※本稿は、村上伸治『発達障害も愛着障害もこじらせない もつれをほどくアプローチ』(日本評論社)の一部を再編集したものです。
■子どもの精神科は半年待ち
今、子どもを精神科で診てもらおうとすると、半年以上も待たないと診てもらえないことが多いです。これは都市も地方も関係なく、全国的な傾向です。診てもらうのに半年も待つなんて、信じられないと思うのが当たり前だと思います。困ったことですが、これが子どもの精神科の現状です。新しい患者さんの受け入れを止めているクリニックもしばしばあります。その理由は、精神科で診てもらった方が良い子どもがどんどん増えている一方、対応する児童精神科医はわずかずつしか増えていないからです。
精神科外来で子どもを診ていると、子ども自身の苦しさがわかる一方、親御さんの必死な思いも伝わってきます。みんな子どものために必死です。「不登校を治してほしい」「手首を切るのをやめさせたい」「勉強を頑張ってほしい」「ストレスに負けない強い子になってほしい」など、親は誰でも子どもの幸せを強く願っています。
■親は我が子を心配して必死だが…
ただ、子どもには子ども側の事情といきさつがあります。たとえば、親の期待に応えようとして頑張りすぎ、その結果の疲労として不登校になっている子どもは少なくありません。そういう子は、失ったエネルギーが充電されるまで休むだけでなく、親の期待に添うのを拒否したり、大人たちが敷いた高速道路から降りて裏路地で休む必要があるでしょう。そのような事情には親は気づかないですし、子ども自身も気づいていなかったりします。不登校の状態は、その子が親など周囲が望むような道ではなく、その子らしさを取り戻しながら元気になる過程として、必要なまわり道である可能性があります。だがそれにも、親も本人も気づいていないことが多いのです。
■「人間の手にうつるとすべてが悪くなる」
親や教師などの大人たちは子どもの表面的な行動を見て、それを何とか正そうとして躍起になります。不登校の子を無理やり学校へ行かせようとしたり、自傷行為をする子を強く叱ったりします。ですが、それがしばしば事態を悪化させてしまいます。ヒモがもつれて団子の状態になっていたら、必要なのはヒモのもつれを粘り強くほどく作業です。ですが実際には、それを忘れて早急な解決を求めてしまい、ヒモをぐいっと強く引っ張ってしまいやすいです。
■「昔から自分が嫌いだった」やせ症の女子高生
ある思春期やせ症(拒食症)の女子高校生は、体重が30kgを切った状態なのに、体重を増やすことができませんでした。やせることで仮りそめの自信を得ていたからです。自己肯定感について尋ねると、「昔から自分が嫌いだった」と言います。なので、それはいつからなのかを話し合いました。彼女は小さい頃から「お利口さん」で手のかからない子でした。親が叱ったことは数えるほどしかなく、親が叱る前に本人が行動を正すので、叱る必要がなかったそうです。ただ、「いつか怒られないか心配していなかった?」「親や教師が機嫌を損ねないか、気を遣っていなかった?」などを尋ねて話し合う中で、思い出したことがあると言って、次のような話をしてくれました。
小学生の頃のピアノの発表会での話です。自分の番となり、小さなミスはあったものの、何とか演奏を終えました。
自分の発表が終わったので、他の子の発表を見ていたところ、一人の子は、演奏途中で大きな間違いをして、演奏が止まってしまいました。その子はパニックになってしまったようでした。しばらくの沈黙が流れたあと、演奏を再開しました。最終的に何とか演奏を終えたものの、終了と同時にその子は泣きだしてしまいました。
■自分自身は愛されていないかもしれない
それを見た時、もし自分があの子のような失敗をしたら、どうなっただろうか、と心配になりました。そして、自分が褒めてもらえているのは、勉強でもピアノでも、そこそこの結果を出しているからであり、もしうまくできなくなったら、自分はダメな子と思われるのではないか、と思ったそうです。そう思ったらゾッとしたのですが、それ以上考えるのは怖いので、以後そのことは考えないようにしました。それまでもそれなりにやってきていましたが、以後はこれまで以上に、決して怒られないようにと思ってやってきたように思う、と話してくれました。
「それは大変な思いをしたのだね。人生が変わるくらいの大きな出来事だったのではないかと思うよ。無理の人生がそこから始まったのかもしれないよね。
■「愛している」を伝える行動
診察室に母親にも入ってもらい、先ほどの話を説明しました。「えっ、そんなことを心配していたんですか?」と母親はびっくりした様子でした。
私:お母さん、娘さんを愛しておられますよね?
