秋篠宮家の長男、悠仁さまが9月6日、成年式を終えられた。神道学者で皇室研究家の高森明勅さんは「悠仁殿下は昨年のお誕生日に、すでにご成年を迎えておられる。
にもかかわらず、成年式を、今年の19歳のお誕生日まで延期されたのは異例といえる。これは秋篠宮殿下が、あえて悠仁殿下が18歳のうちに成年式を行うことを避け、1年間も延期されるという前例のない選択をされたためではないか」という――。
■40年ぶりの「成年式」
去る9月6日は秋篠宮家のご長男、悠仁親王殿下の19歳のお誕生日だった。この日を選んで悠仁殿下の「成年式」が行われた。
男性皇族の成年式は、秋篠宮殿下の成年式が昭和60年(1985年)11月30日に行われて以来、じつに40年ぶりだ。
これは、秋篠宮殿下がお生まれになってから悠仁殿下がお生まれになるまで、皇室には「男子」が1人もお生まれにならなかった事実を示している。
この間、皇室にお子さまが生まれなかったのではない。内親王が4人、女王が5人、合わせ9人の女性皇族がお生まれになっている。にもかかわらず、悠仁殿下のご誕生まで男性皇族は生まれなかった。その結果、40年ぶりの成年式になった。
その意味で今回の成年式は、皇室の将来を男子だけに託そうとする現在の皇位継承ルールが、いかに危ういかという現実を、改めて我々に突きつける結果になった。
■女性皇族に成年式がない理由
なお現在、女性皇族には成年式にあたる儀式がない。
これはなぜか。
明治時代に皇室のさまざまな儀式を、古式を尊重しつつ整備した時に、男性皇族については前近代の「元服」とか「加冠」と呼ばれた儀式をもとに制度化した(皇室成年式令、明治42年[1909年])。
一方、女性皇族についても「笄冠(けいかん)」とか「着裳(ちゃくも)」と呼ばれた伝統的な儀式があった。にもかかわらず、そちらは制度化しなかった。
結果として、前近代よりも“男性優位”に偏った制度になった。それを宮内庁が見直すことなく、今も慣例として大枠において踏襲しているためだ。
こうした男女がアンバランスな儀式の在り方は、皇室の方々のお気持ちに沿ったものとは思えない。また令和の現代の価値観に照らしても、残念ながら疑問と言わざるを得ない。
■今回の成年式をめぐる“謎”
ところで今回の成年式をめぐって、1つ不思議なことがある。それは、皇室にとって40年ぶりのめでたい儀式であるにもかかわらず、悠仁殿下がご成年を迎えられてから、まる1年間もその挙行が延期された、という事実だ。
民法の改正によって成年年齢が18歳に引き下げられた。それによって、悠仁殿下は昨年のお誕生日に、すでにご成年を迎えておられる。
ご成年に際しての記者会見もすでに済ませておられることは、記憶に新しい。
にもかかわらず、晴れの儀式である成年式は、今年の“19歳”のお誕生日まで延期された。これはなぜか。
■18歳のうちに行われなかったのは異例
もちろん、昨年のお誕生日は大学受験を控えた時期なので、このタイミングを避けられたのは自然なことだった。しかしその後、大学に入学され、5月にゴールデンウイークがあり、8月から大学の夏休みも始まっている。
それでもずっと延期されて、特別なご事情があったわけでもなさそうなのに、成年を迎えられたご年齢のうちに儀式が行われなかった。これは失礼ながら、異例の形だろう。
たとえば、自治体が主催する成人式への招待状が1年遅れで届いたら、ほとんどの人は不審に思うはずだ。あるいは一般の家庭でも、七五三のお祝いを翌年まで延ばすということは、よほどの事情がなければ考えにくいだろう。
これは一体、どうしたことか。
■誕生日にこだわる理由はない
前例では、お誕生日に成年式が行われるケースが多かった。なので、それに合わせようとして、翌年のお誕生日まで待っていた、という推測がありえるかもしれない。

