不登校の子供が増えているのはなぜなのか。精神科医の村上伸治さんは「現代日本の子育ては、大きな壁にぶつかっている。
早くから他者や社会を意識させた教育を行うことは、脆弱な基礎工事の上に巨大なビルを建てるのと同じというルソーの教えを今こそ学ぶ必要がある」という――。
※本稿は、村上伸治『発達障害も愛着障害もこじらせない もつれをほどくアプローチ』(日本評論社)の一部を再編集したものです。
■15歳頃までは「自分のことだけ」を考えるべき
現代日本の子育ては、不登校の激増など、大きな壁にぶつかっています。その原因や対策について、多くの専門家がさまざまな意見を述べていますが、答えといえるものはまだありません。フランスの啓蒙思想家、ジャン=ジャック・ルソーの著書『エミール』は、教育学の古典的名著としてあまりにも有名ですが、その内容については必ずしも十分理解され、生かされているとは言えません。私は、少子化の中でわれわれは、子育ての基本を見失ってしまっていて、今こそ『エミール』を学び直す時なのではないかと考えています。
『エミール』は、仮想の孤児エミールを誕生から結婚まで、ルソーが家庭教師としてマンツーマンで教育していく物語風に展開し、その随所にルソーの主張が展開されています。
ルソーの教育論の骨子の1つ目は、人はまず「自然人」として育ち、その後に「社会人」にもなるというものです。自然人とは他者のことは特に考えず、自分のためにだけに生きる人であり、社会人とは他者や社会のことを考えて生きる人です。これだけ聞くと当たり前のことに思えるでしょう。小さな子どもは自分のことしか考えられなくて当然であり、成長に伴って他者のことも考えるようになるからです。
ですが、重要なのは社会人への教育を始める時期です。
ルソーはなんと青年期に入る15歳頃までは、他者や社会のことを考えさせる教育をするなと主張しています。これには驚く人が多いと思います。そんな年齢まで自分のことだけを考えるように教育されたら、わがままな人間に育つに違いないと思われるのではないでしょうか。
■社会人への教育は青年後に
ルソーの思想は「自然に帰れ」という言葉が有名ですが、啓蒙思想家として『社会契約論』を著したことでも有名です。『社会契約論』と『エミール』はともに1762年に出版されており、2つの著作はルソーの思想の両輪と言われています。つまり、『社会契約論』で主権在民や民主主義を説き、その民主主義社会を担う人を育てる方法論を『エミール』で説いています。
民主主義の実現のためには、社会全体の利益を考えて行動できる人を育てることが必要です。なので、そのためには早くから社会性を育てるべきだと主張するのだろうと思いきや、まったく反対に、15歳までの子ども時代は他者や社会を意識させるなと主張しているのです。彼は社会人への教育の害悪を排除し、徹底的に自然人として育て、自然人として十分に育って青年になった後に、社会人への教育を始めることが、結局は民主主義を担う人を育てるのだと主張しています。これは、脆弱な基礎工事の上に巨大なビルを建ててもダメだという意味です(図表1)。
■自分より他者を優先させる教育に苦しむ子たち
ルソーのこの主張は、常識とは相容れないように感じるかもしれませんが、児童精神科医の実感とは一致します。われわれ精神科医の前に連れて来られる子どもたちは、その多くが自分の気持ちや考えを表出できない状態にあります。
自分の気持ちを尋ねても、言葉にならない子が多いし、言葉になる以前に自分の気持ちに気づいていないことも多く、言葉の代わりに体に症状が出る形になっている子も多いのです。それでいて、他者には気を遣い、自分よりも他者や周囲を優先して考えていることが多いです。それゆえ、基本的な治療方針は、自分の気持ちを言葉や遊びで表出してもらうように促し、それが出てきたらしっかりと受け止めて肯定してあげることになります。
