2007年以降、法務省の出入国在留管理庁(入管庁)の収容所では18人が死亡している。なぜこのような事態になっているのか。
龍谷大学矯正・保護総合センター嘱託研究員の廣末登さんは、7年間入管施設に収容されていたスリランカ国籍のダヌカさんに取材した。彼が体験した衝撃の日々とは――。
■「入管」で人が死んでしまう不可思議
日本社会は、一見、来日外国人を包摂しているように見える。だが、何年もの間、施設に閉じ込められたまま、いつ出られるのかもわからない人たちがいることをご存じだろうか。
出入国在留管理局(入管)には、「緩慢な死」を待つ人たちがいるのだ。
入管施設というのは、在日外国人収容者を母国に返すための「準備」の場である。だが、収容や解放の判断に司法の介在がなく、期間も無期限だ。
名古屋出入国在留管理局で、2021年3月、収容中に亡くなったスリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんの件は記憶に新しい。
「日本の子どもたちに英語を教えたい」と夢見て来日後、日本語学校で学んでいたウィシュマさんだが、同居人のパートナーからのDVの結果、学校を休みがちになり除籍。在留資格を失った。2020年8月、暴力から逃れるために警察に駆け込んだところ、在留資格がなかったため、名古屋入管施設に収容された。
2023年1月から体調を崩し全身がしびれ、歩行不能になった。
体調悪化で仮放免(一時的に収容を解かれること)を求めるも不許可。2度目は可否の判断すらされなかった。
■「国際法違反」と指摘されている日本の入管
外部の医師からは「内服できないのであれば点滴、入院」との指示があったが、入管職員は点滴治療や入院措置を行わなかった。その直後、職員の呼びかけに応じないウィシュマさんは、搬送先の病院で亡くなった。

※東海テレビニュースワン「暴力に耐えかね交番へ…入管からの『仮放免』求めた外国人女性の死が問う”難民鎖国ニッポン“の問題」2021年6月21日
2007年以降、入管施設では18人が死亡している。2020年に、国連人権理事会の「恣意的拘禁作業部会」が、日本の入管の実態を「国際法違反」と指摘しているが、事態は変わっていない。むしろ「第2のウィシュマさん」といえるようなケースが起きているのだ。
筆者は、ウィシュマさんの事件を風化させないため、そして、二度と同様の犠牲者を出さないために筆をとった。日本社会で日が当たらない暗部で苦悩し、助けを求めた一人のスリランカ人青年が語る阿鼻叫喚の地獄を紹介する。
■残酷で緩慢な死
「ウィシュマさんより私が先に死んでいてもおかしくなかった」
スリランカ人のダヌカ(本名ダヌカ・ニマンタ・センヴィラタナ・バンダーラ)さんはそう話す。
「私の苦境を家族や友人に伝えましたが、『日本がそのような不当な扱いをするはずがない』と誰も信じてくれないのです」
いったい彼はどんな目に遭ったのか。
ダヌカさんは、1998年16歳のとき、知り合いのブローカーに貯金の100万円を渡し、年齢を20歳と偽り(スリランカでは未成年単独の渡航は認められない)、チャミンダという偽名で成田空港の土を踏んだ。


