※本稿は、井上章一『阪神ファンとダイビング 道頓堀と御堂筋の物語』(祥伝社新書)の一部を再編集したものです。
■阪神ファンの「パレード」は御堂筋を南進
1985年の日本シリーズ終了後、午後6時すぎに多くの阪神ファンは梅田へ結集した。阪神百貨店前で、気勢をあげている。その後、彼らは道頓堀へむかった。御堂筋を南へ行進したのである。11月2日のことであった。この現象は、ファンのなかに御堂筋パレードへのあこがれがあることを、暗示する。
この年に球団を主催者とするパレードは実施されていない。しばしば暴走するファンがいる以上、街頭での行事はうけいれられなかった。かりに、球団がそれをもとめたとしても、行政ははねつけただろう。まあ、球団がそれを要望したのかどうかは、わからないのだけれども。
ただ、一部のファンが御堂筋を行進したことは、興味ぶかい。しかも、彼らは梅田から道頓堀へ、つまり南にむかいすすんでいる。
■南海の祝賀パレードとは「真反対」
旧南海ホークスのパレードは、御堂筋を北上した。難波を出発し、道頓堀をこえて、梅田にたどりついている。阪急百貨店や阪神百貨店に面したエリアまで凱旋した。1985年の阪神ファンは、真反対の方向へ御堂筋を行進したことになる。
阪神も阪急も、電鉄の軌道を難波へのばしたいという夢は、いだいていただろう。だが、大阪市のいわゆるモンロー主義に、それをはばまれた。ならば、かわりにプロ野球の祝賀パレードで、南進への欲望を発散させたい。以上のような願望は、潜在的にいだいていたと思う。
1959年に南海電鉄は、パレードでホークスの面々を北進させた。電鉄延長という意欲の代用品とも思えるパレードを、北の梅田までくりひろげている。
■約2000人は難波の手前、戎橋で止まった
もっとも、御堂筋は1970年以後、自動車の北行(ほっこう)が禁止された。南側へしか走れない一方通行の道路となっている。この規則が、1985年の阪神ファンを南へ意識づけた可能性もある。阪神電鉄の見はてぬ夢は、ファンにもわかちあわれていた。そう結論づけるのは、ひかえたほうがいいかもしれない。
いずれにせよ、御堂筋を南下したファンは道頓堀より南へむかわなかった。難波の200メートルぐらい手前で、南進をとめている。そして、道頓堀と御道筋が交差する地点から東のほうへ、60メートルほど移動した。戎橋のかかっているところまですすみ、そこで歩みをとめている(図表1)。
道頓堀をこえて難波まで行進すれば、南海ホークスの牙城をおかすことになる。それをやめておこうとする判断が、1985年の阪神ファンにあったとは思えない。歓喜で我をわすれている人たちの集団である。プロ野球史のいわれに、この時頭がまわったとは考えにくい。
■ダイビングするにはちょうどいい舞台
彼らをひきつけたのは、グリコの大看板をはじめとするイルミネーションだったろう。大阪と言えば、テレビなどでは、まず最初に紹介される。街を代表するあの光景が、祝祭気分のファンを歩みよらせたにちがいない。そのスペクタクルが道頓堀川の水面に反射している様子も、彼らをさそったろうか。
10月16日に、セ・リーグでの優勝をきめたあと、戎橋からのダイビングははじまった。グリコなどの照明にもてらされながら、ファンの一部は身投げを決行したのである。あの再現を想う心も、11月2日のとびこみをふるいたたせたろう。
戎橋とその界隈は、ある種特権的な場所だった。街のにぎやかさが、路上の人びとをうきたたせる。上方芸能の拠点でもあり、祭りのような気配が、日常的にただよう。おまけに、ころあいの橋と運河も用意されている。調子づいた者が、ダイビングをしやすい舞台になっていたのだろう。
じっさい、その後阪神の慶事をいわうファンは、もっぱらあの橋からとびこんだ。あるいは、橋のたもとから。ほかのところから、似たような行為におよんだという話は、あまり聞いたことがない。やはり、あそこはえらばれた場所だったのだろうなと思う。
■大阪城ホールの「パブリックビューイング」
しかし、そう言いきる前に、ひとことことわっておきたいことがある。
1985年の日本シリーズ終了後、多くの阪神ファンは梅田にあつまり道頓堀へ行進した。また、少なからぬファンが戎橋から道頓堀川にとびこんでいる。
その同じ紙面に、これとはちがうファンの行動もしるされている。
この年、日本シリーズは西武ライオンズを対戦相手とした。最終戦となった第6戦は、所沢のライオンズ球場でもよおされている。甲子園での試合は、10月31日の第5戦で終了した。関西の阪神ファンは、第6戦以後を地元で連帯しあって応援することができない。
そこで、大阪の有志は、大型画面をつうじた集団観戦に、うってでた。のちにパブリックビューイングとして認知される手法である。大画面にうつる阪神の選手たちへ、有志一同が声援をおくったのである。会場にえらばれたのは大阪城ホール。用意された縦4メートル、横6メートルの画面に、9000人のファンがむらがった。
■大阪城の濠へも「バンザイ」とダイビング
日本一がきまると、場内はよろこびにつつまれる。
「ホールの外では、トランペットが鳴り、泳げ、泳げコール。学生、高校生数人が次々と池に飛び込んで、水の中でバンザイ、バンザイ」(同前)
大阪城ホールの南西には、「池」が4つある。北外濠、東外濠、南外濠、そして内濠である。そのうちのどこにとびこんだのかは、わからない。しかし、記事に「池」とある以上、ホールの北側をながれる第二寝屋川ではなかったろう。とにかく、「数人」の若いファンは、大阪城の濠(ほり)に身をなげたのである(図表2)。