治療に長くかかる例もありますが、徐々にでも自分の気持ちや考えを表出できるようになってくると、その子らしさが出てきて生き生きしてきます。すると症状はおおむね治まり、治療としては終盤になっていたりします。その治療の過程は、生物としての基本であるはずの、まずは自分を守り自分を大事にすることができず、こうあるべきとか、他者のことを考えてなど、自分よりも周囲つまり社会性を優先する考えの重圧によって、自分の気持ちや自分らしさが押し潰されていたのが、徐々に自分を優先することができるようになっていく過程です。要するに、児童精神科で行っている治療は、社会人教育によって自然人が潰されてしまっている子どもに対して、自然人を育てる、ということをしているのです。
■自然や事物からの経験を重視する
ルソーの教育論の骨子の2つ目は、言葉で教えるよりも自然や事物からの経験を重視することです。子どもは外で自由に遊ばせ、怪我せぬように細心の注意を払うことはしません。当然のことながら、大きな怪我をすることがないようには注意を払います。ですが、子どもが転んだり、たんこぶを作ったり、鼻血を出すなどの程度なら怪我を防ごうとはせず、小さな怪我などの経験をしながら、子どもは自然を先生としながら学んでいくべきだとルソーは主張します。自分が教育した子どもは、ただの腕白小僧にしか見えないだろうと言っています。

例えば、「てこ」の原理なども、生活や遊びの中で人がしているのを見たり、試行錯誤の中で発見したりする形で学ぶことが望ましく、後に理科の教科書で原理を学ぶという順番になるべきです。この順番で学べば、子どもにとっての生きた学びとなります。この考え方自体は多くの読者の賛同が得られると思います。ですが、子どもが学ぶことは無数にあるので、すべてを体験で学ばせることは現実には難しいです。そのため、われわれ大人は、多くのことを体験より先に言葉で教えようとしてしまいます。
私の子ども時代を振り返ると、遊びなどの中で発見したことは、大人からしたらごく簡単なことであっても、「俺はすごいことを発見した」と自慢に思っていたことを思い出します。そしてその気持ちが自己肯定感にもつながり、次の挑戦や頑張りの原動力にもなっていたと思います。考えてみると、先に言葉で教えるということは、発見する喜びを奪っています。真犯人を告げられてから推理小説を読むようなもので、つまらないことこの上ないです。しかし現実には、大人が子どもに教えたい知識や教訓は山のようにあります。そのため大人による教育は、どんどん言葉偏重となり、子どもは発見したり学ぶ喜びをどんどん奪われます。学ぶことは楽しくなくなり、嫌なことになり、知ったとしても生きた学びにならなくなっているのではないでしょうか。

■どんなときも生徒を謝らせようとしてはいけない
人が言葉で先に教えてしまうことをルソーは厳しく批判しています。『言葉によってどんな種類の教訓も生徒に与えてはならない。生徒は経験だけから教訓を受けるべきだ。どんな罰も加えてはならない。生徒は過ちをおかすとはどういうことか知らないのだから。決して謝らせようとしてはならない』、『生徒には絶対に何も命令してはいけない。どんなことも絶対にいけない』と彼は強く主張しています。ここまで来ると、そのまま同意できる読者は少ないのではないでしょうか。
■言葉での教育は恨みや虐待を生む
言葉つまり人間による教育の害についてルソーは述べています。依存状態には2つあり、それは事物への依存と人間への依存です。そして、事物への依存は悪を生むことはないが、人間への依存は悪を生み出すと言っています。
これは例えば、貧困に苦しむ人が誰からか施しを受けたのなら、施しをした人に対しては逆らえなくなり、支配的な関係ができてしまいます。
しかし、生活保護など制度を利用すれば、人と人との支配的な関係は生じなくて済みます。また、子どもがお菓子を欲しがる時に、「家にあるお菓子は昨日全部食べたのでもうありません」という説明なら子どもは納得しやすいです。ですが、「お菓子はまだあるけどあげません」という説明だと、「なぜなの?」「意地悪だ!」などの感情的な問題が生じやすくなります。自然は人に対して厳しいですが、走ってこけて膝をすりむいた子どもが大自然を恨むことはないでしょう。ですが、人が行う厳しい教育は恨みを買ったり虐待が生じたりもします。
このように、人による人為的教育、言葉による教育は害が生じやすいのです。子どもが暴れて窓ガラスを割ったのであれば、叱ってはならず、すぐには修理はせず、外気が室内に入る寒さを体験させるべきだと言っています。そして、『子どもをただ事物への依存状態にとどめておくことだ。そうすれば、教育の進行において自然の秩序に従ったことになる。子どもの無分別な意志に対しては物理的な障害だけを与えるがいい。あるいは行動そのものから生じる罰だけを与えるがいい』とルソーは述べています。
