近年、エンタメ業界で性加害が相次ぐのは日本だけではない。フランスでも、有名な男性の俳優や監督が性的暴行などで有罪判決を受けている。
ジャーナリストの池田和加さんは「50年以上前に著名なベルナルド・ベルトルッチ監督がてがけた『ラストタンゴ・イン・パリ』(1972年公開)の強引な撮影手法の影響でヒロインに起用された女優がその後、心身に支障をきたした件に関する告発・検証映画が注目されている」という――。
■「監督と主役男優にレイプされたような気分」
「屈辱を感じたし、正直に言うと、マーロンとベルトルッチの両方にレイプされたような気分だった」
これは、パリ出身の女優マリア・シュナイダーが2007年に英紙「デイリー・メール」に語った言葉だ。イタリア人のベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストタンゴ・イン・パリ』(1972年公開、以下『ラストタンゴ』)で、撮影当時19歳だったマリアは事前の同意なしに屈辱的なセックスシーンを強要された。
それから50年以上経った2025年、フランス映画界は#MeToo運動の大きな波に直面し、彼女の存在が大きくクローズアップされている。
フランスの映画界では近年、監督や俳優による性的暴行などの訴えが相次ぎ、業界の体質に批判が向けられている。今年2月、クリストフ・ルッジャ監督(60)は女優アデル・エネルへの性的暴行で有罪判決を受けた(同監督は現在服役中)。5月には女性2人に性的暴行を加えた罪に問われたジェラール・ドパルデュー被告(76)も執行猶予がついた禁錮1年6カ月の有罪判決を言い渡された。
こうした現在進行形の#MeToo運動がフランス映画界を直撃している中、9月5日に日本で公開される映画『タンゴの後で』は、50年以上前に公開された『ラストタンゴ』の撮影手法をめぐる問題を鋭く検証している(カンヌ国際映画祭にも正式出品)。
■19歳の少女を“餌食”にした「芸術」という名の暴力
『タンゴの後で』のストーリーは単純だ。19歳のマリアが、映画『暗殺の森』で国際的な評価を得た当時新進気鋭の監督ベルトルッチと出会う。無名の彼女を『ラストタンゴ』の主役に抜擢し、相手役はマーロン・ブランド。マリアは誰もが羨む大役を幸運にも射止めたのだった。

