※本稿は、千々和泰明『世界の力関係がわかる本』(ちくまプリマー新書)の一部を再編集したものです。
※本稿の内容は著者個人の見解です。著者の所属組織とは関係ありませんので、ご了承ください。
■日本の第二次世界大戦参戦のきっかけ
ところで、第二次世界大戦はヨーロッパだけで戦われた戦争ではありません。地球の反対側のアジア太平洋では、日本と中国、アメリカ、イギリスが死闘を演じ、終末期にはソ連もここに加わります。
1931年9月18日、日本軍が清王朝の発祥の地でもある中国東北部の満州で軍事行動を起こし、同地域を占領してここに「満州国」という日本の傀儡(操り人形)国家を建国します。満州事変です。清は1911年に革命で倒れ、中華民国が成立しましたが、その後内乱状態となり、そこに日本がつけ入ったのでした。
満州事変ののちも日本による中国侵略は続き、1937年にはついに日本と中国との全面戦争にエスカレートします。日中戦争です。
歴史上、中国の王朝が滅亡すると、国内の諸勢力に加え、周辺の異民族も巻き込んだ大動乱が起こる、ということが繰り返されてきました。
さて、中国はもとより、東南アジアに植民地を持つイギリス・アメリカなど、この地域に利害関係を持つどの国も、日本の勝利を望みませんでした。逆風のなかで、日本による中国での戦いは長期化していきます。
■火事場泥棒的に戦線を拡大
とくに1941年6月に日本の同盟国ドイツがソ連に侵攻しますと、ソ連にとっては、日本が中国と泥沼の戦いに足をすくわれていることが利益でした。ドイツと日本に挟み撃ちにされないためです。
またソ連とともにドイツと戦っているイギリスと、連合国を支援する立場にあったアメリカも、中国に勝利した日本がソ連に矛先を向けることはドイツを利することになるので好みませんでした。
日本が中国との長期戦を戦うためには石油などの資源が不可欠です。しかし日本自身は資源小国ですので、どこからか調達してこなければなりません。そこで日本が目をつけたのが、東南アジアの資源地帯でした。
第一章でみた通り、ヨーロッパやアメリカはアジアの多くの地域を植民地化しており、東南アジアではベトナム、ラオス、カンボジアなどのインドシナはフランスが、フィリピンはアメリカが、マレーシアやビルマ(現在のミャンマー)はイギリスが、インドネシアはオランダが、それぞれ支配していました。
日本は資源獲得を目的として、1940年9月にこのうちフランス領インドシナ北部に軍を進めます。なぜそんな勝手なまねができたかというと、同年6月にフランス本国がナチス・ドイツに負けたからですね。
■アメリカがとった強硬手段
このように日本は満州事変以降、中国や東南アジアで機会主義的な軍事行動を続けてきました。
この間、アメリカなどの国際社会は、日本を抑止することはせず、日本の行動を黙認してきました。ミュンヘン会談ほど露骨ではなくとも、結果的には日本に宥和してきたとさえいえるでしょう。しかし日本に対する宥和は、機会主義的戦争を助長させただけでした。
1941年7月、日本はインドシナ南部にも兵を進めます。さきほど述べたようにドイツが前年にフランスを負かしたことに加え、この年の6月にはソ連に侵攻したため、日本は北のソ連から背後を脅かされる危険を感じることなく、南に向かうことができるようになったのでした。このようにアジア情勢とヨーロッパ情勢はお互いに関連しているのです。
この段階になってアメリカは、ようやく強硬手段に出ました。日本に対する石油輸出の全面的な禁止です。アメリカは、日本の目的はインドシナ北部のみならず、東南アジア全域の支配にあると認識したからです。
日本が東南アジア全域を支配することになれば、アメリカやイギリスの植民地が失われ、資源を得た日本が中国に勝利するだけでなく、ソ連を脅かして、ドイツがヨーロッパを制覇することにもつながりかねません。
■こうして真珠湾攻撃が発案された
ただし、ここでのアメリカの対応は経済制裁にとどまり、日本が侵略をやめなければ攻撃するといったような、強い抑止ではありませんでした。それでも、石油の全面禁輸は日本側に大きな衝撃を与えました。石油がなければ、日本軍がどれだけ軍艦や戦闘機をそろえたところで、ガラクタにすぎなくなってしまいます。
アメリカは日本に対し、強烈な経済制裁をくらわすことで、日本による機会主義的戦争のエスカレーションを抑止しようとしました。日本軍といえども、石油がなければ戦えまい。であれば、東南アジアや中国の占領地から撤退するしかなくなるだろう。これがアメリカのねらいでした。