■子ども時代は理性が眠っている
ルソーの教育論の骨子の3つ目は、理性と観念についてです。
これは、前者二つの根拠にもなっています。ルソーは『子ども時代は理性の眠りの時期だ』と述べています。15歳頃になり理性が眠りから覚める青年期に入って初めて、観念が通じるようになり、言葉による教育が可能になります。これは要するに、抽象的思考が可能になるということです。抽象的な思考が可能になり始めるのはおおむね12歳以降です。中学生になると算数が数学となり、変数xとyが登場します。中学1年生から抽象的概念の教育が本格的に始まるのです。しかし、中学生になれば誰でも抽象的思考が可能なのかと言えば、それは違うでしょう。xとyの登場に対応できない中学1年生は結構います。ルソーは、理性が目覚めてくる15歳頃になるまでは言葉での教育や観念を教えることは避けるべきであるだけではなく、それは害悪が大きいと主張しています。
■約束がウソを生み、道徳が悪徳を生む
約束とか義務という観念を考えてみましょう。
小学校低学年でも、約束と義務という言葉自体は通じるでしょう。ですが、約束という観念は、未来を予見する能力など、かなりの抽象的思考の上に可能になるものです。なので、約束という言葉が通じたとしても、子どもが理解する約束と、大人が理解する約束との間には大きな開きがあります。
ですが、われわれ大人はその差を意識せぬまま、子どもに多くの約束をさせます。まるで多数の約束をすれば約束という観念が理解できるようになると思っているかのように、大人は多数の約束で子どもをがんじがらめに縛ります。そしてその束縛力を利用して子どもを大人の思い通りの方向へ誘導しようとします。しかし子どもは約束を大人ほどには理解していません。不十分な理解のままで約束をさせられるので、当然ながら、気がつくと約束を破りそうになってしまうことになります。
すると子どもはどうするかと言うと、その場逃れのウソをつくことになります。つまり、約束を教えようとして、ウソを育ててしまうのです。約束をすればするほど、ウソが増えていくことになります。このように、子どもに抽象的な観念を教育しようとしても、結局は教訓ではなく悪を教えてしまうことになります。道徳を教えれば教えるほど、悪徳を育むことになるとルソーは主張します。
理性は人間のあらゆる能力を複合したものなので、最も遅れて発達します。最終到達目標である理性を用いて子どもを教育するのは、まず人格を完成させてから人格教育を始めようと言っているようなもので、論理的にまったく矛盾しています。『子どもが道理を聞きわけるものなら、かれらを教育する必要はない』とルソーは述べ、子どもが最初に研究するのは実験物理学であるのに、その前に理論物理学を研究させられる、と皮肉っています(図表2)。
■消極的教育
青年期になるまでは、言葉や観念による教育を排除する教育を、ルソーは自ら消極的教育と呼んでいます。
ですが、この消極的教育という言葉は誤解されやすいです。12歳になり、少年期に入ったエミールに天文学を教える際、ルソーは最初から知識を教えたりはしません。エミールを夕方と明け方に散歩に誘い、太陽が沈んだ方向とは逆方向から昇るのはなぜだろうかと疑問を呈し、疑問を呈したままで置いておきます。そして、別の機会に森の中への散歩に誘い、深い森の中で二人は道に迷います。
途方に暮れて泣き出すエミールに対して、ルソーは語りかけます。正午における太陽の位置などを考えさせ、方角を割り出し、苦労の末、二人は森から脱出します。この経験から、エミールは天文学の有用さを知ります。ルソーはそうなるようにわざと周到に仕組んでいるのです。学びを体験できるように、さまざまな仕込みをルソーはエミールに対して行っています。とても消極的教育とは言えません。自然から学べるような場の設定を、「積極的」に行っているのです。
■ゆっくり育つ
