日本の学校に多い謎ルールのひとつに、毎年のように実施される「体力テスト」がある。小学校教員の松尾英明さんは「50メートル走、反復横跳び、握力など各測定項目は何のために測るのか、また測った結果をどう活かそうとしているのか明確ではない。
そのため児童・生徒の身体の成長につながっているか疑わしい部分もある」という――。
■「毎年やるもの」という謎の前提
春になると、多くの小中学校で体力テストが行われる。50メートル走、反復横跳び、握力、長座体前屈など、測定項目は全国的にほぼ共通しており、毎年同じような形で実施されている。秋頃に、その結果(A~Eの5段階で総合評価、前年との比較など)が子どもたちに返却される。
しかし、この恒例の測定イベントは、果たして子どもの成長に結びついているのか。
子どもは結果を周囲の子と比べて「自分はダメだ」と感じたり、保護者も「運動が苦手なのかもしれない」と不安を抱いたりすることがある。発達差の大きい時期に、一律の基準で数値化・比較されることで、運動そのものへの苦手意識につながる可能性もある。
特に小中学生は、体の成長度合の個人差が大きい。各テストの結果は、例えば長座体前屈は本来柔軟性を見る種目であるはずが、単に身長によって差が生じやすい。しかし、体格差への配慮は皆無である。つまり、同級生を一律の基準で判定するのみで、各児童・生徒の運動能力を正しく評価しているかどうか疑わしい。
■長期間維持されている測定の枠組み
現在実施されている体力テストは、文部科学省による「新体力テスト」として1998年に導入されたものである。
導入から四半世紀以上が経過しているが、測定項目の基本的な構造は大きく変わっていない。
社会環境や子どもを取り巻く状況が大きく変化する中で、同一の枠組みが長期間維持されているという事実は、それ自体として一つの特徴といえる。
■データは蓄積されているが、活用は限定的
文科省の調査においても、子どもの体力水準は長期的には回復傾向が見られるものの、地域差や生活習慣との関連が指摘されている。体力テストは全国的に実施されており、長年にわたり継続的なデータ収集が行われている。子どもの体力の傾向や変化を把握するという点では、一定の役割を果たしてきた。
一方で、現場では前述した課題・問題点のほかこうした声も聞かれる。
・測定はするが、その結果が個別の指導に十分活かされていない。

・記録は残るが、日常の運動習慣にはつながらない。

・測定と指導のあいだに、距離がある。
■学校現場で起きている構造
データ活用が限定的である背景には、現場特有の構造がある。
一つ目は教師である。体力テストは年間計画に組み込まれており、実施しないという選択は現実的に取りにくい。
測定は「やるべき業務」として位置づけられている。
二つ目は制度である。全国的に同じ項目で測定することで、比較可能なデータが得られる。この仕組みは合理性を持つ一方で、内容そのものの見直しが行われにくい構造でもある。
三つ目は保護者・社会である。体力低下が問題として語られる中で、「測定している」という事実は安心材料として機能する。
こうして、
・実施せざるをえない現場

・継続を前提とした制度

・測定を求める社会
という均衡=惰性的な実施になってしまう。
この構造は、特定の誰かの意思というよりも、結果として「やっていること自体が目的になる」状態を生みやすい。それでは、時間の浪費と言われてもしかたないかもしれない。
■「測定すれば改善する」という前提
本来、体力テストは手段である。子どもの状態を把握し、指導に活かすためのものである。
しかし現場では、
・測定すること

・記録を残すこと
自体が目的となっている場面も見られる。

背景にあるのは、「測定すれば改善につながる」という思いや願いがある。それは必ずしも誤りではないが、惰性的に実施されることで、手段と目的の関係が曖昧になりやすい。家計簿を漫然とつけても、家計改善につながるとは必ずしも言えないのと同じで、ただ体力の記録を残してもあまり意味はないようにも思える。
■測定が「目標化」する場面
にもかかわらず、学校は律儀に体力テストを実施する。なぜなら、テスト結果(数字)が一定の基準を満たすと表彰の対象になる場合があるからだ。地域によっては外部団体から賞状や記念品が授与されることもあり、学校単位での成果として扱われることもある。
あとわずかな記録の差で評価が変わる場合、測定をやり直して、より高い評価を目指す学校もある。また、どの種目で記録を伸ばすかを検討し、短期間で数値を上げることに焦点を当てる学校もある。一度高い成果を出した学校では、その状態を維持しようと全校を挙げて体力テストを頑張ろうというムードを作り出すこともよくある。
繰り返すが、体力テストは各子どもの身体の状態を把握するための手段である。ところが、実際はその結果が評価や表彰と結びつくことで、「測ること」から「より高い数値を目指すこと」といった競争になってしまう面が多々あるのだ。
■子どもの運動環境とのズレ
近年の子どもの生活スタイルは、かつてと比べて
・運動する時間の減少