日本に来たときは「希望に燃えていた」という。しかし、ダヌカ少年は性急過ぎた。この時の偽名による渡航が、後年、彼に地獄の責苦を味わう種となったのだ。
ダヌカさんは、早速、友人の紹介で土木の仕事に就いた。彼が就労していた当初は、日本の官憲も、外国人への風当たりも穏やかだった。警察の職務質問に遭っても、ビザを持たずにお咎めが無かったという(外国人登録証は取得)。
しかし、2002年に法務省、警察庁、厚労省が協働して「不法就労等外国人対策」を開始。背景には当時国内にいた23万人もの不法残留外国人の存在がある。
ダヌカさんは、土木、溶接、住宅基礎工事等の仕事に就いて働いていたが、26歳の年に、不法滞在と認定され、スリランカに送還されている。
■「500万円払えば出してやる」
だが、2010年、日本で知り合った同年代の「ヤマモト」という日本人から連絡があり、「日本とスリランカでビジネスをしよう」と商談を持ちかけられた。日本にはお世話になったので、何か自分が日本との橋渡しできるのではないかと考え、今度は「本名」を記載したパスポートで来日した。
しかし、ヤマモトは、ダヌカさんの期待を裏切った。
いわゆる詐欺師だったのだ。ヤマモトと再会したダヌカさんは、直ぐに千葉県八千代市のアパートに監禁された。
ヤマモトは「俺の会社の株を500万円分買ってほしい」というものだった。条件を飲めば解放されたかもしれないが、ダヌカさんは断り続けた。「じゃあ、カネを貸してくれ」と言われたが、抵抗し続けた。
業を煮やしたヤマモトは、ダヌカさんを21日間監禁した後、警察に連絡し、不法入国者の拘束を要請した。
2010年11月、ダヌカさん曰く「私服警官と青い制服の入管職員、あわせて10人ほどが軟禁場所に来た」という。警察官に自身が監禁されていた事実を訴えたが、「『嘘を言うな』と言われ、聞く耳を持たなかった」(ダヌカさん)。
ヤマモトからは「500万円払えば、ここから出してやる」と言われたそうだが、ダヌカさんは一蹴した。
■入管職員が執拗に聞いてきたこと
警察署での取り調べの後、入管施設に移送されたダヌカさんの前に、入管職員は一回目に来日した際の資料を置き、「これは誰だ」と詰問した。ダヌカさんは「一回、(チャミンダという偽名で)日本に来たけど、今回は本名です」と申告するが、聞き入れられない。この質問に何の意味があるのか分からないが、職員たちは机を叩きながら大声で同じ質問をされたという。
威嚇のような取り調べが、連日3~4時間行われた。
この時、ダヌカさんは、国の重要なインフラ事業のお金を預かっていた(額面にして1億円)。ヤマモトの軟禁時から「一日も早く帰国しなければ」という焦りがあった。この入管での取り調べを受けている暇はなかった。
入管職員は「前の名前(チャミンダ)」を認めるように迫った。
当時、ダヌカさんには母国での事業を考えて「一日も早く帰国しなければ」という焦りから、前の名前(偽名)を認めた。
「でも、これがいけなかった」とダヌカさんは回想する。
「認めた途端、入管法違反で、2年の実刑判決を受けました。何よりダメージが大きかったのは、警察に移送後、ダヌカという本名を名乗ることは許されず、チャミンダとして生きなくてはいけなかった」(ダヌカさん)
■刑務所ではなく入管施設が地獄だった
なぜ本名を名乗れないのがダメージなのか。ダヌカさんは偽名のチャミンダという名前でしか本国に手紙が出せなくなったのだ。取り調べの件は両親も関係者も知らないので、外部との連絡が完全に絶たれることになったのだ。異国の地での絶望は想像して余りある。