11月はじめの夕刻であった。さぞかし、つめたかったろう。また水中の低温ぶりは予想できたにちがいない。それでも、彼らは濠のなかで、「バンザイ」をさけんだのである。
もっとも、ひえきった水という点は道頓堀川もかわらない。さらに、水のよごれぐあいという点では、道頓堀川のほうが上をゆく。今は、ややましになったが、1985年当時は、まだまだ不潔な川だった。悪臭もただよったものである。よくぞ、あんなところへダイビングをしたものだと思う。
■いまや道頓堀川と戎橋だけが「名所」に
くらべて、大阪城脇の濠は健康被害の危険性が低かったと、言いたいわけではない。注目しておきたいのは、道頓堀川以外でも水中へのダイビングがあった点である。私じしん、それ以外の場所でも同じことがあったと、1985年に聞いている。それが、どこだったかは思いだせない。また、もとより伝聞情報であり、話はふたしかである。
ただ、大阪城ホールのそばで、濠へのダイビングがあったことは、うたがえない。新聞の記事がある以上、まずまちがいないだろう。阪神の優勝や日本一がうれしくて、川や池へ身をなげた。こういう現象は、道頓堀川以外の場所でも、1985年なら発生した。
しかし、今はそれが道頓堀川と戎橋、およびその周辺に限定されている。1985年の段階では、投身の場が、もう少し広い範囲にちらばっていた。だが、今は戎橋とその辺(ほとり)でしか目にしない。あそこが、阪神をダイビングで祝福する独占的な場所になっている。それこそ、一種の名所と言ってもいいエリアになってきた。
■警備員や報道陣が呼び水になっている
今は、フーリガン的な振舞におよぶファンが、あの界隈にかこいこまれている。私はこれまでに、そんな状況説明をのべてきた。この趨勢は、どうやらダイビングという行動についても、あてはまるようである。
阪神が優勝をきめたり日本一になったりすれば、まず戎橋に警備員が集中する。メディアの取材陣やテレビカメラも、あのあたりへむらがる。あそここそが、要注意エリアででもあるかのように。1985年の時は、街のあちこちが警戒や取材の対象だったにもかかわらず。
阪神をさわいでいわいたい人が戎橋にあつまるからだと、とりあえずはみなしうる。彼らの行動を記録したり制御しようとする人員も、必然的にそこへいくのだ、と。取材対象や規制対象、つまりファンをおいかけての現象だと、常識的には言ってよい。
だが、今彼らは阪神ファンが密集しだす前から、戎橋およびその近辺につめかける。マスコミや警備員がまちうける。その一画に、あとからファンもおしよせるというのが、現状である。どうだろう。やはり、マスコミや警衛当局が、ファンをあそこへよびよせている。そして、かこいこんでいるという側面も、あるのではないか。
■「トラキチ」のガスぬきとして選ばれた場所
社会があらぶる「トラキチ」をめいわくがる。そうした時に、ある特定のきめられた場所でガスぬきをさせるからくりが作動した。街の全域であばれられるのは、かなわない。だから、うっぷんばらしのできる舞台を、用意する。そうしてえらばれたのが戎橋だったのかもしれないと、私は考える。
だれかがそうしくんだとは、言うまい。ただ、社会の見えざる手が、今のべたような方向にはたらいた。そんな見取図を、とりあえずの説明として書いておく。
はなはだあいまいな、またたよりない読みときである。しかし、今の阪神ファンが1985年の狂暴性をたもっているとは、とうてい思えない。そのフーリガン性が、現在も同じように随所で発揮されているとは、考えられなかった。かこいこまれた一画だけで展開されていると見てとったのは、そのためである。
「トラキチ」の物語をまもりたい人びとには、つれない書きぶりとなったろうか。井上は、まちがっている。阪神ファンは、あいかわらず暴徒的な側面をもっているはずだ。そうとらえたいむきも、けっこういるだろう。
もちろん、テレビカメラも、そういう期待にこたえようとしている。だからこそ、彼らは道頓堀川にかかる戎橋へむらがる。もう、あそこ以外の場所だと、ファンの集団的狂躁は収録しづらくなっている。グリコの大看板脇へ、メディアもむかわざるをえないのである。阪神ファンの野性が生息をゆるされるサファリランドのような、あの場所へ。
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井上 章一(いのうえ・しょういち)
国際日本文化研究センター所長
1955年、京都府生まれ。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。京都大学人文科学研究所助手、国際日本文化研究センター教授などを経て、現職。専門の建築史、意匠論の他、日本文化や美人論など研究分野は多岐にわたる。『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞、『南蛮幻想』で芸術選奨文部大臣賞、『京都ぎらい』で新書大賞2016を受賞。著書に『ふんどしニッポン』『ヤマトタケルの日本史』『関西人の正体〈増補版〉』など。
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(国際日本文化研究センター所長 井上 章一)