※本稿は、千々和泰明『世界の力関係がわかる本』(ちくまプリマー新書)の一部を再編集したものです。
※本稿の内容は著者個人の見解です。著者の所属組織とは関係ありませんので、ご了承ください。
■世界史が大きく変わった「会談」
歴史のターニングポイント「北のローマ」とも呼ばれるドイツ南部の文化都市ミュンヘン。この美しい街の一角に、広場に面した3階建ての古典様式の建物があります。ドイツの独裁者ヒトラーの、ミュンヘンでの総統官邸として使われていた場所です。
1938年にこの場所で開かれたある外交交渉が、第一次世界大戦後の歴史のターニングポイントになりました。
第一次世界大戦に敗北したドイツは、イギリスやフランスなどの戦勝国から過酷な講和を押しつけられただけでなく、1929年に起こった「世界恐慌」と呼ばれるアメリカ発の世界的な大不況にも直撃されました。
そうしたなか、ドイツではベルサイユ講和条約によって定められた世界の在り方を否定する過激な指導者ヒトラーが登場し、ナチス党を率いて政権を握ります。
ナチス・ドイツは隣の国のオーストリアやチェコスロバキア(現在のチェコとスロバキア)を併合するなど、周辺諸国を侵略し始めました。さらに1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻します。
このようなことを放置したままにすれば、ヨーロッパ全体が「ヒトラー帝国」に飲み込まれてしまいます。そこで同月3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦して、第二次世界大戦が勃発しました。
■スターリングラードの戦いが潮目に
ドイツ軍は事前に協定を結んでいたソ連軍とともに、またたく間にポーランド全域を制圧します。翌1940年にはフランスの大部分を占領して屈服させ、イギリスに対しても本土上陸のための航空攻撃を開始しました。この間にイタリアもドイツ側に立って参戦します。ヒトラーによるヨーロッパ制覇は目前かと思われました。
ところがイギリスはドイツからの攻撃をしのぎきり、いらだったヒトラーは矛先をソ連に転じて、1941年6月にソ連侵攻を開始しました。ところがこれがヒトラー転落の第一歩となります。
一方、同年12月7日(ハワイ時間)に、太平洋で日本軍がハワイの真珠湾にいたアメリカ艦隊を奇襲攻撃しました。これを受けて、前年に日本と三国同盟を結んでいたドイツとイタリアもアメリカに宣戦し、アメリカが第二次世界大戦に加わることになりました。
ヨーロッパでの第二次世界大戦の潮目となったのは、1943年2月にソ連西部のスターリングラードの攻防戦でドイツ軍がソ連軍に敗北したことでした。以後、東部からソ連軍がドイツ本国に向けて攻め返してきます。
■なぜ二度目の世界大戦は避けられなかったのか
これより約130年前に、ヒトラーとまったく同じ失敗をした人物がいました。ナポレオンですね。ナポレオンもイギリスをなかなか攻略できないことに業を煮やしてロシア遠征に向かい、その結果すべてを失ったのでした。なお1943年9月にはイタリアが連合国側に降伏しています。
1944年に入ると、アメリカ・イギリス連合軍がフランス北西部のノルマンディー上陸に成功し、ドイツは連合軍に東西から挟み撃ちにされることになってしまいました。1945年4月、ソ連軍がドイツの首都ベルリンに進撃するなか、ヒトラーは自殺し、5月にドイツは連合国に無条件降伏しました。
敗者は両手を上げて、何でも勝者の言いなりになるというようなかたちの降伏です。連合国はドイツの主権の消滅を宣言します。ヨーロッパでの第二次世界大戦の死者数は、連合国側で3000万人以上、枢軸国側で800万人以上に上りました。
ちなみに第二次世界大戦の結果、ドイツ領は大幅に削られ、近世・近代ヨーロッパの大国であり、ドイツ統一を主導したかつてのプロイセンの領土は、現在ではほとんどがポーランド領とロシア領(飛び地のカリーニングラード)になってしまいました。つい30年ほど前に第一次世界大戦を経験したばかりであったにもかかわらず、なぜ二度目の世界大戦を避けることができなかったのか。そのことを探るうえで重要なのが「ミュンヘン」なのです。
■第一次世界大戦の教訓
