■ドイツ国内でも問題視されているコスト高
かつては理想郷のように伝えられることが多かったドイツだが、現在、深刻な構造不況の真っただ中にある。その主因の一つが、国際競争力の急速な低下だ。
8月25日、ケルンのシンクタンクであるドイツ経済研究所(IW)が、ドイツの製造業の労働コストは、他の先進国と比べて2割は高いという、非常に興味深いレポートを公表した。
具体的には、ドイツの製造業の2024年時点における単位労働コスト(雇用者報酬を実質GDPで除したもの)は、先進27カ国の平均値より22%高いというものだ。またドイツよりも単位労働コストが高かった国は、27カ国のうち、ラトビアとエストニア、クロアチアの3カ国だけだった。ちなみに日本は22番目で、米国は25番目だ(図表1)。
ここで、この10年のドイツの単位労働コストの推移(図表2)を確認してみたい。ドイツの単位労働コストは、コロナショック前の時点でユーロ圏全体の単位労働コストの伸びを上回っていた。このことはつまり、ドイツがそれだけ雇用者報酬を増やしてきた、言い換えれば、ユーロ圏の他の国以上に労働分配を強めてきたことを意味する。
例えばドイツは、2015年に長年の争点だった最低賃金制度を導入した。当時の第三次アンゲラ・メルケル政権は、メルケル首相を擁する中道右派の与党・キリスト教民主同盟(CDU)と同社会同盟(CSD)、そして中道左派の社会民主党(SPD)の大連立内閣だった。この最低賃金制度の導入はSPDの肝煎りだったことで知られる。
■中道左派による賃金引上げが競争力低下の主因
SPDがなぜ最低賃金制度の導入に躍起だったかというと、メルケル元首相の前任であるゲアハルト・シュレーダー元首相の下で実施された労働市場改革を問題視していたためだ。シュレーダー元首相はSPD出身だが、1990年の東西再統一以降、低迷が長期化していた経済の体質改善のために、労働市場の弾力化に向けて大鉈を振るった。

労働市場の弾力化によって、ドイツの労働コストは低下した。さらに欧州連合(EU)の統一通貨であるユーロを導入したことで、ドイツは実質的な為替の切り下げを行うことができた。その結果、ドイツの国際競争力は改善し、経済の低迷を脱することが出来たのだが、一方でドイツ国内では所得格差が拡大するという別の問題が出てきた。
SPDは中道左派であり、本来は所得分配を重視する。そのSPD出身の首相が旗を振り、所得格差を拡大させたのであるから、SPDとしてはその是正に躍起になる。とりわけ旧東ドイツの所得は低いままで、その引き上げも政治的な課題だった。CDUとCSUもこうした要請を受け入れざるを得ず、メルケル政権は最低賃金を導入した。
それ以降、ドイツが賃金・物価スパイラルの様相を強めるに至り、実質GDPの伸び以上に労働分配を増やす状況が続いた。この動きが一段と加速するのが、コロナショック後の2022年頃からだ。その主な理由は、2021年12月に就任したSPD出身のオラフ・ショルツ前首相による、積極的な最低賃金の引き上げにあったと考えられる。
そもそもドイツは、2022年1月に最低賃金を時給9.6ユーロから9.82ユーロに、また同年10月には10.45ユーロに引き上げることを決めていたが、ショルツ前首相はそれでは足りないとして、同年10月に12ユーロに引き上げてしまった。ドイツの現時点での最低賃金は12.82ユーロだが、この間の賃金の増加は物価の伸びよりも大きい。

■大鉈を振ることができない政治状況
国際競争力には、価格という観点や品質という観点もあるが、品質の向上は困難であるし、経済政策的には価格という観点から議論されることが多い。価格競争力を向上させるためには、為替レートを減価するか、労働コストを削減するか、あるいはその両方が求められるが、ユーロから離脱しない限り、為替レートの減価は不可能となった。
つまり、労働コストを削減すること以外に、ドイツに残された現実的な手段はない。かつてのように労働市場改革を進めて、賃金体系の適正化を図ることが望ましい。少なくとも、今のドイツに最低賃金を持続的に引き上げる余力などない。加えて、本来ならば、財政引き締めを通じて景気を冷やし、労働需要を一度、減退させる必要がある。
しかし、労働市場改革にせよ、財政引き締めにせよ、いずれも国民の生活を短期的に悪化させるため、政治的な理解は得られにくい。少なくとも安定した政権の下、腰を据えて政策が実施されることが必要となるが、フリードリヒ・メルツ現首相が率いる今の政権にそれは不可能だろう。5月に発足した現政権も国民の支持が集まっていない。
それに、現政権もまた、CDUとCSUを首班とし、SPDがパートナーとなる大連立である。SPDは基本的に最低賃金の引き上げを引き続き重視しているため、賃金体系の適正化を図るような労働市場改革を拒絶する公算が大きい。受け入れるにしても、労働者の痛みを極力、軽減するように努めるだろう。
ただし、それでは改革にならない。
仮に、現時点で国民の不満の「受け皿」となっている右派政党、ドイツのための選択肢(AfD)が政権入りしたとしても、労働コストを削減するための改革は進まないだろう。ようやく政権に参画したAfDが、国民に不人気な政策をわざわざ行うとは考えにくいためだ。こうした政治状況に鑑みれば、コスト削減のための改革など進みようがない。
■インフラ・防衛産業が活況でも復活できない
ドイツに関しては、財政運営の弾力化に伴うインフラ産業の活況、さらに米国からの要求による軍拡を反映した防衛産業の活況が、経済の長期の低迷の打破につながるという期待が膨らんでいる。とはいえ冷静に考えれば、ドイツ経済の低迷のそもそもの理由であるコスト高が、インフラ産業や防衛産業の活況で改善されないことが分かる。
それに、インフラも防衛もクラウディングアウト効果を持つ「公需」だ。うちインフラは将来の生産性の向上に貢献するが、防衛はそうした性格が弱い。むしろヒト・モノ・カネといった生産要素に限度がある中で、軍需向けのモノやサービスの生産を優先すれば、民需向けのモノやサービスの生産が強く圧迫され、インフレが一段加速する。
インフレが加速すれば、労働コストもさらに膨張するため、ドイツの国際競争力は一段と低下する。言い換えれば、ドイツ経済の復活につながると期待されているインフラ産業や防衛産業の活況は、高インフレを通じて、ドイツ経済の国際競争力をむしろ押し下げる方向に働くと懸念される。少なくとも、復活の起爆剤にはなり得ないだろう。

翻って日本である。日本は円安が定着しており、その意味でドイツに比べるとかなり有利である。一方、日本がそれを活かしきれていないのは、ドイツほどではないにせよ、労働市場が硬直的などの問題を少なからず抱えているためだ。そうしたハードルを早く取り除きたいところが、それを許すだけの決意が果たして国民にあるだろうか。
(寄稿はあくまで個人的見解であり、所属組織とは無関係です)

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土田 陽介(つちだ・ようすけ)

三菱UFJリサーチ&コンサルティング 調査部 主任研究員

1981年生まれ。2005年一橋大学経済学部、06年同大学院経済学研究科修了。浜銀総合研究所を経て、12年三菱UFJリサーチ&コンサルティング入社。現在、調査部にて欧州経済の分析を担当。

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(三菱UFJリサーチ&コンサルティング 調査部 主任研究員 土田 陽介)
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