母親:はい。もちろんです。
私:本人が出すよい結果だけを愛しているわけではありませんよね?
母親:はい、そうです。
私:だけど不幸にも、ふとしたきっかけで、娘さんは誤解をしてしまったんです。誤解を解く必要があります。
母親:はい、わかりました。
私:褒めることは大切ですが、成果を出した時だけ褒めると、自分自身は愛されていないのではないかと本人は不安になります。なので、成果を出せなかった時、失敗した時こそ、しっかり愛してあげてほしいです。
母親:愛しているって言えばいいですか?
私:それもありですが、何だか照れくさいですよね。失敗した時こそ、抱きしめてあげてください。何か言ってもいいし、言わなくていいです。
母親:わかりました。それならできます。失敗しても頑張ったんですから。
私:頑張った時も褒めてあげてほしいですが、頑張った時だけ褒めると、頑張れなかったら褒めてもらえないことになります。なので、頑張れなかったとしても、褒めてあげてほしいです。
母親:頑張れない時も?
私:そうです。
母親:わかりました。
このあと、事態は少しずつ動きだしました。頑張って食べることができなくて本人が泣きだした時、母親は思わず抱きしめました。それまでは「なぜ食べないの!」と言って叱っていたのが、初めて娘の本当のつらさがわかるようになり、2人でしばら泣いたのだそうです。それから、やせ願望がなくなったわけではないものの、これまでよりは食べることへの恐怖感はいくらか減りました。母親に安心して甘えるようになり、体重も少しずつですが増えていきました。
■本当の愛情とは何か
愛情とは何しょうか。極端な例で考えてみましょう。ある母親は、子どもが良い成績を上げると「すごいわねえ!」と言って褒めます。しかし、悪い成績だと、途端に険しい表情になり、「何なの? この成績は!」と言って怒ります。さて、この母親が愛しているものは何でしょう? 我が子でしょうか? 違います。正解は「成績」です。もう少し正しく言うと、愛しているのは「良い成績の我が子」であり「悪い成績の我が子」は愛する対象ではない、ということになります。
ある妻は、夫の給料が上がると、満面の笑みで「すごいわ! あなた」と言ってご馳走を作ります。ですが、給料が下がると「このポンコツ!」などとボロクソに言います。この妻が愛しているものは何でしょうか? 夫でしょうか? 正解は「給料」です。正しく言えば、「高給の夫」であり、「給料が下がった夫」は愛する対象ではなくなります。このたとえは仮想の極端な例として考えたものですが、この話をある男性にしたところ、その男性は「私の妻が愛しているのは、私よりも給料かもしれない。その話、私には冗談ではなくて、マジの話です」と言って肩を落としました。
阪神ファンのAさんは、阪神が負けると周囲に当たり散らします。球場では選手に向かって罵声を浴びせます。本人は「ワシは阪神を愛しとるんや。わからんのか」と言うのですが、Aさんが愛してるのは「強い阪神」であり、「弱い阪神」は愛していません。同じく阪神ファンのBさんは、阪神が連敗し始めると足しげく甲子園球場に足を運びます。「連敗の時こそ、温かく応援するのが本当のファンだと思うから」なのだそうです。みなさんの愛情はAさんとBさん、どちらに近いでしょうか。
■「無事に生まれてくれただけで十分」だったはず
お分かりかと思いますが、条件付きの愛情が強いと、「自分は愛されている」とは感じられません。そして、「自分自身が愛されている」と思っていたのに、実は「愛されているのは条件付きの自分」だということに気付いたとしたら、とてもショックです。上記のような露骨な「条件付きの愛情」であれば、本人にもわかりやすいでしょう。ですが現実には、「愛されていないのかと言われると、愛されているとは思うのだけど、何となく自分そのものが愛されている感じがしなくて、愛される自分であり続けようとしていると、だんだん苦しくなってく」と感じながら、頑張って生きている子どもや大人が少なくないのです。
愛は本来「無条件」のはずです。我が子が誕生したとき、「無事に生まれてくれただけで十分。見ているだけで愛おしい」と感じたのではないでしょうか。ですが、子どもが生まれて何年も経つと、私たちは、「親の言うこと聞く子」、「努力する子」「勉強ができる子」などの条件を付けて愛するようになってしまいがちです。どんな子どもも、どんな大人も、本当に求めているのは「無条件の愛」なのです。無条件の愛は人を育てますが、条件付きの愛は人を疲れさせ、ひどいと心をむしばみます。
