自然災害、紛争、感染症などから人々の生命や健康を守る「国際医療支援」の活動とはどのようなものか。医師の鎌田實さんは「原発事故が発生したチェルノブイリに調査に入ったことがある。
そのとき、現地の医師からとても大事なことを教えられた」という――。
※本稿は、黒柳徹子、鎌田實『トットちゃんとカマタ先生のずっとやくそく』(実業之日本社)の一部を再編集したものです。
■難民キャンプで出会った3歳の少女
ヨルダンの難民キャンプで出会ったのは、アムルという名のかわいい女の子だった。彼女はしっかりした顔立ちで、診察の間じゅう、大きな目でぼくを見つめていた。聴診器を当てても泣かない。けれど、3歳にしてはあまりに小さな体つき。クル病で、骨が成長していないのだ。お母さんが、病院で撮ってもらったレントゲン写真を持って来てくれたが、それを見るとまるで80歳のおばあさんのような骨だった。骨粗鬆症(こつそしょうしょう)という病気を聞いたことがあるだろう。骨が、すの入った大根のようにスカスカになってしまう、日本では高齢の方に多い病気だ。3歳のアムルの骨は、成長が悪いうえに、スカスカの、骨粗鬆症かと思えるような骨なのだった。
イラクの激しい戦闘を避けて、やっとの思いで隣の国にたどりついたものの、待っていたのは日の当たらない昼間も暗いアパートの生活。
貧民街。十分な食べものもなく、栄養が足りない。クル病になってしまっていた。
診察を終えたとき、アムルのまっすぐなまなざしに、ぼくは思わず手を差し出した。アムルもぼくのほうへ両手を差し出したので、さっと抱き上げた。
■戦争は人のいのちを軽くする
軽いなあ。
日本の3歳の子どもの半分ぐらいの体重しかないようだ。ぼくには1歳半になる孫がいる。その孫よりも、アムルは軽い。軽さが、アムルのいのちの軽さをも表しているように思えて、なんともせつなくなった。
戦争は人のいのちを軽くする。
できることなら、この子の未来をつなげてあげたい。
ちゃんと栄養のあるものを食べられるようにしてあげたい。しっかり治療をしてあげたいと思った。いや、アムルだけではない。イラクで、ヨルダンで診察した子どもたち、ひとりひとりに、そういう思いがわき上がって来るのを止めることはできなかった。
でも、日本に子どもを連れて来ることは考えなかった。
ぼくはその15年前に、大切なことを学んでいた。
ぼくは、チェルノブイリで出会った小児科医のタチアナの言葉を忘れない。
タチアナとの、大切な約束があった。
1986年、当時のソビエト連邦で、チェルノブイリ原子力発電所4号炉の大爆発事故が起きた。風下の町や村に「死の灰」が降りそそぎ、その汚染によって、やがて子どもたちの白血病や甲状腺障害が多発した。死を待つばかりの子どもたちをなんとか助けてほしいと、信州のぼくたちの小さな病院にまで救いを求める声が届いたのは、事故から4年後のことだった。
■日本の医療を受けさせたいと思ったが…
正直に言えば、まさかぼくがチェルノブイリにまで出かけることになるとは思ってもいなかった。