たしかに天皇陛下も秋篠宮殿下も、それぞれお誕生日に執り行っておられる。
しかし例外もある。上皇陛下は当時「皇太子」だったので、昭和26年(1951年)12月に18歳でご成年を迎えられた。これは先ごろの民法改正とは関係なく、もともと皇室典範(第22条)に、天皇および直系の皇嗣(皇太子・皇太孫)は18歳で成年を迎えられることを規定しているからだ。
しかし、同年5月に祖母にあたる貞明皇后が亡くなられ、喪に服す期間(諒闇(りょうあん))だったので、翌年の11月10日に成年式を挙げられている。
ここで注意したいのは、たとえ延期しても、年齢が19歳になられる“前に”成年式が行われていた事実だ。
別の例外は、三笠宮家のご次男だった桂宮の場合だ。桂宮のお誕生日は2月11日。しかし、成年式は昭和43年(1968年)2月27日に行われた。お誕生日当日が、大学の試験期間中だったので試験が終わってから行われた、という事情があった。この時はわずかな延期だけなので、もちろん20歳の年のうちに行われている。
■出席者の負担を減らすため?
お誕生日以外に成年式を行われた上皇陛下や桂宮の場合も、例外なくご成年を迎えられた“ご年齢のうち”に行っておられる。
お誕生日という日取りよりも、年齢が成年を迎えた18歳とか20歳のうちに行うことを、優先しておられた。それが当たり前の行い方だろう。
天皇陛下にわざわざお出ましいただいて、ご成年の“区切り”を示す大切な伝統的儀式だ。それなのに、そのご年齢のうちに挙行せず、あえて19歳になられるまで延ばすということは、普通は想定しにくいのではないか。
これについて、秋篠宮殿下ご自身のお考えとされるものが、「秋篠宮家の事情を知る関係者」による匿名情報として伝わっている(『週刊新潮』9月11日号)。
「(成年式と誕生日について)それぞれ祝うよりは一度にまとめた方が出席者の負担も減るのではないか」と。
しかし、それが果たして本当に秋篠宮殿下のお考えだろうか。
■延期の理由として考えにくい
先にも述べたように、今回の成年式は皇室にとって40年ぶりの大切な儀式だ。さらに悠仁殿下ご本人にとっては、まさにご生涯に一度限りの、かけがえのない行事に他ならない。
それなのに、ただ「出席者の負担も減る」というだけの理由で、19歳(!)になるまで延期されるだろうか。
そもそも天皇や皇后ならともかく、宮家の皇族のお誕生日のお祝いに、多くの人たちを招く、大がかりな行事が行われるわけでもない。
したがって先の匿名情報を、そのまま真に受けるわけにはいかない。