■毒親でなくても、誤解が生じる
自分の親がいわゆる「毒親」のような親であると、子どもは「親に逆らったら、怒鳴られたり無視されるのが怖い」と感じて、親の言う通りに生きようとします。「教育虐待」のような例では、「成績が下がったら、愛してもらえなくなる」と思って「親から見捨てられないため」に、子どもは頑張って勉強します。そのような場合、子どもはだんだんと生きるのが苦しくなっていきます。「愛を求めているのに、愛が得られない」からです。
しかし、特に毒親と言うわけでもなく、普通の親であったとしても、子どもが人の気持ちを敏感に察知する子の場合、誤解が生じやすくなります。先に挙げたやせ症の少女のように、ふとしたきっかけで「自分は本当に愛されてはいないのかも?」という懸念や誤解が生じてしまうのです。するとその結果、毒親の子どもと同じように、「自分は親にしっかり愛されている」とは感じられないまま、「自分はいつか親に捨てられるのではないか」という不安の中で子ども時代を過ごすことになってしまいます。
■少子化の中の「愛情不足」
現代の日本は少子化の社会であるのに、愛情不足のようなことが起こるのは、とても不思議です。しかし、昔は多産多死の社会であり、大人になる前に多くの子どもが病気や事故などで亡くなっていました。なので親は「死なないで生きている」だけで喜びました。しかし、現代の我が国は少子化の社会となりました、すると、親は「数より質」を求め、数少ない我が子を自分が思う通りの「理想の子」に育てようとします。しかし、現実の我が子は「理想の子」になれるものではありません。すると子どもは「自分は親が望む子ではないダメな子だ。自分は愛してもらえない」と思うようになるのです。
親は我が子を理想の子に近づけようとして、あれこれと我が子に手を加えます。幼い頃からあれこれの習い事をして、疲れ果てている子も少なくありません。習い事を続けるのが苦しくなった時、辞めたいと言える子はまだ良いです。多くの子が、辞めたいとは言わずに頑張ります。それは「愛されたい」からです。辞めてしまうと親の愛を失うからです。親に愛される条件を満たそうとして、頑張り続けるのです。精神的にボロボロになりながらも、親の愛を失うまいとして、必死で頑張り続ける子どもたちを見ると、胸が痛みます。
■「無条件の愛」を思い出す
あなたが親で、子どもがいるのであれば、自分の中の「条件付き愛情」に気づいてください。それに気づくだけで変わり始めます。そして、子どもが生まれた時の「無条件の愛」を思い出してください。それを思い出すには、子どもが小さい時のアルバムを開いてみることをお勧めします。
あなたが子どもであれば、または既に大人になっていて、自己肯定感の乏しさに悩んでいるのであれば、まず、自分が受けた愛情が条件付きの愛情でなかったか、振り返ってください。条件付きの愛情がある程度混じるのは仕方のないことですが、条件付きの愛情ばかりで、無条件の愛情をほとんど感じられなかったのなら、親が求める条件付きを満たそうとして、必死で生きてきた自分をねぎらってあげてください。
そして、今からで良いので、家族や友人などの周囲の人に頼ったりプチ甘えをしたりしてください。と同時に、自分も周囲の人を助けてあげてください。プチ甘えや助け合いは愛情のやりとりであり、自己肯定感を育みます。親からの条件付きの愛情に苦しんできたのであれば、親以外の人と行う方が良いと思います。
もし、助け合いによる愛情のやり取りをする相手が誰もいない場合は、自分の中の自分としてください。今の自分が過去の自分(子どもの自分)に無条件の愛を注いであげてください。「無条件の愛情が足りなくて、つらかったわね。でも大丈夫。今の私が無条件に愛してあげる」と言ってあげてください。あなたの生きづらさ、自己肯定感の乏しさが少しずつ、変わり始めると思います。
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村上 伸治(むらかみ・しんじ)
精神科医
1989年岡山大学医学部卒業後、岡山大学助手、川崎医科大学講師を経て、2019年より川崎医科大学精神科学教室准教授。専門は青年期精神医学。著書に『実戦 心理療法』『現場から考える精神療法 うつ、統合失調症、そして発達障害』(共に日本評論社)、編著として『大人の発達障害を診るということ 診断や対応に迷う症例から考える』(医学書院)などがある。
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(精神科医 村上 伸治)