※本稿は、永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■式典直前にタイを結び…
2012年11月11日午前9時前。バンコク市内の西部にある四輪車および二輪車の販売店「スズキ ラマII」。67年からスズキの二輪販売代理店を務めてきたバンスズキが建設した新店舗である。この年の3月から営業を始めているが、この日は鈴木修を招いてオープニングセレモニーが開かれた。
鈴木修は、マイクロバスに乗ってスズキの幹部たちと一緒にやってきた。ドアが開き、真っ先に降り立つ。好みの色である黒の上下に、ホワイトのワイシャツはクールビズである。
バンスズキのブンロート・ラパロキット会長、その子息であるマヌーサク・ラパロキット社長らが出迎える。通訳を介し何か面白いことを言ったのだろう、鈴木修を中心に笑いが輪になって弾けた。
タイ人関係者たちの挨拶に応じていたが、日本人スタッフに何かを持ってくるよう指示をした。ネクタイである。
■現場に入ると「大魔神」に変身
ちなみに、1章に記したように鈴木修は新幹線のグリーン車内でも平気で着替える。ネクタイを外し堂々とワイシャツを脱いだ。上品そうなご婦人が横目遣いに通り過ぎ、こちらが心配になるくらいだったが、何となく許されてしまう不思議なキャラクターである。
さぁ、いよいよ式が始まる。鈴木修はマイクの前に立つ。
「ブンロートさんのファミリーとはオートバイのディーラーをしていただき、もう45年のお付き合い」「3月から販売を始めた四輪は月平均で40台を販売していただき、バックオーダーを700台も抱える好成績を上げていらっしゃる」
「車の問題や情報は、直接メーカーにお知らせを。どうか一つ、これからもスズキの一翼を担っていただきたい……」
バンスズキ側からも挨拶があり、記念品をやり取りし、地元の民族舞踊に合わせた太鼓演奏があって、駐車場のセレモニーはお開きとなる。
建屋面積が約1100平方メートルのショールームに入っていき、同社の女性スタッフ一人ひとりと握手を交わす。
ここまでならば、他の経営者とそう変わらないだろう。
■笑わない眼
まず、眼光が鋭くなる。ジョークは消え、記者団のカメラの放列などへの意識も消えていく。現場に集中し、細部にまでとことん注意を払うのだ。こうなるともう、質問など投げかけられる雰囲気ではなくなってしまう。気持ちが入り込んでいて、眼は決して笑わない。
この笑わない眼が、世界中のスズキで働く5万4484人の社員(2012年)、さらにはサプライヤーや販売会社などを合わせれば10万人以上を支えているように、筆者には思えてならない。
ショールームに展示されたタイ工場製のスイフトの前で歩みを止めると、静かに後部ドアを開ける。音や塗装の仕上がり具合を観察しているようだったが、さらに店舗の奥のバックヤードへと入った。
倉庫で作業していた中年の女性は、総帥の突然の出現に驚いた様子を隠さない。だが、鈴木修はお構いなしに指摘していく。
「ここに棚を置きなさい。ただし、窓から(整備)工場が見渡せるように、目の位置にはモノを置かないように」「小さなスペースでも、有効に使いなさい」「おい、ハンカチ落としたぞ!」……。
修理工場をチェックした後は、再び屋外へ。既に日は高くなり、気温は30度近くに上昇。何より湿度が70%を超え、ひたすら蒸し暑い。敷地の端までくると、隣接地は葦が茂る湿原だった。
■好物の一つはドリアン
マヌーサク社長が「実は将来、ボディーペイントの施設をここに建てようと考えています。タイでは、車をペイントするのが流行ってますから」と打ち明ける。鈴木修は「ならばここに木を植えなさい。そうすると土が増える。(二輪工場の)タイスズキもそうしたから」と、間髪を入れずに助言する。引き出しがすぐに開く、そのスピードは82歳には思えない。
記念植樹、ユーザーへの納車式、記念撮影などを矢継ぎ早にこなし、休憩時には好物のドリアンを頬張ってようやく一息入れる。
ショールームで説明員をする若い女性スタッフが、鈴木修について言う。
「きさくで優しそうです。えっ、82歳⁉ 60代に見えます」
この後も会見があり、バンスズキ関係者との記念撮影があり、スタッフに見送られてマイクロバスに乗り込み、次の目的地へと移動していった。鈴木修が去ると、祭りの御輿が下ろされた後のような静けさが、ショールームに訪れた。Sホテルに帰還したのは夕方になってからだった。
■「タイ進出の遅れは、失敗ランク10位」
さて、筆者が鈴木修に同行して海外の現場を回るのは、07年2月に訪れたインドに次いで、タイは2回目だ。前述したが、インドでは鬼のように厳しかった。
インドと比べると、タイの販売現場では優しい接し方である。鈴木修は「マヌーサク社長をはじめ、優秀で高学歴者が多いんだ」などと打ち明ける。シェア1位のインドと、最後発でこれからのタイとでは、接し方を敢えて変えているようにも見える。教師が出来のいい生徒と、そうでもない生徒とで、指導法を変えているように。
夜半、Sホテルの本館から別館に通じる長い廊下を渡り、記者団との会見と食事会に臨む。
鈴木修は50代でタバコをやめたのに続き、80歳になった前後に酒をやめている。「焼酎カクテル」も「スーパードライ」も飲まなくなる。アルコールが入ると、饒舌になるタイプだったのに。それでも食事会になると、タイのシンハービールを少しだけ飲んでいた。シンハーは、水代わりのような軽いテイストだからなのかもしれない。
「離婚の裁判中に次の相手と仲良くするのは、人間的に許されんだろう。男性も女性もな。もちろん、企業も同じだ」。VWとの裁判に触れながら、「タイ進出の遅れは、私の失敗ランクでは10位。これからもっと大きな失敗をするかもしれない」と、自身の経営的な失敗について語り始めた。
