■イントロダクション
新宿と八王子・橋本を結ぶ路線を主線とし、多摩地域など東京都西部と神奈川県北部に84.7キロの路線網を広げる京王電鉄。井の頭線、相模原線、高尾線含めて一日約160万人(2023年度)の足となっている。
首都圏交通の大動脈の役割を担う大手私鉄の一つだが、その歴史を繙くと「個性派」というべき特徴が見えてくるという。
本書では、京王電鉄の歩みを辿りながら、今日に至るまでの複雑な経緯を説明する。
明治末期から大正初期にかけて、東京と多摩地域の繁栄をめざして計画された京王電鉄は、路面電車として運行を開始。戦時下の「大東急」との合併・分離独立、相模原線の開業といった転換点を経て、独自の地位を獲得していったという。さらに、京王線が1372ミリという特殊なレール間隔を使用していることや、相模原線の前身が砂利運搬線だったことなど興味深い逸話も紹介している。
著者はフリーランスの鉄道ジャーナリスト。鉄道や旅を主なテーマとして執筆しており、鉄道や鉄道模型に関する書籍やムックなど、多数の著書・編著書がある。
1.甲州街道を走る路面電車で創業~複雑な歴史
2.貴賓車から京王ライナーまで~車両は多彩
3.砂利輸送と市電直通~意外な運転歴
4.京王の駅、その意外な生い立ち
5.私の沿線散歩~京王にハマる、とっておきスポットへ
■東京の「京」と八王子の「王」で「京王」
現在の京王電鉄となる鉄道は、1905(明治38)年に「日本電気鉄道株式会社」という壮大な社名を掲げて産声を上げた。1910(明治43)年4月12日に社名を「京王電気軌道株式会社」とする。
明治末期、現在の東京23区に概ね相当する東京市の人口はようやく200万人を突破したところ。甲州街道沿いは、内藤新宿、下高井戸、調布、府中、八王子など宿場町から発展した町以外は田畑が広がる田園地帯だった。そして甲州街道界隈の交通機関は馬車や人力車のほか、多摩川などの水運に頼るだけだった。
■開業時はなんと路面電車だった
(*京王電気軌道の会社創立)総会ではこのような実態を訴えつつ、鉄道開通の折には沿線が「たちまち東京府下における重要な副市街」(『京王帝都電鉄三十年史』による)になると断言している。
総会の最後には「本会社の鉄道敷設は、東京市および三多摩郡一円を始め、多摩南岸における神奈川県の一部に多大な実益と趣味を与え、新生面を開くにいたる」と述べられている。京王電気軌道の設立には、まさに現在の京王電鉄の姿をめざす理念がこめられていたのだ。
京王電気軌道は、1913(大正2)年4月15日、まず笹塚~調布間12.2キロを開業した。当時の軌間(*左右のレールの間隔)は(東急世田谷線や都電荒川線など)路面電車で多く採用されている1372ミリで、これが今日まで続いているため、今や日本の都市間高速鉄道では京王だけである。つまり、現在のような近代的な姿からは想像もつかないが、開業時の京王線は、なんと路面電車だったのだ。
■1944年の「大東急」との合併
1937(昭和12)年、日中戦争が勃発。政府は1938(昭和13)年に『陸上交通事業調整法』の公布後、東京の私鉄に対しては6つの地域に分け、中央本線以南は西南ブロックとして事業調整や統合を進めた。
五島による体制がつくられ、(*小田急電鉄と京浜電気鉄道を合併した、五島が率いる)東京急行電鉄は、その後も吸収合併を続け、最終的に営業総延長330余キロに達した。戦後の新生・東京急行電鉄(現・東急電鉄)と呼び分けるため、“大東急”とも称されている。
こうした状況の中、京王電気軌道は独自の道を歩み続けていた。東京急行電鉄発足に前後し、五島側からは再三合併を促す働きかけがあったが、当時、京王電気軌道の会長に就任していた井上篤太郎が合併に反対し続けていた。
しかし、1941(昭和16)年に施行された『配電統制令』が京王電気軌道を窮地に追い込んでいく。同社の配電事業一式が関東配電へ譲渡されたのだ。これで大きな収入源が絶たれた。ついに京王電気軌道も東京急行電鉄との合併を受け入れることになり、1944(昭和19)年5月31日に合併、その運営は同日発足した京王営業局となったのである。
ところが、1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎え、1947(昭和22)年には『独占禁止法』『過度経済力集中排除法』などが施行され、巨大化した企業の解体分離が推進されるようになる。
■戦後の分離独立を経て、井の頭線を運営
こうした社会情勢の中、大東急こと東京急行電鉄の社内でも合併前の各社従業員から分離独立を求める意見が出てきた。これを受けて社内に委員会が設けられ、最終的に東京急行電鉄から京王・小田急・京浜の各鉄道、および百貨店が分離独立することになった。
井の頭線は帝都電鉄として発足し、小田急電鉄と関連の深い路線だったが、京王の所属となった。ここから会社名も井の頭線を開業した帝都電鉄を折り込み、「京王帝都電鉄」となったのだ。
ただし、京王線は1372ミリ軌間、直流600ボルト、井の頭線は1067ミリ軌間、直流1500ボルトとなり、車両の大きさなどの規格も異なっていた。ひとつの会社にしたといっても、両者の融通は利かず、現実的には別の鉄道をふたつ運営するようなものだった。