ダヌカさんは、入管法違反の罪で横浜刑務所に収監された。
2011年8月に収容された刑務所は「意外にも優しい場所だった」とダヌカさんは語る。刑務官はダヌカさんが直面する問題に理解を示し、日本語や法律を教えてくれた。刑務作業も高齢受刑者の介護などの仕事を与えてくれたため、人間として人の役に立っているという自己肯定感が満たされたという。
一方、インフラ事業のお金を預かっていたまま、スリランカに帰国できていないため、スリランカ政府は「カネの持ち逃げ」と疑った。ダヌカさんの口座は凍結され、資産は国に没収された上、2名の元大臣による迫害の標的(私兵による暗殺可能性)になったという。
2013年2月、刑務所を満期で出たダヌカさんを待っていたのは入管への再収容だった。本人曰く「刑務所は刑期があり、出所日を目標に頑張ればいい。しかし、入管はいつ出られるか分からない。何より、自分の経験から、人間として扱われていない気がする」と、思い出すのも辛そうに言葉を吐き出した。
■医師からの「点滴を打つ必要はない」
2013年8月、ダヌカさんは本名での扱いを求めて裁判を起こした。同年11月に仮放免されるも、2017年、東京高裁で敗訴した。
そして代理人のミスにより上告することが叶わず、同年7月に東京入管に再収容され、2018年5月には牛久入管に移送された。
この施設では、チャミンダとしての扱いを徹底されたため、スリランカ大使館からの郵便すら届かなくなった。
「ウィシュマさんの事件は悲劇だった。しかし、私が先に死んでいてもおかしくなかったのです」ダヌカさんは当時を思い出すと感情が高ぶるようで、言葉に詰まりながら口を開いた。
2019年8月頃には、いつ終わるかわからない収容への不安からうつ病を発症。食事が摂れなくなり、水も喉を通らない。かつて70キロあった体重は47キロになり、ついには言葉すらも発することが困難になったという。
ダヌカさんは、身体の衰弱が自覚できたので、「点滴を打ってほしい」と訴えたが、女性の医師から「打つ必要はない」と却下された。患者の身体に一切触れることなく、どうして断言できるのか不思議だったという。
おそらく、「早く仮放免をとりたいからわざと食事しないのだ」と考えたのではないかと推測する。死のうと思ったが、もはや自死する力も残っていなかった。
2019年の夏。緩慢な死への秒読みが始まった。
■命を救った国会議員質問
ダヌカさんをギリギリのところで救ったのは支援者たちだった。彼らはダヌカさんの窮状を訴えるロビー活動を続け、初鹿明博議員(当時)と接触。
初鹿議員は2019年11月27日、法務委員会において、以下のような質問を行った(第200回国会、衆議院法務委員会)。
「ダヌカさんは今後どうなるんでしょうか。在留も認められないでずっと入管施設に収容されていて、帰るといっても、もし本人がもう帰りたいと言っても、ダヌカのパスポートじゃないとスリランカは受けませんと言っているという状況だと、帰れないですよね。そうなると、理論上、ダヌカさんは死ぬまで入管施設に収容され続けるということになるんですが、大臣、そうなるということでよろしいですよね」
ダヌカさん曰く、法務委員会の質問後にようやく点滴を打ってもらえたという。もっとも、外部の精神科医師が指示したブドウ糖液の点滴ではなく、看護師が告げたのは「ブドウ糖は入っていない」という冷酷な言葉であった。それでもこの点滴を3~4日続けることで、身体が楽になってゆくのが分かったと言う。
ダヌカさんが仮放免を受けたのは、2019年12月26日であった。収容中の感想を求めた筆者に語ったダヌカさんの言葉は少なかった。
「あそこは地獄だった」と。
仮放免後、ダヌカさんは運転免許証を取得した。その際、入管があれほどまでにこだわっていた偽名(チャミンダ)ではなく彼の本名を県公安委員会はあっさりと認めた。

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廣末 登(ひろすえ・のぼる)

龍谷大学嘱託研究員、久留米大学非常勤講師(社会病理学)

博士(学術)。1970年福岡市生まれ。北九州市立大学社会システム研究科博士後期課程修了。専門は犯罪社会学。青少年の健全な社会化をサポートする家族社会や地域社会の整備が中心テーマ。現在、大学非常勤講師、日本キャリア開発協会のキャリアカウンセラーなどを務める傍ら、「人々の経験を書き残す者」として執筆活動を続けている。著書に『若者はなぜヤクザになったのか』(ハーベスト社)、『ヤクザになる理由』(新潮新書)、『組長の娘 ヤクザの家に生まれて』(新潮文庫)『ヤクザと介護――暴力団離脱者たちの研究』(角川新書)など。

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(龍谷大学嘱託研究員、久留米大学非常勤講師(社会病理学) 廣末 登)
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