■あまり話さない「人材論」
代表的な失敗にはスペインからの撤退がある。もちろん、“離婚係争中”だったVWとの提携も失敗。北米の四輪事業からも撤退した。中国の四輪からもやがて撤退を決めていく(2018年)。
「いろいろな失敗をしたから、例えばインドは成功したのだろう。集中できたから」
ちなみに、タイ工場も進出から10年以上が経過した2024年6月、翌25年末までの撤退を決めることになる。
「思うようにいくってことは、何もないねぇ。まぁ、それが人生と言えば、そうでしょうけどね」
経営判断で一番大切にしていることは、と問われて「自分で考えることだね」との答え。「限られた時間で情報を入手し、自分で考えて自分で判断するしかないんだ。責任はすべて経営者の自分が負う」
さらに人材論に話は及ぶ。
「ツキのない奴は、ダメだ。麻雀と一緒。追いかければ追いかけるほど、ツキは逃げていく」「グローバル化が進む中では、明るい性格の奴が求められる。明るくアッケラカンとしてる奴が、海外で活躍でき、やがてはツキを生む。理屈ばかりで暗い性格ではダメ」
鈴木修はよく、「ツキ」や「運」について語る。インドでの成功は「人に恵まれたから。向こうも俺に魅力を感じていた。巡り合えたのは運だった」。
■もし経営者になっていなかったら
理屈よりも性格や意欲など人間的な部分を重視する鈴木修は「(レスリングの)吉田沙保里はいい。彼女のような闘志を、日本の若者は持って欲しい」と話す。
「日本の中で一番優秀なのは官僚だ。彼らの頭脳を使い、例えば3つの答えを用意させる。その中から、政治家は一つを選べばいい。選んで実行するのが政治なんだ。なのに、政治家は自分たちで3つの答えを出そうとしているから、間違っとる。優秀な官僚を使えていない」
また、「本を読んで勉強するのは、東大生には敵わない」と話す一方で、「たった一回の入学試験では、人間の価値は判断できない」とも。
筆者が「もし経営者になっていなかったら、政治家になったのでは」と問うと、「百姓でもやっとったよ」と返ってきた。
鈴木修の政治好きは有名。田中角栄や山中貞則といった、超大物と接してきたせいかもしれない。東京支店長などを務めた彌吉正文元常務役員は言う。
「修さんは、共産党を除く、すべての政治家と話し合えた。公明党を含めてね。ただし、親が残した地盤で当選した二世や三世の、なにもしない議員たちを、すごく批判していた。実行力で政治家を評価していました」
国政選挙ばかりでなく、静岡知事選などの地方選挙でも、応援活動をすることもあった。「地方選などは、どうなろうとスズキの経営には何の影響もない。選挙(応援)は修会長の趣味でしょう」と笑うスズキ幹部もいた。
この夜は、話が弾んだ。
「金はやっぱり生きているうちに、使うものだ。バーに行ってパァーッと使うのが一番だろう。パァーッとな。テーブルにポンと金を積めば、みんなが使ってくれる。使い道を指示するほど、俺はうるさくはない」。相続税を取られたり、高額の戒名で坊主を儲けさせるくらいなら、財産を使ってしまおうと企んでいた。
■「もう変なことは書かないでね」
ただし、「財産は3000万円だけ残しておく」。体が動かなくなった場合、「女房や子供たちの世話にはならない」と決めていたから。それなりの有料老人ホームは月50万円かかる。年金や保険で月30万円入るため、月に20万円あれば入れる計算だ。年間ならば240万円。10年なら2400万円。少し余裕を見て3000万円と弾いていた。
「『おい、鈴木君、若いねえ』と日野原先生に言われる」。人間ドックはいつも聖路加国際病院を利用していた。日野原重明理事長(当時)が診てくれ、最後に「人間は120歳まで生きられる。だけど鈴木君、君はお腹をへこまさないと120歳は無理だ。じゃあお元気で」と去っていくそうだ。お腹がへっこまないのは「食べるから」。訪問先では食事を出される上、「女房が作るケーキも、食わなければならんだろう」。
「僕は自分の体にメスを入れるのを禁じている。肉体を傷つけることを禁じているんだ」。胃瘻をはじめ、延命処置を拒否していると、打ち明けた。
「夢はPPK(ピンピンコロリ)だ」とも。PPKは元気に長生きし、病まずにコロリと死のう、という意味。「後期高齢者の保険料はいくらでも払うから、自分はもうPPK。それだけだよ」。この発言に対し、「本人はPPKでいいでしょうが、会社はどうなるのですか」と筆者は水を向けた。現実にこの時点で、後継社長すら明確になってはいなかった。
だが、鈴木修は「いやいや、そんなのは何とかなるよ。ケェ、セラ、セラだ」と笑う。すると「いま死なれたら困ります」という悲痛な声がスズキ関係者から上がった。鈴木修は、これに応えて一言。
「そのときには、戻ってくるわ」
ユーモアたっぷりだったが、お開きとなったとき筆者は言われた。「もう変なことは書かないでね、プレジデントに」と。笑いながらだったが、その眼は笑ってはいなかった。
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永井 隆(ながい・たかし)
ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社/新潮文庫)、『日本のビールは世界一うまい!』(筑摩書房)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『EVウォーズ』『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。
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(ジャーナリスト 永井 隆)