■なぜ知床のヒグマは「凶暴化」したのか
2025年8月14日、北海道・知床半島の羅臼岳で、登山客の男性(26歳)がヒグマに襲われ死亡するという痛ましい事件が起きた。すでに加害クマは駆除されており、事件の焦点は「なぜ加害クマは人を襲ったのか」という点に移っている。
事件翌日に駆除された加害クマは、体長約1.4メートル、体重117キロのメス熊。大人しい個体で、これまで幾度となく人前に姿を現し、地元では「岩尾別の母さん」というあだ名さえつけられていた。
そんな大人しいクマが突然豹変し、人を襲った理由として、「一部の心ない観光客が餌付けしたからだ」という説が、インターネット上に出回っている。
事件前の7月29日には、知床国立公園内で、車内からヒグマにスナック菓子を与える観光客が目撃され、知床の自然保護を担う「知床財団」にも通報があった。
羅臼町役場で野生動物の情報を取りまとめる産業創生課は、「デイリー新潮」の取材に対し「基本的にヒグマは、与えられたエサやゴミをあさったりすることでその味を覚え、しかも忘れない。そのため人里へ降りてくるのです」「観光客がエサを与えたり、投げ捨てていった食べ物でヒグマが味を覚えてしまったと考えられます」としている。
■「普通のクマ」は人を恐れる
なぜクマに餌付けをすると人を襲うようになるのか、少し説明が必要かもしれない。
クマをはじめとする野生動物は、本来、人間のことを恐れるものだ。山でクマと遭遇した場合でも、クマは「人間とかかわると痛い目にあう」と判断し、距離を取って襲ってこないことも多い。
(ただ、いきなり数メートルの距離に出現した場合や、子連れで防衛本能が高まっている場合など、クマのほうから積極的に攻撃をしかけることもあるため、くれぐれも安易に近づかないよう注意していただきたい)
そもそも、野生のヒグマは雑食ではあるが、肉食の割合は意外に少ないとされる。のぼりべつクマ牧場のサイトによれば「全体の約7~8割」、門崎允昭著『ヒグマ大全』(北海道新聞社)によると9割ほどは、木の実や野草などを食べているという。
クマがわざわざ人を襲ってその肉まで食べるのは、一応は特殊なケースと考えられる、ということだ。
■「クマをペットにした女性」の最期
しかし、クマが何らかの理由で肉食を覚え、凶暴化し、人間を襲撃することもある。
山中で自然に死んだシカの死体を食べ肉食化することもあるが、「人間による餌付け」もまた、クマを肉食化させるきっかけになりうる。
また、餌付けによってクマが人間を恐れなくなることも、襲撃のリスクを高める。これまで人間を恐れて近寄らなかったクマが、急に攻撃的になる可能性もあるからだ。
実際、アメリカ・コロラド州南西部のユーレイでは、クマに餌付けをしていた女性が殺される事件が2009年に発生している。AP通信によると、この女性は74歳で、少なくとも10年間にわたり、付近に棲息するクマ(アメリカクロクマ)に餌付けする目的で、家の外に食べ物を置いていた。
「彼女はクマを家族のように扱い、まるでペットのように餌を与えていました」という証言もある。女性の家のまわりには最大で9頭のクマが集まっていたという。
だが、餌付けにより凶暴化したクマは、ある日突然、女性に襲いかかった。
■6歳の男の子は「ほとんど食べられてしまった」
また、直接餌付けをしていなくても、クマが人間の食べ物を入手し、肉食化するケースがある。
特に、ごみを長期間屋外に放置していたり、不法投棄していた場合、クマがそれを食べて肉食化・凶暴化することがあるという。
アメリカ・アラスカ州の小さな漁村キングコーブでは、街のごみ捨て場を漁っていたクマが凶暴化し、6歳の少年が殺害される事件が発生している。
AP通信によると、事件が発生したのは1992年7月12日。
母親と妹と3人で歩いて帰宅する途中だった6歳の少年が、突然藪の中に引きずりこまれて、クマに食べられた。惨たらしいことに、その遺体はほとんど残っていなかったという。
事件の加害クマは、町のごみ捨て場を漁り、凶暴化したと見られている。
このように「クマの餌付け」は、クマを凶暴化させ、獣害を生む元凶として固く禁止されているのだ。
羅臼の事件の加害クマも、餌付けによって肉食を覚え、凶暴化したのだろうか。
■90年代に問題化した「観光ギツネ」
