「アンパンマン」の作者やなせたかし氏が妻と結婚したいきさつが、朝ドラ「あんぱん」(NHK)でもモチーフとして描かれる。作家の青山誠さんは「やなせ氏は高知新聞社に入り、同僚の小松暢さんと東京へ出張。
そこで彼女に介抱され恋仲になった」という――。
※本稿は青山誠『やなせたかし 子どもたちを魅了する永遠のヒーローの生みの親』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
■やなせが新聞社で出会った小松暢は気が強く、押しも強かった
この他に小松暢(のぶ)の高知新聞社時代のエピソードは数知れず、なかでも有名なのが、広告費の集金にまつわる武勇伝だろうか。
広告費の集金も編集部の仕事で、暢が主にそれを担当するようになる。これが大変な仕事だった。地方雑誌の広告主には地元の個人商店が多く、自転車操業の零細企業は毎月のやり繰りに苦労している。広告費を払うのが惜しくなって、出し渋る店主も珍しくない。
暢は女ながらに編集部ではいちばん気が強く、押しも強い。適任と評価されての抜擢だったのだろう。その性格を知らないある商店主が、広告費を払わずしらばっくれ、あげくに女だからと舐なめた態度に出てきた。それが彼女の逆鱗に触れてしまい、
「ふざけんじゃないわよ。払うの、払わないの! はっきりしなさい!」
大声でタンカを切り、持っていたハンドバッグを店主めがけて投げつけた。
バッグは顔面にみごと命中。小馬鹿にして薄笑いを浮かべていた店主は、すっかり青ざめ怯えてしまう。平身低頭しながらすぐに金を出してきた。
小柄で細身な暢は、黙っていると気弱そうにも見える。そのギャップがよけいに人を驚かせた。この一件は昼間の商店街だったこともあり目撃者が多く、高知の街で話題になったのだとか。
いつしか社内では“ハチキン”のあだ名で呼ばれるようになっていた。土佐弁で「お転婆」「男勝り」を意味する言葉だ。また、ハチキンには世話焼きで面倒見のよい姉御肌といった印象もあり、褒め言葉でもあるようだった。
■終戦から1年、雑誌の取材のため東京へ一緒に出張した
仕事が軌道に乗ってきた夏の頃。東京特集が企画され、編集部全員が上京して取材をすることになった。この時にも暢のハチキンぶりが、面倒見の良さのほうで発揮される。

終戦から1年が過ぎても、交通機関のひどい状況は変わらない。空襲で疲弊した鉄道の補修は進まず、列車が遅延するのは常。車両不足で運行本数が少なく、夜行の長距離列車がラッシュ時の通勤電車なみに混みあっている。通路にでも座ることができればまだマシなほう。連結部で数時間立ち続けている者や、車内に入れずデッキの手すりにしがみついている者もいる。
暢は陸上部で鍛えた韋駄天ぶりを発揮して、素早く車内に乗り込み人数分の居場所を確保する。グスグスしていようものなら、
「やなせ君、こっち。早く!」
と、しかられる。同級生なだけに、この頃は気安く君づけで呼ばれていた。
■やなせは暢のような女性にリードされるほうがありがたかった
どこか頼りなく見えていたのだろうか、強気な彼女によくリードされる。この時代はまだ男尊女卑の考えが根強く、そういった態度を不快に感じる男性は多かっただろう。が、やなせは嫌ではなかった。
むしろ、そのほうがありがたい。
これまで女性と接する機会がなく、どうコミュニケーションを取ればよいのか分からない。だから、相手からグイグイ距離を詰めてくれるほうが助かる。また、気が強くて颯爽とした美人というのは、小学生の時に離れ離れになった母親とイメージがかぶる。考えてみれば母もハチキンの部類だった。惚れてしまった理由にはそれもあるのだろう。
■東京駅など、空襲で破壊されたままの東京にショックを受ける
高知から四国山脈を越えて高松へ。そこから連絡船で瀬戸内海を渡り、岡山から幾度も列車を乗り換えてやっと東京駅にたどり着く。長く辛い旅だったが、やなせは久しぶりの東京に心を躍らせていた。しかし……ホームの階段を降りると、そこにはまだ戦争の傷跡が生々しく残っている。東京駅も空襲で甚大な被害をうけていた。復旧工事が完了しておらず、壁が崩れ落ち折れ曲がった鉄骨がむき出しになっている。