しかし、この「幸運」が彼女の人生を破壊することになる。
フランスの映画監督、脚本家であるジェシカ・パルー監督は、『ラストタンゴ』の撮影現場で実際に使用され、スクリプト・スーパーバイザーが書き込みを施したオリジナル脚本を入手した。そして驚愕の事実を発見する。
『タンゴの後で』公開を前にしたインタビューでパルー監督は筆者にこう述べた。
「あのシーンは、脚本には存在しませんでした。脚本上では、あのシークエンス(エピソード)は『暴力的な仕草』で終わるはずだったのです」
『ラストタンゴ』が公開されるやいなや大きな問題となった「バター・シーン」。これはマーロン・ブランドがバターを使って性交を行うシーンを指し、撮影当日に即興で追加されたものだった。驚くことにマリアは何も知らされていなかったという。
『タンゴの後で』はそのバター・シーンを事実に基づいて再現している。その時、撮影現場には複数の「眼差し」が交錯していた。
カメラのレンズが冷徹に見つめる。48歳の男優の支配的な視線が19歳の少女を捉える。
そして周囲のスタッフたちの沈黙する眼差しが、暴力を黙認している。誰も「カット」と言わないし、誰もカメラを止めない。床に押し倒され、下着を脱がされたマリアを取り囲む、すべてが暴力を肯定する視線だった。権力を持つ者たちの視線に晒され、彼女は完全に無力だった。事前の同意もないまま、彼女の身体は無数の眼差しに消費されていく――。
マリアの目から流れる涙は、「演技」ではないことを証明していたが、それすらも「芸術的な瞬間」として切り取られていたのだ。彼女の苦痛は、男たちの視線によって「美しい映像」に変換されてしまったのだ。
このシーンについて、マリア自身が2007年のインタビューで生々しく証言している。
「あのシーンは脚本になかった。本当はマーロンのアイデアだった。撮影直前に初めて説明され、とても腹が立った。もし知っていればエージェントや弁護士を呼んでいたはず。
マーロンは『気にするな、映画なんだから』と言ったけれど、実際のシーンで涙は本物だった。正直に言えば、マーロンとベルトルッチの両方にレイプされたような気分だった。撮影後、マーロンは私を慰めることも謝ることもなかった。幸いワンテイクだけだった」(デイリー・メール)
2013年に開催されたパリ市内の映画博物館内でベルトルッチ監督は、「マリアにはひどいことをしたが、私はマリアの本物の屈辱がほしかった」と語っており、マリアが声を大にして告発した性的暴行を半ば認めた形だ。
■レイプ神話てんこ盛りの「名作」への違和感
そもそも『ラストタンゴ』のストーリー設定自体が、現代の価値観で見ると不自然なものだ。19歳の若い女性が、アパートで偶然出会った正体不明の中年男性に突然性行為を迫られ、最初は抵抗するものの、やがて彼に惹かれていく――。これは典型的な「女性は暴力的な男性に本能的に魅力を感じる」「女性は嫌がっていても次第にセックスの虜になる」という偏見に満ちたストーリーだ。
1970年代当時、伝統的な結婚観や女性の性のあり方に一石を投じた斬新な映画と高く評価する人もいたが、現代の視点で見れば、これほど不可解で時代遅れな映画はない。
■一度のレイプシーンが奪った女優人生
マリアが受けた被害は計り知れない。映画の成功とは裏腹に、彼女の心は破壊された。
「人々は映画の役柄のままの私だと思った。でも実際は全然違う。
セックスシンボルのように扱われて、とても悲しかった。本当は女優として認められたかったのに、映画のスキャンダルとその後の反響で精神的におかしくなり、心が壊れた」(前出の2007年デイリー・メール)
その後、マリアはオファーされる役のほとんどで裸体を要求され、拒否すれば「扱いにくい女優」のレッテルを貼られた。そして、1970年代後半からヘロイン中毒に陥ってしまった。
「後になって、私はベルトルッチとマーロンに完全に操作されていたことに気付いた」(同上)
マリアの回顧は、映画業界の権力構造の暴力性を如実に物語っている。
しかも、学者・専門家によるニュースメディア「ザ・コンバーセーション(The Conversation)」によると、アメリカ国内の興行収入だけでも3600万ドル(1972年当時の為替レートである1ドル=303円に換算で約110億円)の興行収入があったこの作品から、マーロン・ブランドは300万ドル(約9億円)、ベルナルド・ベルトルッチは不明だがおそらく同程度のギャラを得たと報じられている。一方で、新人のマリアは4000ドル(約121万円)の賃金を手にしただけだったという。計算すると約750分の1(0.134%)という額だ。
■なぜ男は女へのレイプを「芸術」と呼びたがるのか
これまで国内外のさまざまな映画や小説の中で、必要もないレイプシーンが盛り込まれることは少なくない。なぜ男性の監督や俳優といったクリエイター・アーティストの中には、女性に対する性暴力を「芸術的表現」として美化する者がいるのか。
パルー監督にこの質問を投げかけると、次のような回答が返って来た。
「フランス映画業界では、暴力的なアーティストに対する崇拝的な賞賛や、常識に反する(レイプシーンのような)行動に対する、ある種の敬意が存在しています」
これこそが核心なのだろう。「天才」の暴力は「芸術」として正当化され、被害者の声は「芸術への冒瀆」として封殺される。
ベルトルッチは「偶然性」「即興性」「生の感情」といった美辞麗句で自分の行為を正当化した。しかし、それは19歳の少女としてみれば単に性暴力を受けたことにほかならなかった。
■世代間で分かれる受け止め方
この問題は、世代間の価値観の違いも表している。フランス名優ブリジット・バルドーが先日、フランスのニュース専門局「BFMTV」のインタビューで注目すべき発言をしていた。ドパルデュー擁護派の彼女は、フェミニズムについて「私の趣味に合っていない。私は男性が好き」と一蹴。現代映画については「醜いし、夢を見させるものでない」と断罪した。
この姿勢は、#MeToo運動の初期にカトリーヌ・ドヌーヴらが取った反応を思い起こさせる。2018年、ドヌーヴは「男性が女性を口説く自由を奪うな」という趣旨の公開書簡に署名し、大きな議論を呼んだ。
一方で、若い世代のフランスの女優は、こうした「古い価値観」に真っ向から異議を唱えている。これは単純な世代論ではなく、社会の根本的な価値観の転換点を物語っている。
■50年前の告発が現代に響く理由
マリアは「虐待を告発した最初の女優の一人」だった。
1970年代から彼女は一貫して映画業界の女性差別を告発していた。
「1970年代に発せられた彼女の言葉が、2024年の今、とても現代的な響きを持っていると感じました」とパルー監督は語る。
彼女の言葉は現在のMeToo運動の先駆けだった。その後、2017年に起きた有名なハリウッドの元大物プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタイン事件にいたるまでの有罪判決をみれば、「構造」は何も変わっていないことに気づかされる。権力者が若者を食い物にし、「業界のため」「芸術のため」という大義名分で被害者を黙らせる。
この構造は日本映画界でも同様だ。最近では榊英雄監督、園子温監督、木下ほうか氏、ジャニー喜多川氏、中居正広氏による“性加害”など、「立場」を悪用したトラブルが相次いで発覚したのはご存じの通り。「断ればキャリアを失う」という業界特有の圧力構造は、50年前のマリアの時代から世界でも日本でも本質的に変わっていない。
■ようやく届く「ノー」の声
マリアは2011年に58歳で亡くなった。最後まで『ラストタンゴ』の影に苦しめられた人生だった。しかし今、彼女の声がようやく届き始めている。
パルー監督は筆者にこう述べた。
「この映画を撮ることで、私はマリアと深くつながることができたと感じています。私は願っています。ようやく、彼女の声が届くことを。ようやく、彼女が『聞いてもらえる』ことを」
『タンゴの後で』は単なる過去の告発映画ではなく、現在進行形の映画界への警告だ。マリアの「ノー」が50年を経てようやく聞こえてきた今、芸術の美名のもとに誰かの尊厳を踏みにじる過ちを繰り返してはならないはずだ。

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池田 和加(いけだ・わか)

ジャーナリスト

社会・文化を取材し、日本語と英語で発信するジャーナリスト。ライアン・ゴズリングやヒュー・ジャックマンなどのハリウッドスターから、宇宙飛行士や芥川賞作家まで様々なジャンルの人々へのインタビューも手掛ける。

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(ジャーナリスト 池田 和加)
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