ところが日本軍は、アメリカに屈服することなくこの窮地から脱することができそうな、とんでもない作戦を思いついてしまいました。日本海軍連合艦隊司令長官の山本五十六提督が立案した、真珠湾のアメリカ艦隊に奇襲攻撃をかけて壊滅させるという作戦です。
さらに日本は、同盟国ドイツがイギリスを下せば、アメリカは日本と戦う意欲をいよいよ失い、最終的には引き分けに持ち込めるだろう、とも見積もりしました。アメリカが手を引けば、日本は東南アジアの資源地帯を確保でき、そうすれば中国との戦争を際限なく続けられるというわけです。
■2300万人以上が犠牲に
日本にとっての主戦場は中国であり、東南アジア侵攻はあくまで中国戦線を維持するための手段でした。
ところが真珠湾を攻撃してみたものの、実は日本軍の標的だった米空母(航空母艦。多数の飛行機を乗せることで世界中の海で戦力を展開できる)はほとんど出払ってしまっており、この作戦は軍事的には失敗でした。
しかもアメリカは日本による奇襲で戦う意欲を失うどころか、逆に怒り狂い、日本が無条件降伏するまで徹底的に戦うという道を選びました。
ドイツ勝利のあても外れ、日本は広大な中国戦線を抱えながら、太平洋で空母を展開するアメリカ軍の反撃に追い詰められていきました。日本本土も、アメリカ軍による爆撃で壊滅的な被害を受けることになります。
1945年8月、アメリカは広島と長崎に対し核兵器を使用し、ソ連も対日参戦したことで、進退きわまった日本は連合国側に無条件降伏することになりました。ここにいたるまでの死者数は、アメリカ側約10万、日本側約300万でした。このほかに、アジア太平洋全域で2000万人以上が死亡したとされています。
■日本の侵略がエスカレートしたワケ
最近は太平洋戦争を直接知る世代が少なくなってきています。わたしの子供時代は周囲に戦争経験者がいるのがまだ当たり前でした。
ビルマに陸軍少尉として出征した父方の祖父は、退却の際に軍が用意したバスに乗り遅れたことで命拾いしたそうです。
母方の祖父は、戦場で撃たれた片足が一生不自由でした。母方の大叔父は、日本軍がほぼ全滅した硫黄島からの数少ない生還者でした。戦争の記憶が風化することのないようにしていかなければなりませんね。
真珠湾攻撃に先立つ日本による中国や東南アジアへの侵略は、ドイツの場合と同じく、機会主義的戦争でした。また日本以外の国際社会を主語にすれば、日本に対し長らく抑止ではなく宥和に近い対応をとってしまったことが、日本の侵略をエスカレートさせることにつながったといえます。
■東條英機が放ったとんでもないひと言
加えて、アメリカは日本を抑止するタイミングを逃し続け、ようやく日本に強硬姿勢をとったときには、日本の脆弱性を刺激する結果になってしまったといえそうです。資源に関して脆弱性を持つ日本は、石油の全面禁輸によって干上がらされる前に、真珠湾奇襲という一か八かの大バクチに打って出た、と考えられるからです。
真珠湾攻撃の直前、東條英機陸軍大臣(真珠湾攻撃時は首相)は戦争反対論者に対して、「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と語ったといいます。
京都の清水寺の舞台は崖の上にあり、そこから飛び降りるには死ぬ覚悟が必要ですから、それくらいの一世一代の決心、という意味ですね。そしてこのたとえ話とほとんど同じことを、日本は本当に実行してしまったのです。
第二次世界大戦は、第一次世界大戦をさらに上回る膨大な犠牲者を出しました。
----------
千々和 泰明(ちぢわ・やすあき)
防衛研究所国際紛争史研究室長
1978年生まれ、福岡県出身。広島大学法学部卒業。大阪大学大学院国際公共政策研究科博士課程修了。博士(国際公共政策)。防衛省防衛研究所教官、内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)付主査、防衛研究所主任研究官などを経て、25年より同研究所国際紛争史研究室長。専門は防衛政策史、戦争終結論。主な著書に『安全保障と防衛力の戦後史 1971~2010』(千倉書房、猪木正道賞正賞)、『戦争はいかに終結したか』(中公新書、石橋湛山賞)、『戦後日本の安全保障』(中公新書)、『日米同盟の地政学』(新潮選書)などがある。
----------
(防衛研究所国際紛争史研究室長 千々和 泰明)