前の章では、第一次世界大戦の発生について、「脆弱性による戦争」という分析レンズを学びましたね。復習しますと、積極的に戦争をしたいわけではないけれども、相手に対し手を出さなければ弱みを抱える自分がやられるという恐怖から、戦争に入っていかざるをえない、という戦争発生のメカニズムでした。
そうすると、戦争を防ぐためには、怖がっている相手を脅してはいけない、ということになります。相手を思いとどまらせるどころか、相手を不必要に怖がらせて先に手を出させることになりかねないからです。
ところが、このような第一次世界大戦の教訓を学びすぎ、本来脅してでもとめないといけない侵略を見過ごしてしまったことが、第二次世界大戦につながっていくことになってしまいます。
具体的にみていきましょう。第二次世界大戦はドイツによるポーランド侵攻によって火ぶたが切られました。ただ、ヒトラーによる侵略は、ポーランドをねらったものが最初ではありませんでした。
前に述べた通り、ドイツはポーランド侵攻に先立って、その前年にチェコスロバキアを併合しています。実はこのときイギリスとフランスは、ドイツによるチェコスロバキア併合に反対してやめさせようとするどころか、これを認めてしまっていたのです。
■英仏がヒトラーの横暴を認めたワケ
1938年9月30日、ヒトラーがチェコスロバキアの併合を要求していることをめぐって、ヒトラーと、イギリス、フランス、イタリア首脳が、ミュンヘンの総統官邸で話し合いをおこないました。これが歴史に悪名高いミュンヘン会談です。
当時イギリスとフランスは、ヒトラーの領土要求を受け入れなければ、ドイツと戦争になるかもしれないと恐れていました。一方ヒトラーはミュンヘン会談で、チェコスロバキアがドイツの最後の領土要求だと、イギリスとフランスに約束しました。
そこでイギリスとフランスは、「もしドイツがチェコスロバキア併合を強行すれば、イギリスとフランスはチェコスロバキアを守るために軍事介入する」といったような強い姿勢はとらず、逆にドイツの言い分を聞き入れてしまいます。ドイツとの戦争を避けるため、チェコスロバキアを見捨てたわけです。
ミュンヘン会談を終えたイギリスとフランスは、「チェコスロバキアは犠牲になってしまったが、おかげでドイツとの戦争は避けられ平和が保たれた」とホッとしたのでした。
■「ミュンヘンの教訓」
しかし、ヒトラーの受けとめ方は、イギリス・フランスとはまったくちがっていました。今言いましたように、イギリスとフランスは、ドイツとの戦争を避けるため、チェコスロバキアを見捨てたわけです。
そのような弱腰のイギリス・フランスならば、ドイツがたとえ約束を破って次にポーランドを手に入れようとしたとしても、ポーランドのこともまた同じように見捨てるにちがいない。ドイツと戦争をしたくないからといってチェコスロバキアを見捨てたイギリスとフランスが、なんでポーランドのためにドイツと戦争するのか。ヒトラーがこう考えたのは不自然ではありません。
ミュンヘン会談でのイギリスとフランスの対応は、ヒトラーの侵略を抑えるどころか、結果的には後押しすることにすらなったのでした。ここから得られるのが、「ミュンヘンの教訓」です。
つまり、積極的に戦争をしたがっている侵略者に対し、脅してでもとめようとする代わりに、その言い分を聞いて宥なだめることは、戦争回避にとって実は逆効果だということになります。
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千々和 泰明(ちぢわ・やすあき)
防衛研究所国際紛争史研究室長
1978年生まれ、福岡県出身。広島大学法学部卒業。大阪大学大学院国際公共政策研究科博士課程修了。博士(国際公共政策)。防衛省防衛研究所教官、内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)付主査、防衛研究所主任研究官などを経て、25年より同研究所国際紛争史研究室長。専門は防衛政策史、戦争終結論。主な著書に『安全保障と防衛力の戦後史 1971~2010』(千倉書房、猪木正道賞正賞)、『戦争はいかに終結したか』(中公新書、石橋湛山賞)、『戦後日本の安全保障』(中公新書)、『日米同盟の地政学』(新潮選書)などがある。
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(防衛研究所国際紛争史研究室長 千々和 泰明)