■東京オリンピック前の完成をめざした新宿駅の地下化
1960(昭和35)年6月、東京都は新宿駅の西側にあった淀橋浄水場を移転、その跡地を新宿副都心として再開発する計画を発表。京王帝都電鉄も東京都の都市計画と前後して、独自に新宿駅および新宿~初台間を地下化、甲州街道を走るという問題を解消するとともにターミナルの近代化を計画した。
当時、京王線の新宿駅では1日24万人もの乗降客があり、その輸送を確保した状態での工事は困難を極めた。実は1964(昭和39)年の東京オリンピック開催が決定しており、(*マラソン競技のコースと交差する)区間の地下化は東京オリンピック前の完成が目標となった。
新宿駅の地下化は、地上にあった4本の線路とホームを地下から鉄骨で借り受けして掘削していく工法で、掘り出した土砂は大型トラック5万台に達した。当時の営業運転継続中の鉄道土木工事では前例を見ない大がかりなものとなった。資材不足や人材不足にも悩まされたが、1963(昭和38)年4月1日には新宿駅および同駅からおよそ900メートル区間の地下線が完成、ここを先行開業した。
1964(昭和39)年の6月7日に地下化工事は初台駅の先まで完成、新宿~初台間の約2キロの地下化が完了した。これにより約10カ所の踏切がなくなり、運行上のネックとなっていた途中のSカーブも解消した。
■長年の目標「1キロ1分」を達成
こうした京王線の改良竣工を踏まえ、東京オリンピック会期中の1964(昭和39)年10月19日にダイヤ改正を実施、最高速度を時速85キロから90キロにアップ、新宿~京王八王子間の所要時間を37分とした。同区間は37.9キロで、京王にとっては長年の目標だった「1キロ1分」を達成したのである。
そして新宿駅ビルは東京オリンピックと東京パラリンピックの狭間となる同年11月1日に完成、駅に直結するデパートとして京王百貨店が開店となった。京王にとって東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年は、さまざまな大型事業が完了する大きな節目の年となったのである。
■多摩ニュータウンの「足」となった相模原線
京王電気軌道では、副業として(*道路用や建築用の)砂利採掘とその輸送を行なっていたこともある。実はこうした事業が貴重な収入源となっていたのである。
(*大正時代に開通した)調布~多摩川原間の砂利運搬線は、相模原線の前身でもある。現在、京王電鉄の基幹路線のひとつとなっている相模原線は、八王子・町田・多摩・稲城の4市にまたがって建設された「多摩ニュータウン」の足として計画された路線だ。
多摩ニュータウンの場合、東京都・日本住宅公団(現・都市再生機構)・東京都住宅供給公社が施行者となって事業が進められた。(*民間による不動産開発は認められておらず)沿線各地で不動産事業の展開を行なっていた京王帝都電鉄にとってはうまみが少なく、当初は新線構想に消極的だったともいわれている。
ただし、京王帝都電鉄では地域社会に貢献する公共性という会社方針、さらに多摩ニュータウンの先にある津久井湖方面への観光開発なども鑑み、昭和30年代後半には相模原線構想を具体化する方向で動き始めた。
1971(昭和46)年4月1日には京王多摩川~京王よみうりランド間2.7キロが開通、同日から調布~京王よみうりランド間が「相模原線」となった。さらに、1974(昭和49)年10月18日に京王よみうりランド~京王多摩センター間が開業した。これにより多摩ニュータウンの玄関口まで鉄道アクセスが完成し、(*多摩ニュータウンの)“陸の孤島”の汚名は消えた。
■1990年には調布~橋本間が全通した
京王多摩センター駅から先の延伸工事を見合わせていたが、1983(昭和58)年には多摩ニュータウンの開発が西進、南大沢エリアでの入居が始まることになった。(*南大沢エリアまで走るバスの)輸送力の限界も懸念され、再び“陸の孤島”の危機が迫ったのである。
これに対応すべく1982(昭和57)年12月に京王多摩センター~橋本間を着工した。工事は急ピッチで進められ、1988(昭和63)年5月21日に京王多摩センター~南大沢間4.5キロを開業、1990(平成2)年3月30日には橋本まで開業、調布~橋本間22.6キロが全通した。
※「*」がついた注および補足はダイジェスト作成者によるもの
■コメントby SERENDIP
本書によると、京王電鉄は1997(平成9)年末に、大手私鉄では戦後初となる運賃値下げを実施している。これは昭和から続けられていた、ラッシュ時の混雑を緩和する輸送力増強事業が同年に完了し、工事費に充当するために10年間にわたって運賃に上乗せしていた分を利用者に還元するためだったという。京王電鉄はその長く複雑な歴史の中で、時代の要請や沿線住民の利益とともに、進化を重ねてきたことがわかる。
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