駅前広場に出て後ろを振り返れば、駅の象徴だった南北のドームが見あたらない。焼夷弾(しょういだん)の直撃で駅舎の屋根がすべて焼け落ち、いまは天井をトタンで塞ぐ仮補修がされていた。華麗なルネッサンス様式のドームが、貧相なトタン屋根に変貌している。眺めているうちに、躍る心もすっかり萎(な)えてしまう。
駅から歩いて高知新聞東京支局に向かった。その途中で目にした街の眺めにも驚かされる。空襲で破壊されたまま放置されている建物がそこかしこに、コンクリートの瓦礫(がれき)や焼け焦げた木材が転がっている。通りには垢(あか)にまみれた行き場のない人たちや傷痍(しょうい)軍人の姿が目立つ。
「高知のほうが、よっぽどマシだな」
そう思った。高知市内ではもう瓦礫がすべて撤去され、官庁や会社は建物を再建して街の機能を回復している。行き場のない人たちや戦災孤児を見かけることもない。都市が大きくなればなるほど、復興には時間を要するものだ。

■東京支局で「おでん」を食べ中毒に、暢に介抱される
支局に着くと、東京在住の職員がおでんを振る舞ってくれた。近くの闇市から食材を仕入れてきたという。道中の京都で手持ちの食料が尽き、一昼夜なにも食べていなかった。鍋で煮えるタマゴや大根の匂いに食欲が刺激されて一心不乱に食べた。
空腹のあまり食材が傷んで悪くなっていることに気がつかず、翌日には食中毒でみんな瀕死(ひんし)の重症に陥ってしまう。暢だけが無事だった。腹を空かせた男連中にいっぱい食べさせてやろうと、遠慮気味に箸を出したのが幸いした。
彼女は薬を求めて街を走りまわり、献身的に看護してくれた。熱と腹痛にうなされて気弱になっていたやなせは、優しく頼り甲斐のある暢にますます惚れてしまう。回復した頃にはすっかり恋の虜(とりこ)になっていた。
「結婚したい」
と、思うほどに。だが、結婚どころか交際を申し込む勇気もなかった。

■「ふとしたはずみで小松さんにキスしてしまった」
ところが、である。東京から戻って秋になった頃、ふたりはデートやキスを経験して恋愛関係になっていた。いったい何があったのか?
「愛の告白はしませんでしたが、ふとしたはずみで小松さんにキスしてしまった。」

(『人生なんて夢だけど』より)
いつからそうなったのか、詳細ははっきりしない。自然に距離が近づいて、いつのまにか恋人同士になっていた。と、いうことだが。
男女の恋愛関係を成立させるのに「告白」という儀式が必要になったのは、戦後しばらく経ってからのこと。世界的に見ても珍しい風習だという。この頃は日本でもまだ、そんな風習はなかったようだった。だから「いつから、つき合っているの?」などと、今風な質問をされても答えられない。
東京での食中毒事件の際にはやなせが最も早く回復している。動けるようになると暢と協力しながら、まだ食中毒に苦しんでいる同僚の分まで仕事をこなした。取材や打ち合わせなどで一緒に行動することも多くなり、仲が深まるシチュエーションがたくさんあったのだろう。

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青山 誠(あおやま・まこと)

作家

大阪芸術大学卒業。近・現代史を中心に歴史エッセイやルポルタージュを手がける。著書に『ウソみたいだけど本当にあった歴史雑学』(彩図社)、『牧野富太郎~雑草という草はない~日本植物学の父』(角川文庫)などがある。

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(作家 青山 誠)
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