人為的な教育を避け、体験からの学びを重視する教育は、いわゆる健常児には適切であろうが、発達障害児の教育には向かないのではないか、と思う読者もいるかもしれません。しかし考えてみてください。健常児ですら他者のことを考えさせる教育を早くからすることで押しつぶされたりしているのです。発達障害児が他者のことを考えられるようになるのはもっと後になります。抽象的な観念が通じるようになるのはさらに後のことになります。早くから社会人の教育を始めている今の教育は、健常児以上に発達障害児に大変酷なことをしています。
私の患者の中には、20代半ばになってから徐々に他者のことを考えられるようになり、20代の後半になって社会性がどんどん伸びている発達障害の人が何人もいます。ルソー的な教育は、健常児にとっても発達障害児にとっても、無理の少ない教育なのではないでしょうか。
■発達の遅れは利益である
世にあるほとんどの教育論は、教育によって次の段階に「早く」進んでいくことを善としています。まるで促成栽培の勧めのようです。ルソーの主張は逆です。
『自然は子どもは大人になる前に子どもであることを望んでいる。この順序をひっくり返そうとすると、成熟してもいない、味わいもない、そしてすぐに腐ってしまう速成の果実を結ばせることになる』
『子どもには特有のものの見方、考え方、感じ方がある。その代わりに私たちの流儀を押しつけることくらい無分別なことはない』
『はやく善を育てようと急いではいけない。理性が光りをあたえなければ、善もけっして善とはならないからだ。あらゆるおくれは利益となると考えるがいい』
とルソーは述べています。これはただ単に遅いことがよいという意味ではなく、子ども時代には子ども時代に獲得すべきことがあるという意味です。
『1日中、飛んだり跳ねたり、遊んだり、走りまわったりしているのが、何の意味もないことだろうか。一生のうちでこんなに充実した時はまたとあるまい』
『子どものうちに子どもの時期を成熟させるがいい』、『子どもが生きる喜びを感じることができるように』
『できるだけ人生を楽しませるがいい』
と彼は述べています。
そのためにも、早くから抽象的概念の暴露を受ける害は避ける必要があるのです。
■科学が発達してもいじめがなくならないワケ
私には、学生時代からずっと感じている疑問があります。科学は発達し、医学は発達し、精神医学も教育学もどんどん発達しています。ならば、いじめはなくなったのでしょうか? 子どものメンタル問題は、どんどん解決されつつあるのでしょうか? まるで、社会や科学が発達するほど、事態はどんどん悪くなっているかのようです。社会や科学が発達すればするほど、子どものそだちの状況はルソーの主張から離れていってはいないでしょうか。
彼は『エミール』の冒頭で、「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」と述べています。社会や科学が発展し、子どもを思いのままに「いじくり」倒せるようになってしまった現代は、「すべてが悪くなる」のがどんどんひどくなってはいないでしょうか。
ルソーが『エミール』を著してから、260年以上経ちました。その間に、科学も医学も飛躍的に進歩しました。けど、私たちは、ルソーよりも賢くなったのでしょうか。それどころか、ますますルソーの足元にも及ばなくなっているのではないでしょうか。現代の私たちの教育や子育ては、道に迷ってしまっています。今こそ、教育学の原点ともいえる、ルソーに学ぶべきではないでしょうか。

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村上 伸治(むらかみ・しんじ)

精神科医

1989年岡山大学医学部卒業後、岡山大学助手、川崎医科大学講師を経て、2019年より川崎医科大学精神科学教室准教授。専門は青年期精神医学。著書に『実戦 心理療法』『現場から考える精神療法 うつ、統合失調症、そして発達障害』(共に日本評論社)、編著として『大人の発達障害を診るということ 診断や対応に迷う症例から考える』(医学書院)などがある。

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(精神科医 村上 伸治)
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