■宮殿か、民間の施設か
ここでヒントになる事実がある。
それは、悠仁殿下の成年式にともなう祝宴が、宮殿ではなく、都内の民間の施設で行われたことだ。9月6日の私的な夕食会=ご内宴は帝国ホテル、同10日の公的な昼食会=午餐は明治記念館で、それぞれ開かれた。
天皇陛下と秋篠宮殿下の時は、ともに宮殿が使われた。天皇陛下(当時は浩宮)の場合は、昭和55年(1980年)2月25日に「祝宴の午餐」が豊明殿、「祝宴の晩餐」は連翠(れんすい)にて、それぞれ行われた。この時、昭和天皇と香淳皇后はどちらにもご臨席になられた。
秋篠宮殿下(当時は礼宮)の場合は、昭和60年(1985年)12月3日に祝宴が行われ、いずれも連翠が用いられた。昭和天皇と香淳皇后は天皇陛下の時とは違って、晩餐にだけご臨席になっている。
天皇陛下も秋篠宮殿下も成年式当時は、上皇上皇后両陛下(当時は天皇、皇后)のお子さま(皇子)として、皇室の中枢というべき「内廷」におられた。内廷は、その時の天皇皇后および皇子などで構成され、独立の生計を営まれる。
直系の皇嗣(皇太子・皇太孫)以外は、ご結婚とともに内廷から離れられる。男性であれば「秋篠宮」などの宮号を授けられて、別に宮家を立てられる。
女性であれば今のルールのもとでは、皇族の身分を離れて国民の仲間入りをされる。
ちなみに「直系」というのは、この場合、天皇から親―子―孫……とつながる系統を指す。そこから分かれた系統が「傍系」になる。
天皇陛下も秋篠宮殿下も直系の「内廷皇族」として、宮殿で成年式の祝宴が行われた。秋篠宮殿下はその後、ご結婚により宮家を立て、傍系に移られた。
その“内廷外”の傍系の宮家に生まれられた悠仁殿下の場合は当然、事情が異なってくる。
■「傍系の宮家皇族」の前例にならった
悠仁殿下の成年式にともなう祝宴は、先に述べたように宮殿を使うことは控えて、民間の施設を利用された。
その前例は、昭和天皇の末弟でいらっしゃった三笠宮がお立てになった傍系の宮家(三笠宮家)の3人の親王方の成年式の場合だ。
ご長男の寛仁(ともひと)親王の時は昭和41年(1966年)1月5日に成年式、同6日に祝宴が行われた。ご次男の桂宮の時は先述の通り、昭和43年(1968年)2月27日に成年式があり、祝宴は同28日だった。ご三男の高円宮は昭和49年(1974年)12月29日に成年式、祝宴は翌50年(1975年)1月12日だった。
会場はどなたも都内の民間施設、綱町三井倶楽部だった。
悠仁殿下の場合は、明らかに天皇陛下など“直系”の前例ではなく、これら三笠宮家の“傍系”の前例にならわれたものだった。
この事実を念頭に置くと、成年式の日取りがことさら19歳になられるまで延期された理由も、ほのかに見えてくるのではないだろうか。
■秋篠宮さまの厳格な自覚
秋篠宮殿下のこれまでのなさりようを拝見すると、直系と傍系の区別について厳格な自覚を持っておられると拝察できる。
まず、直系の皇嗣である「皇太子」と類似の称号(皇太弟など)を辞退されたこと。これについては、上皇陛下のご譲位を可能にした皇室典範特例法の制定の際、内閣に設置された有識者会議の座長代理を務めた御厨貴氏の証言がある(「朝日新聞 デジタル版」令和2年[2020年]11月8日配信)。
なお「皇嗣」とは、皇位継承順位が“第1位”の皇族を指す。同じ皇嗣でも、“直系”の皇嗣なら次代の天皇になられることが確定的なのに対し、“傍系”の皇嗣はその時点での第1位にとどまる、という違いがある。
そもそも「秋篠宮」という宮号自体が傍系の“証し”だ。なので、令和になっても内廷に入られず、この宮号にこだわって秋篠宮家を維持された事実そのものが、直系とは区別される傍系の位置に、自覚的にとどまられたことを示す。
そう考えると、直系の皇嗣である皇太子と紛らわしい印象を与えかねない「立皇嗣の礼」という前代未聞の儀式を政府が企てたことにも、おそらく内心では違和感を覚えておられたはずだ。そのことは、この儀式での秋篠宮殿下の「おことば」が、天皇陛下の立太子の礼での「おことば」と比べて、明らかに控えめな調子になっていた事実からも、察せられる。
■皇室典範の「18歳成年」の特例
じつは、秋篠宮殿下のこうした直系と傍系の区別を重んじられるご態度は、近代の皇室制度の建前ではごく当たり前のことだった。
明治憲法の標準的な教科書だった美濃部達吉博士の『憲法撮要』(改訂第5版、昭和7年[1932年])を見ると、“傍系の皇嗣”について次の諸点をあげている。
①特別な称号を持たない。