・遊ぶ空間の制約

・仲間関係の変化
と言われている。

いわゆる「三間」(時間・空間・仲間)の喪失が指摘され、子どもの運動時間の減少や、屋外で遊ぶ機会の減少が多くの調査でも指摘されている。
こうした環境の中で、従来と同じ測定項目を実施することが、どこまで実態に即しているのか。
■測定項目と生活実態の関係
例えば、体力テストの種目の一つに「ソフトボール投げ」がある。
物を遠くに投げる能力を測定するものだが、現在の子どもたちの生活環境を考えたとき、その経験機会は大きく減少している。とりわけ都市部では、広い空間で自由にボールを投げる機会そのものが限られている。安全面や環境の制約から、日常生活の中で遠くに投げる動作を繰り返す場面は多くない。
野球を筆頭とした球技に取り組んでいる子どもは、こうした動作に慣れており、同じ年齢でも経験機会の差がそのまま記録に反映されやすい種目といえる。
こうした点を踏まえると、測定されている能力が、現在の生活環境の中でどの程度意味を持つのかという視点も必要になる。
■測定方法と安全性の観点
体力テストの種目の中には、「20メートルシャトルラン」のような種目もある。これは持久力の測定として用いられているが、実施時期(気温など)や体調の影響を受けやすい条件の中で行われることもある。
また、安全面から見ると、学習指導要領には持久走(2~6分程度、自分のペースで無理なく走る力を養う)が設定されているが、シャトルランは時間も負荷も含めて、ここに全く当てはまっていない危険な運動でもある。特に高い記録を出す児童・生徒の場合、走り終わった直後に倒れ込むことも少なくない。
子ども自身の意思と裁量で、自分を限界まで追い込むことも、適当に終わらせることもある運動なのである。
こうした点を踏まえると、測定そのものの妥当性だけでなく、実施方法や安全面の配慮についても、あらためて検討する余地がある。
■「今の時代に必要な体力」とは何か
さらに問われるべきは、そもそも何を測っているのかという点である。
現在の体力テストは、主に数値として測定可能な能力を対象としている。しかし、現代において求められる身体の使い方は、必ずしもそれだけではない。
・継続して体を動かす習慣

・仲間と関わりながら活動する力

・無理なく続けられる運動との出会い
こうした要素は、単発の測定では捉えにくい。
「今の時代に必要な体力とは何か」という問い自体が、十分に整理されないまま、ただ測定を続いても意味がない。
■少しずつ見られる別の方向
一部の学校では、体力テストの結果を単なる記録としてではなく、「人生100年時代」を生きる子どもの日常の運動習慣づくりに結びつける試みも見られる。
つまり、測定そのものよりも、
・日常的に体を動かす機会

・楽しさを感じる活動
に重点を置いたやり方だ。
こうした取り組みはまだ限定的ではあるが、「測ること」から「育てること」へと視点を移す動きと見ることができる。
■「続けるかどうか」ではなく「何のためか」
体力テストをめぐる議論は、「必要か不要か」という形になりやすい。しかし、問題の本質はそこにあるのではない。

何のために測るのか。
測った結果をどう活かすのか。
それは子どもの成長につながっているのか。
体力テストは、「続けるかどうか」ではなく、「何のために行うのか」という前提から見直される必要があるのかもしれない。
測定は手段である。その目的が、あらためて問われている。

----------

松尾 英明(まつお・ひであき)

公立小学校教員

「自治的学級づくり」を中心テーマに千葉大附属小等を経て研究し、現職。単行本や雑誌の執筆の他、全国で教員や保護者に向けたセミナーや研修会講師、講話等を行っている。学級づくり修養会「HOPE」主宰。『プレジデントオンライン』『みんなの教育技術』『こどもまなびラボ』等でも執筆。メルマガ「二十代で身に付けたい!教育観と仕事術」は「2014まぐまぐ大賞」教育部門大賞受賞。2021年まで部門連続受賞。ブログ「教師の寺子屋」主催。

----------

(公立小学校教員 松尾 英明)
編集部おすすめ