地域の医療、信州の健康作りで、小さな病院の仕事は忙しく、手一杯だったのだ。
けれど、「死を待つだけの小児病棟の子どもたちを助けて」という悲鳴のような声を放ってはおけず、ぼくたちは1991年、JCF(日本チェルノブイリ連帯基金)というNGOを作り、チェルノブイリに調査に入った。
その最初の調査で、ウラジミル君という8歳の少年に出会った。少年は白血病で、非常に厳しい状況にあった。医療器材も薬も知識も不足している小児病棟で、ろくろく治療も受けられずにいたウラジミル君を抱いて、お母さんが言った。
「このままでは死んでしまいます。なんとしてもこの子を助けたい、日本に連れて行って助けてください」
泣きながら訴えるお母さんの真剣な表情に、ぼくは思わず心を動かされた。できることなら連れて行って日本の進んだ医療を受けさせてあげたいと思った。
■「ぼくは恥ずかしかった」
そして彼の主治医であり、病棟のリーダーであったタチアナ先生に相談したのだ。するとタチアナ先生は思いがけないことを言った。
「たしかにあの子はとても重い状態です。いまのこの病院では十分な治療を受けられないかもしれない、日本なら助かるかもしれない。
けれど、ひとりだけ日本に連れて行ってもらっても、いまこの地で起きていることの解決にはなりません。この病棟の子どもたちはみな、生きたいと思っています。だから、私を教育してください、私がしっかり勉強して必ず子どもたちみんなの力になります。どうぞ私を信用して、すべての子どもたちにチャンスを与えてほしい。そうでないと問題の解決には近づけません」
ぼくは恥ずかしかった。ウラジミル君を日本で助けることができれば、みんなの希望になるのではないかと思ったけれども、そうじゃないんだと気がついた。
ほんとうに大事なのは、この国のこの地域で、この地に生きるおとなたちが子どもたちを助けられるようにすること。支援とは、その全体を応援することなんだ。救援活動とは、現地が少しずつでも力をつけて、子どもたちを救えるようにすることなんだ。
こうしてぼくは、海外での支援のいちばんはじめに、このとても大事なことをタチアナ先生に教えられたのだ。
■10年後のウラジミル君とタチアナ先生
それからぼくたちは、病気の子どもたちを救うために、日本とベラルーシで一緒に動いた。ベラルーシには世界のいくつものNGOからの支援があったが、困ったことも起こっていた。
物資のないあちらでは、せっかく送った薬や医療機器がどこかで消えてしまい、目的の病院に届かないということがしばしば起こっていた。しかし、ぼくらがタチアナ先生あてに送ったものについては、一度もそんなことは起こらない。しかも届いた薬や医療機器はとても大切に使われていた。
10年後、ぼくは成長したウラジミル君と再会した。タチアナ先生は約束どおり、勉強して優秀な医者になり、ぼくらが送った薬を使ってしっかり治療をし、彼を救った。子どもたち全員を救えたわけではなかったけれど、彼女がいたから多くの子どもが生きることができた。
そのかけがえのないパートナー、タチアナ先生は、残念ながら2003年12月に亡くなった。乳がんだった。骨転移もあった。長い闘病生活の中で、なんどもなんども奇跡的な回復をして、そのたびに子どもたちの病棟に戻り、ついには骨髄転移で歩けなくなった。それでも小康を得ると歩く練習をして、子どもたちのところへ戻って行くのだった。いつも笑顔をたたえて。

医者としてすごい仕事をしながら、病棟ではお母さんのような存在として、子どもたちを支えていたタチアナ先生。彼女がいたからぼくたちは支援を続けられたと言っても言い過ぎではない。
■「ずっと約束」
そしてもうひとつ、タチアナ先生は大切なことを教えてくれた。
人間を、政治の違いや宗教の違い、国の違いで見てはいけない――。ぼくはタチアナ先生と一緒に仕事をして、つくづくそう思った。
ぼくはタチアナに約束した。ずうっと応援するよ。君が放射能汚染の大地の子どもたちを守り続けようとする間は、ずうっと応援するよと約束した。子どもたちの未来を守ってあげようと語り合った。ぼくたちは同(おな)い年だった。気が合った。脊髄にまで転移が広がったとき、ぼくは彼女の病院にお見舞いに飛んで行った。神経麻痺のために、手足はまったく動かなかった。でも彼女は、いつものタチアナスマイルでぼくを迎えてくれた。
ぼくはハグしながら耳もとでささやいた。「ありがとう」。
タチアナからも片コトの日本語が返ってきた。「ア・リ・ガ・ト・ウ」。
ずっと約束。2人の約束。子どもたちの命を守ろう。ずっと約束ね。忘れないよ、だいじょうぶ。
彼女はしばらくして亡くなった。ぼくはタチアナ先生との約束をいまも忘れていない。86回、医師団を送り込んで、約14億円分の薬を送ってきた。これからも、ゆっくり応援していこうと思う。耳もとでささやいたタチアナの声がいまも聞こえる。ずっと約束……ね。

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鎌田 實(かまた・みのる)

医師・作家

1948年、東京都生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業後、諏訪中央病院に赴任。「地域包括ケア」の先駆けをつくり、長野県を長寿で医療費の安い地域へと導く(現在、諏訪中央病院名誉院長)。現在は全国各地から招かれて「健康づくり」を行う。2021年、ニューズウィーク日本版「世界に貢献する日本人30人」に選出。2022年、武見記念賞受賞。ベストセラー『がんばらない』(集英社文庫)ほか書多数。チェルノブイリ、イラク、ウクライナへの国際医療支援、全国被災地支援にも力を注ぐ。現在、日本チェルノブイリ連帯基金顧問、JIM-NET顧問、一般社団法人 地域包括ケア研究所所長、公益財団法人 風に立つライオン基金評議員ほか。

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(医師・作家 鎌田 實)
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