②他の皇族と異なる特別な待遇を受けない。

③「立太子の礼」と類似の儀式は行わない。
以上のうち、ご成年の年齢も直系の皇嗣(皇太子・皇太孫)が18歳なのに対して、傍系の皇嗣は一般の皇族と同じく20歳とすることも、②に含まれている。
これは天皇に事故があるなどして「摂政」を置く時に、未成年なら摂政になれないので、なるべく他の皇族ではなく、次代の天皇たる直系の皇嗣を摂政にあてるためだった。
もちろん現代では民法の改正で、一般の皇族も国民も等しく18歳で成年を迎える、という制度になっている。それでもすでに述べた通り、皇室典範には天皇と直系の皇嗣(皇太子・皇太孫)に限って成年年齢を18歳とする規定(第22条)が、そのまま残っている。
もちろん法的にはすでに意味を失った条文だ。しかし直系・傍系の区別を重んずべき“皇族の心構え”として、秋篠宮殿下ご自身にとっては必ずしもまったく無意味になったとは考えておられない可能性がある。
■あえて18歳の成年式を避けた
すでに指摘したように、直系の皇嗣が次代の天皇たることが確定しているのに対して、傍系の皇嗣はそうではない。
一般的に言って、新たなご出産や制度改正などで「直系の皇嗣」が現れた場合、直系優先の原則によって瞬時に、皇位の継承順位が第1位から第2位に変更される。それによって、たちまち皇嗣でなくなる。だから、あくまでも暫定的なお立場にすぎない。
そのことを誰よりも心に刻んでおられるのは、おそらく秋篠宮殿下ご自身だろう。
そう考えると、その傍系の皇嗣のお子さまである悠仁殿下の成年式を、皇室典範の規定では天皇および直系の皇嗣に限った成年年齢である“18歳”のうちに行うことは、何か僭越な振る舞いのように感じられていたのではないだろうか。そのために、へりくだった奥ゆかしいご配慮から、あえて成年式を1年間も延期されるという、前例のない選択をされたのではないか。
少なくとも、成年式がここまで延期された理由について、消去法で考えると、他に説得力のある説明の仕方がないように思える。
■どう考えても“アウト”なルール
そもそも、現在の皇位継承のルールは、「構造的な欠陥」を抱えている。
皇室はとっくに側室不在の一夫一婦制に転換している。にもかかわらず、もともと側室制度とセットでしか持続困難な、明治の皇室典範で採用された「男系男子」限定という歴史上前例がない“狭い縛り”を、少子化に歯止めがかからない状況のもとでも、そのまま維持している。
どう考えても“アウト”なルールだ。
現在、次世代の皇位継承資格者が悠仁殿下お1人だけしかおられない危機に陥っているのは、この欠陥ルールが最大の原因だ。現行ルールの欠陥を解消しない限り、やがて皇位継承は行き詰まり、皇室の存続そのものが難しくなる。
このルールのままなら、悠仁殿下は必ず男子を産むように強く求められることがあらかじめ予想できる状況下で、ご結婚相手を探さなければならないなど、率直に言って厳しいご生涯をたどられることになりかねない。
だから「男系男子」限定という致命的な欠陥の解消は、すでに待ったなしの課題であるはずだ。
■「愛子天皇」実現しないと皇室に将来はない
もしその欠陥が解消されたら、「直系優先」の原則が女性皇族にも適用される。すると天皇皇后両陛下の直系の皇女、敬宮(としのみや)(愛子内親王)殿下がただちに「直系の皇嗣」つまり皇太子になられる。
逆に言えば、敬宮殿下が将来、女性天皇として即位される可能性が切り拓かれない限り、皇室に将来はないということだ。
そのことは、当事者でいらっしゃる皇室の方々ならどなたも理解しておられるはずだ。
秋篠宮殿下が直系と傍系の区別を重んじておられるのも、皇族として当然のたしなみであるとともに、欠陥ルールにもとづく今の皇位継承順序を固定化した先にある“絶望”を、正しく見通しておられるからだろう。

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高森 明勅(たかもり・あきのり)

神道学者、皇室研究者

1957年、岡山県生まれ。国学院大学文学部卒、同大学院博士課程単位取得。皇位継承儀礼の研究から出発し、日本史全体に関心を持ち現代の問題にも発言。『皇室典範に関する有識者会議』のヒアリングに応じる。拓殖大学客員教授などを歴任。現在、日本文化総合研究所代表。神道宗教学会理事。国学院大学講師。著書に『「女性天皇」の成立』『天皇「生前退位」の真実』『日本の10大天皇』『歴代天皇辞典』など。ホームページ「明快! 高森型録

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(神道学者、皇室研究者 高森 明勅)
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