い閉鎖空間。そこにいる女性たちは、競争に勝てている人ほど「これまでの(頑固な男性社会たる)日本の政治に醸成されてきた特殊な感覚」と戦いながらも染まっていった特殊な価値観の女たちであり、世間の有権者の感覚からは大いに乖離(かいり)している。
「同じ女でありながらタカ派で夫婦別姓議論を鼻で笑う」イメージの高市早苗氏に対しては、まさにこの「同じ女でありながら」の部分が一層の裏切りに思えるほどの失望と嫌悪感を生んでいるのだ。
政界の女性観は、シンプルにおかしい。
それを理解しているかどうかが、自民(いや、政治家個人としてのあなたもだ)が今後「もう勝てない」か「まだ勝てる」かを分ける条件でもある、と断言しておく。
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河崎 環(かわさき・たまき)
コラムニスト
1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。
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(コラムニスト 河崎 環)
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