そもそも、知床国立公園では長年、野生動物への餌付け・餌やりが問題になってきた。
中でも問題視されてきたのが、知床に棲息する野生のキタキツネへの餌やりだ。
かつて歌謡曲「知床旅情」の影響もあり、1970年代以降、知床は急速に観光地として整備されていく。1969年には知床林道が開通し、以降は観光バスの往来もはじまる。
この頃はわざわざバスを停めて、野生のキツネに餌をやる機会を作っていたという。
1980年に知床横断道路が開通すると、観光客の数は倍増。以降は増加の一途をたどり、1990年代には約150万人もの観光客が訪れるようになる。
90年代には「観光ギツネ」が問題となった。観光バスがやってくると、キツネが道路上に現れ、餌をねだるそぶりを見せるようになった。通常のキツネと振る舞いがあまりにも異なるため、あえて「観光ギツネ」と呼んでいたわけだ。
ちなみに、キツネへの餌やりは、キツネの生態に悪影響を及ぼすだけでなく、人間の安全面でも問題だ。野生のキツネはエキノコックスという寄生虫を持っていることがあり、接触すると感染する場合がある。エキノコックスは肝臓に寄生し、数年の潜伏期間を経て増殖し、深刻な肝機能障害を引き起こすとされ、最悪の場合は死に至る。
■違反者には30万円の罰金
ヒグマはキツネと違って気軽に接近できるわけではないが、知床が観光地化するにつれて、やはり餌付け・餌やり行為が問題となってきた。
知床財団のサイトでは、観光客がソーセージを与えたせいで、人間を怖がらなくなり、市街地に出没するようになったヒグマを射殺したエピソードを紹介している。1997年の出来事だという。
2000年代以降は、知床国立公園において、野生動物への餌やり禁止の啓発活動が行われ、観光客向けのカンバンなどの設置も進んだ。
2022年には自然公園法が改正され、国立公園・国定公園など特定地域等において、野生動物への餌やりや接近行為が禁止され、違反者には30万円の罰金が課されることになった。
こうした取り組みで餌やり行為は減少したとされるが、近年のインバウンドブームによって、外国人観光客が急増したことで、餌付け・餌やり行為が復活してきているという指摘がある。
■外国人観光客は1年で1.5倍もの急増
知床国立公園内でクマに餌付けしたのも、外国人観光客だったのだろうか。
確かに、知床半島を訪れる外国人観光客の人数は、近年激増している。
環境省資料「2021年以降の国立公園の利用動向等について」によると、国立公園を訪れる外国人観光客の人数は、コロナ禍で落ち込んだものの増加傾向が顕著だ。
国立公園別の内訳を見ると、羅臼岳を含む知床国立公園を訪問する外国人観光客の人数は、令和5年(2023年)に1万8005人だったのが、令和6年(2024年)には2万7446人と、約1.5倍もの急増を見せている。
■「現場任せ」の対応は限界に達している
また、キャンピングカーで知床を訪れる観光客が増えており、現地ではごみ処理の問題が浮上している。
知床財団の投稿によれば、ごみの不法投棄も目撃されていて、対応に追われているという。
富士山ではマナーを守らない外国人登山客が急増し、弾丸登山を強行した挙句、低体温症に陥り救助される事例が後を絶たない。そのため、午後2時から午前3時までの入山は原則禁止(山小屋を予約している場合は除く)という対策がとられた。事実上、日帰りの弾丸登山が不可能になったわけだ。
知床を訪問する外国人観光客の急増ぶり、およびマナーの問題を見る限り、いずれ知床で今回のような事件が発生しても不思議ではない状況が続いていたとは言えるだろう。
これ以上、ヒグマの襲撃によって命を落とす方を生まないために。また、ヒグマと人間が共生する、世界でもまれな知床国立公園の貴重な環境を守るためにも、日本人観光客だけでなく、外国人観光客への周知の徹底や、新たなルール作りがより一層必要になってくるのは間違いないだろう。
ネットで高まる外国人観光客への不信感を払拭するためにも、現場の努力任せにするのではなく、政府や行政機関が率先して対応策を練ることがいま必要ではないだろうか。
----------
中野 タツヤ(なかの・たつや)
ライター、作家
1977年富山県生まれ。東京大学卒。新聞社系出版社などを経て独立。Web編集者としてヒグマ関連記事を多数手掛ける。
----------
(ライター、作家 中野 タツヤ)