なぜ、算数や数学には平易な言葉なのにややこしい出題が多いのか。AI研究者の新井紀子さんは「生活言語ではふつう、『いくつかの』は2つから6つくらいまでの少ない複数を意味しますが、数学では異なる意味を持っている」という――。

※本稿は、新井紀子『シン読解力 学力と人生を決めるもうひとつの読み方』(東洋経済新報社)の一部を再編集したものです。
■摩訶不思議な「数学語」の世界
小学校高学年から高校入学までのどこかで、「どんなに努力しても数学だけはダメだから、絶対に文系に行くしかない」と固く思い込んでしまう人は少なくありません。私もそのひとりでした。高校を卒業するまで一番嫌いな教科は数学でした。消去法で一橋大学の法学部に進学しました。
成績はそこそこよかった、国語の成績は文句なかった、本もたくさん読んだ、意欲関心もあるのに、数学(と体育)はダメ、という状態でした。タイムスリップできたなら、数学ができないことに悩んでいる高校生の私に、「あなたは数学が苦手なわけじゃない。国語の力で無理に数学を読もうとして失敗しているだけよ」と言ってやりたいですが、たぶん、高校生の私は耳を貸そうとしないでしょう。
その「高校生の私」に見せたいものがあります。次の問題です(図表1)。
問題文に出てくる数学用語らしきものは「平面」、「円」、「交わる」くらい。どれも難しい用語ではありません。

この文には3つの条件が書かれています。
1.平面上にいくつかの円がある。

2.どの2つの円も異なる2点で交わっている。

3.どの3つの円も同一の点で交わっていない。
この3つの条件をすべて満たすものを選ぶ、という問題です。
ヒントを差し上げます。条件を満たさない図はひとつだけです。
高校生の私は、迷わず選択肢①の、円がひとつだけの図を除外するでしょう。なぜなら円がひとつしかないのですから、条件2の「どの2つの円……」、条件3の「どの3つの円……」を満たすわけがないからです。みなさんもそうお答えになるのではないでしょうか。
ところが、これが不正解なのです。
■「いくつかの」には1つは含まれるのか
「なぜ?」と思われたことでしょう。
それがふつうの反応です。正解がわかったとすれば、それは特殊な人たちです。
ポイントはまず「いくつかの」という言葉にあります。生活言語ではふつう、「いくつかの」は2つから6つくらいまでの少ない複数を意味することが多いでしょう。けれども数学では、「いくつかの」というのはひとつ以上、場合によっては0以上のあらゆる整数を意味します。したがって、ここで「いくつかの」と書かれていれば、円がひとつであっても条件1を満たします。
次に条件2はどう読み解けばいいのでしょう。数学では、「どの2つの円も異なる2点で交わっている」という文の「どの」は、「2つ以上円があるなら、そのどの2つの円も」という意味です。そして、2つ未満しか円がない場合、つまり円がひとつしかなければ、なんと「自動的に条件を満たす」ことになります。
同様に条件3の「どの3つの円も」は、「3つ以上の円があるなら、そのどの3つの円も」という意味です。したがって、3つ未満しか円がない場合、つまり円がひとつ、あるいは2つしかなければ、やはり「自動的に条件を満たす」のです。
よって、円がひとつしかない選択肢①は条件1、2、3のすべてを満たします。

円が2つある選択肢②、円が3つある選択肢③はどうでしょう。やはり条件1、2、3を満たしています。
残るは選択肢④ですが、上部の3つの円をよく見ると、右端と左端の円は「異なる2つの点で交わって」いません。したがって、「どの2つの円も異なる2点で交わっている」という条件2は当てはまりません。つまり問題で示された条件に当てはまらないのは選択肢④だけということになり、正解は選択肢①、②、③となります。
高校生だった私に、今の私がこのように説明したら、彼女はきっと目をつりあげてこう言うでしょう。「そんなこと、一度も教えてもらったことない‼」と。
腹を立てるのはもっともです。実際、私はこの読み方を教わった記憶がありません。私だけではないはずです。いろいろな場でこの問題を見せましたが、誰一人として解ける人がいませんでした。ごく例外的に大学で数学を学んだ人だけが解けるのです。

これはもはや知能や才能の壁ではありません。「言語」の壁です。
「どの2つ」といったら2つなければおかしい、というように強い違和感を抱く方はたくさんおられると思います。前回記事の「偶数問題」でも、「0はなにもないのだから、どうやって2人で分けるというのだ。0÷2=0などという式はそもそもおかしい」と納得できないままの方もいらっしゃるでしょう。
もしも「生活言語=学習言語」だったり、学習言語がひとつしかなかったりするなら、そのとおりだと思います。「それはおかしい」という意見に軍配が上がります。けれども、それぞれの分野の到達目標のために、生活言語の言葉を借りて、学習言語を生み出してきたと考えてみたらどうでしょうか。
数学では、「名づけ」のルールも生活言語や国語とは違います。小学3年生の算数に出てくる次の文章を読んでみてください。
「2つの辺の長さが等しい三角形を二等辺三角形という。また、3つの辺の長さがどれも等しい三角形を正三角形という」
では、お尋ねします。
正三角形は二等辺三角形ですか?
■「お尋ねします。正三角形は二等辺三角形ですか?」
生活言語や国語では、「正三角形は二等辺三角形ではない」というのが通常の解釈だろうと思います。けれども、算数では「正三角形は二等辺三角形でもある」が正解です。3つの辺の長さが等しいなら、当然そのうちの2つの辺の長さは等しく、2つの辺の長さが等しい三角形は二等辺三角形だからです。
いったい、数学はどうしてそんな変なルールを作っているのでしょうか。理由は簡単です。定理と証明をなるべくシンプルに(きれいに)整理するためです。
たとえば、二等辺三角形に関する重要な定理を発見したとしましょう。それを証明すれば、ただちにその定理が正三角形にもあてはまることが担保されたら、正三角形についても、その重要な定理があてはまることを証明する手間が省けます。でも、もし、「正三角形は二等辺三角形である」ではなく、正三角形と二等辺三角形が別々の図形であると定義されていたら(そんなことはありえませんが)、二等辺三角形で証明した定理を、正三角形でも証明しなくてはならなくなります。
「どの」もそうです。「どの組み合わせ」についても成り立っていたら、「これについて成り立っている」、「あれについても成り立っている」と列挙しなくて済みます。
数学にとっては「どの」は、話をシンプルにするための必須の言葉なのです。

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新井 紀子(あらい・のりこ)

国立情報学研究所教授 一般社団法人教育のための科学研究所代表理事・所長

一橋大学法学部およびイリノイ大学数学科卒業、イリノイ大学大学院数学研究科単位取得退学。東京工業大学より博士を取得。専門は数理論理学。2011年より人工知能プロジェクト「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトディレクターを務める。16年より「リーディングスキルテスト」の研究開発を主導。主著の『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』『AIに負けない子どもを育てる』(ともに東洋経済新報社)は話題に。

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(国立情報学研究所教授 一般社団法人教育のための科学研究所代表理事・所長 新井 紀子)
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